“ “を満たして、あと何度。

 黄昏刻。

 眼前で遊んでいた子供達が、夕やけ放送を合図に散っていく。
 喧騒は去り、雑踏も失せ、最後までブランコを漕いでいた一人の少年も、名残惜しそうな面持ちで、とぼとぼと帰った。

 西日が山並みに没していく。
 地平線で焔のように揺らめいて、次に光を求める場所へと転じていく姿は眩しい。
 その大きな光の裏側を見んとすれば、直に人目から埋もれた闇の海が、満潮となる。

 朧月がせり出そうとしても、流雲が次々と押し寄せて、彼方此方に点在する星々でさえもを不確かなものにさせてしまった。
 月は見えぬまま、行灯から洩れる淡い幽光のように、ひらひら上空で手を振っている。

 家に帰る時間になるまで、人気のない廃れた公園のベンチで独り気を紛らわせていた俺は、漸くその腰を上げた。

 制服の袖はまだほんの少し湿っていて、目元が重く熱を持っている。
 激しく錯綜していた脳内は、今や見る影もなく殺風景になり、判然としない意識の中でも、明瞭にその感覚だけが分かった。

 水中を歩くような足取りで、在るべき場所へと進む。
 線香花火のような力しか残っていない街灯が、自分の影を曖昧にしていくと、この世にいる実感さえもあやふやになった。

 帰巣本能とは醜いもので、帰る家とすら呼べない場所には、ものの数分で辿り着けてしまう。
 浠の元には今や、戻れもしないのに。

 玄関扉の磨りガラスから、リビングの灯りが漏れ出ている。今朝方捨てたばかりの生ゴミの袋が、また一つ二つと増えて放棄されているのを見て、呆然とした。

 命の縮む思いも霞んで、俺は施錠のされていない扉を開けた。

 一本伸びる薄暗い廊下から、自室に繋がる階段を上がる。隣室から漂う、強い香水の匂いに頭痛を覚えて、早々に部屋の扉を閉め、ずるずるとその場に座り込んだ。

 首の重みがない。
 携帯の液晶画面に、何時も表示されている浠からの通知もない。

 完全に、この世界で独りぼっちになったような気がした。
 けれどそれで良いと、割り切っている。

 俺は制服のまま、這うようにしてベッドへあがり、身を沈めた。
 もう浠を変に勘繰ること、疑うこともしなくていいのだし、あの赤い目に縛られることもないのだから、と天井を見上げながら言い聞かせる。

 事件の話は、墓まで持っていこう。
 蛇神様の伝承は、ただの言い伝えに過ぎないと信じよう。

 俺は背信者であると、生涯自分を責めるだけが、今生きる精一杯の償いだ。

 浠は。

「……浠、今頃──」

 いや、考えても無駄だろう。

 語られないことを選んだなら、それ相応にしているべきだ。アイツを孤独に押しやったなら、一番孤独に藻掻いて、苦しんで、死んでいくべきだ。

 俺は思考を放棄して、徒に時間を消費する。
 静寂だけが存在するこの空間では、自分の胸の上下する音さえ、耳障りでならない。

 一定の呼吸より、夜風にそよぐ木々の葉擦れの方が、きっと遥かに心地良いことだろう。
 けれど今はこの光の届かない水底に居るだけでいい。

 その内、重い瞼のせいか、微睡みへと誘われ、俺は意識を手放した。


 ***

 もう暫く見ないだろうと思っていた、昔の夢を見た。

 それは自分自身でも思い返すことの出来ない、累々と重なる記憶の奥底に埋もれていた思い出で。

 その日は風が強く吹き、海は空の色を忘れて大いに荒れていた。

 皆が外に出ることも憚るような悪天候に見舞われていたが、俺はふらふらと何時ものように野外を徘徊し、雨風も厭わず水平線を眺めていた。

 暗雲が立ち込め、頭上でゴロゴロと雷神が鼓を打つ音が聞こえ始めると、俺はふっと漠然とした不安に駆られ、岬ノ神社の方角を見やる。

「蛇神さまが──っ」

 追い風に押され、泥濘に足を取られながら転がるように、あの場所を目指していた。
 靴の隙間から雨水が入り込み、素足に砂利が食い込む感触が気持ち悪い。

 次第に重くなる足取りを煩わしく思いながらも、人っ子一人居ないグシャグシャになった畦道を息を切らして疾走した。

 長い参道を震える膝で駆け昇り、ぬかるんだ境内の裏手を掻き分けて進む。
 生い茂る草に肌を切られても、足を滑らせて地面に雪崩れ込んでも、獣のようにあの神社へ向かった。

