「……きょーちゃんの事、分かってないってどういうこと」
俺は鳩尾を抑える浠を他所に、ベッドから離れながら、乱れかけたワイシャツの襟を直した。
沈黙を貫く俺に「美夜」と、か細い声で名前を呼ばれる。その声が心臓を巡る脈を握りこんだ。
「お前、俺だけの神様なんだろ。俺が、なんでお前を憎まないのか分かるか」
浠は首を縦にも横にも振らない。
それがまた棘となり、胸を貫く。
「特別だったからだ。好きだったから、何だって良かった。……神様には簡単すぎて逆に難しかったかもな」
この嘲りは、半ば自虐でもあった。
浠の事を誰よりも、何よりも理解していると過信していたのは自分も同じだった。
傍に居続けたからこそ、知らない事などは微塵もないのだと、浠の心や体を知った気になって、悦に浸っていたと言っていい。
親や周囲の大人、剰え同年代の子供にも、存在を蔑まれる俺にとって、釣り合いの取れた天秤に、心を置く場所をくれる浠という人がいとおしいと思った。
碌に愛さえ知らず、他の愛に割く心さえも存在していなかったから、全て捧げる事に抵抗はなかった。
浠もまた俺の気持ちが分かるだろうと、思い続けてきた。
それが孤独に殺されかけていた幼少期の背丈で、精一杯見てくることのできた世界だ。
「……俺は、お前の事分かったつもりでいた。特別同士だから、知らねえ事なんてお互い何一つねえよなって安心してた」
けれどそれは違う。
「でも、蛇神様の事が分かる度に。……お前が俺に話してねえことなんて、山ほどある事を知った。嘘も誤魔化しも」
「きょーちゃん違うよ、それは」
「何が違ぇんだよ」
胸がやけに苦しい。
コイツに覚えた感情が苦しいから、吐き出したというのに、何故だか殊更、溺れているように息継ぎが難しくなる。
これは真実を知ろうとする恐怖のせいか、絶望のせいか。
浠の、俺の吐露を聞いて目を見開いたまま硬直している姿が、やけに心を掻き毟る。
「ずっと聞かないフリしてた。いつか話してくれると思ってたから。お前が嘘じゃねえって言うなら、それが本当だって信じてた」
「でも、このままじゃ、そんな日は一生来ねぇだろうな」
蓋をしていた心の綻びが次第に拡がり、ぶちぶちと歪な音を立てながら、裂かれていく。
浠の燃える茜の穹のような瞳が、薄らいで、恋しかった萌木の色へと映り果てた。
「訳分かんねぇまま、隠されたまま、好き勝手される俺の気持ちが分かるか。……お前にとっての特別って、本当はなんだよ」
思えば浠と俺は、特別と言い合いながら、その本質的な部分が曖昧であったのかもしれない。
「オレにとっての特別は、きょーちゃんだよ」
「そんなの、答えになってねえ……ッ!!」
「特別なら、俺がお前に話してねえことを、お前が知り尽くしてるみたいに、俺も同じくらいお前を知っていたかった」
「けど、ダメだった」
肉体関係もなく、精神的な強い繋がりも、全てあるものだと思い込んで、そんな不可思議な証明しようもない情を、あたかも宝物のようにして抱えていた。
けれどその宝物が、何かを犠牲にした上で磨かれる、呪物なのだとしたら。
浠が後ろめる秘密を暴いた時、俺はそれを、受け入れ続けるわけにはいかなかった。
「知った所で……俺はお前の事、どう好きでいたらいいか分からなくなる