 蛇神様が、どうか波に攫われていないようにと願いながら。

 どうにか辿り着いた先には、廃れた石鳥居が今にも千切れそうな程に、ばたばたと紙垂をはためかせて、此方を出迎えていた。

「あ……」

 指呼の間に在る祠の御扉は、暴風に耐えかねて、軋んだ音を立てて開け放たれている。
 その中にあるはずの、御神体が無い事に気付き、幼かった俺は愕然とした。

「蛇神様、どこ、」

 例え物言わぬ石塊であろうと、家族よりも、何よりも、自分の孤独を知っている存在が失われる事に強い拒絶を覚える。

 濡れた前髪をかきあげて、必死に付近を探してみれば、祠の裏──崖端《がけばた》に今にも転がり落ちそうなソレが在った。

「いた!!」

 慌てて拾い上げようとするも、海の藻屑になれと言わんばかりの強風に、小さな体躯では抗えず、踏ん張る足元が心許なくなる。

 一歩進み出るにも出られず、勇気は小さく萎んで後ろに退けと警鐘を鳴らした。

 それでも俺は歯を食いしばって、恐る恐る手を伸ばし

「あと、少し……っ」

 何時崩落しても可怪しくはない中で、命よりも神の御霊を取ったのである。

「取っ、た、大丈夫か、蛇神様……!!」

 あとほんの少しでも、先端に体を預けていたら、この身諸共、大渦に呑まれ贄となっていたことだろう。
 急ぎ鳥居の柱まで身を翻《ひるがえ》して戻り、震える手の中に納まる御神体を見てやる。

 すると

「右目にヒビが、どうしよう……」

 その片目の窪みに、傷ましい亀裂が入っていた。

 この大雨では何処の店も開いてはいないし、御神体を勝手に持ち出すのも御法度ものだろう。当時は、酷く狼狽して、何度も鳥居と獣道を往来しかけた。

 そこでふと夢を見る自我が浮上する。

 そうだ、俺が絆創膏を貼ったのはこの嵐の翌朝だったと。

 幼い俺は、いけないことだと分かっていながら、その御神体を衣服の中に包み隠して、家まで持ち帰ってしまったのだ。

 捨て犬でも見つけたように、こそこそと家に帰り、リビングで酔い潰れた母親の目を盗んで、自室にそれを運び込んだのである。

 それから、あの絆創膏を施した。

「これでもう大丈夫だからな、きっと治るから」

「今日は独りぼっちで、あんな怖い所に居なくていいんだ。俺と一緒にお布団に入って寝よう、いいな」

「俺は、ぶったりなんかしねえし、怒鳴ったりもしねえ。怖い夢を見たら、俺が追っ払ってやる」

 神様だって、怖い思いくらいする。
 神様だって、誰かに泣きつきたい夜もある。
 神様だって、叩かれたり怒鳴られたりするのは嫌だろう。

 神様だって、怪我をしたら慰められたいし、護られたいんだ。

 そう、思った。

 純粋な幼心で、あたかも同じ血と肉体を持った生身の人間のように、接していた。
 触れる皮膚では、熱を持たぬ石肌の、雨を吸った冷たさのみが伝わってくる。
 俺にはそれが血の通った者たちよりも、人らしく温もりのあるように思えてならなかった。

 俺が夢で思い返すのは、何時も蛇神様に世話を焼くものばかりだ。
 お呪いをかけるように、幾度も幾度も、その残像を抱きしめる。

 浠が現れてからは、そんな日々も歳月と共に薄らいでいったけれど、記憶には確かに蛇神様と密かに過ごした思い出があった。

 もう永遠に、眠りの中でだけ蘇る往時《おうじ》に生きていたいと希《こいねが》う心がある。
 泡沫の如く、儚く消えてしまう運命《さだめ》だとしても、同じように泡と帰せるならば、本望だった。

 でも蛇神様。俺は浠を独りぼっちにしたよ。
 アンタとの約束を破って、受け入れてくれる存在を拒んだんだ。
 どれだけ待っても、何度同じことを繰り返しても、俺は満たされることが怖いんだろう。

 だからもうここには、何も無い。空っぽだ。

 再び、既視感が訪れる。

 白蛇が暗闇に浮かぶ俺の周りを取り巻いて、ずるずると腹這いに巡っている。
 腕や身体に艶めいた角鱗《かくりん》がひたひたと密着していき、塒の中に閉じ込められていく。

 こちらをじっと見つめる赤い双眸は、どこかうら悲しく感じた。

「……蛇神様。俺は、どうすりゃ良かったんだ」

「五人の失踪事件を聞いた時、浠から指輪と首飾りを貰った時。絆創膏を剥がした時……頭ン中で一気に全部が点と線で繋がって、怖くなった」

「体が言うこと聞かなくなるのが怖かったんじゃねえ。ずっと特別って言い合ってたのが、壊れるのが本当は怖かったんだ」

「俺には浠しか、いなかったから、だからアイツが、俺の知らない所でなにかしてるのも嫌だったんだ……っ」

 白蛇の顔が迫り来て、俺の肩に寄せられる。
 唯ならぬ圧に、心臓が麻痺しそうになって、身を強ばらせると、その口が初めて開いた。

 食われる──ッ。

 俺は反射的に目を瞑り、息を止めた。

 しかし、その時は訪れず、蛇は寄り添うように俺に身を委ねる。横一文字に細められた弓形の目は、柔く穏やかで、不思議と泣きそうになった。

「へび、がみさま……?」

 ちりん。

 その時、遠くの方で小さく鈴が鳴った。
 音はやけに鼓膜に響いて離れず、次第に大きくなっていく。

『────まで───待て。』

 鈴声に掻き消されていくさなか、不意に懐かしい香りが鼻腔をくすぐり、耳元に微かな声がした。

「え、今なんて……」

 少しずつ、段々と、脳を揺らされ、身体を上へ上へと押し運ぶ。

「ま、待って、蛇神様……っ、俺はまだ!!」

 一際大きくこだました鈴の音の残響と共に、景色が白んで、白蛇の姿は瞬く間に光の中へと吸い込まれていった。

 一縷《いちる》の望みを引きちぎった俺は、宙ぶらりんの状態で、再び虚無を彷徨う。
 しかしその、遥か彼方で、誰かが自分の名前を頻りに呼んでいる。

 耳馴染みのいい、記憶に染み付いて離れない声だ。

 これは──。

「…………ょー……ゃ……ん」


「きょー……ちゃ……ん」

 浠だ。

「きょーちゃん!!」

 浠の声だ。

 俺の胸に込み上げる熱さは、その名前を呼ばれる度に温度を増していく。

 けれども、ヤツの声は普段の和やかさを欠いていた。

「浠?」

「きょーちゃん、目覚まして!!!」

 そうして俺は、長い走馬灯を経て、覚醒した。


 ***



「──ッッ!!!っう、う"」


 夢の中の浠に急かされて、俺は現へと息を吹き返す。

 酷く汗をかいた状態で、やけに呼吸も荒く、身体がじっとりと湿り気を帯びていて不快である。
 視線の先には自室の暗い天井と、窓から射し込む寂光が映り、夢の延長上にないことを実感し安堵した。

 しかし、どうにも違和感が拭えない。

 この身体に伸し掛る重みはなんだろうか。

 ぎい。ぎい。

 ぎし。

 ぎしり。

 スプリントの軋む音、己の体重以上に沈み込むベッド。腹部に感じる違和感、それと──

 俺ではない誰かの弾んだ息遣い。

「んっ、ン"、……ッ!?!?」

 頭を持ち上げ見下げた先にあったのは、小暗い室内でも形の分かる黒い"頭"。

 それは下腹部あたりでもぞもぞと蠢いて、低く呻き声を上げている。
 徐々に意識に追い付こうと、脳は忌避感と裏腹に、凡ゆる神経を介して感触や刺激を余すことなく拾った。

 途端にぞくぞくと虫唾が走り、全身の筋肉が強ばっていく。

 この黒い影の正体が、紛れもないあの男であると認識するのに、然程時間は要さなかった。

「チッ……起きやがったか、興が冷めるじゃねえか……」

 怒気を孕んだ舌打ちと、吐き捨てられた文句が心臓に響く。ひりついた緊迫感を帯びる室内は、今にも全身を引き裂かんとばかりに、刻々と処刑の時を待っている。

 俺はこれから起こる危機感を察知して、逃れようとするも、四肢が思うように動かない。
 見れば、両手足にガムテープを何重にも巻かれている。
 動かす度に、ぎぢぎぢと糊の擦れる音がした。

「あー……。死にたくなけりゃデケェ声出すな。隣のヤツにバレるなんざどうだっていいが、気分が萎えちまうからよ」

「お前はあの女の代打だ。そろそろ鮮度が落ちてきて、捨てちまおうとも思ったんだが……まァ、こんなクソ田舎じゃ良い女もロクに居やしねぇわけで」

「ここまで言やァ分かんだろ?ガキじゃねぇんだからよ」

 男はそう言いながら、自身のスラックスに着けられたベルトを外していく。
 口さえ塞がれていて、くぐもった音しか発せない今、抵抗は虚しい。

 その慣れた手つきと、事の意味に戦慄して、俺は精一杯身を捩る事しか出来なかった。

「てめェも童貞ってわけじゃ、ねえだろ?っま、童貞じゃなくても処女ではあるか。くっ、はははははッ!そりゃそうか!」

 幻想の浠が、起きろと叫んだ理由が今になって明瞭になっていくのを感じて、あまりの恐怖に冷や汗が背中を伝う。

 意識が落ちている間に寛げられたであろう、ワイシャツの間に滑り込む男の手は、刃針の如く腹部を撫で、下へ下へと這っていく。

「ほら、あの女みたいに興奮してみろよ」

 母親を嬲った手と同じ手指が、己の下半身にひたりと触れる。

「ん"ぐ、ッん"ーーーー!!!──ッう"!?」

 喉が痛む程に、唸り声を上げた途端、右頬に衝撃が走る。

「黙ってろっつったろ、物分かりの悪ィガキだな」

 この時、俺はやっと思い出した。

 却ってきた、浠と出会う前の現実を。
 決して埋まることのない抉れた傷と、その悪夢を。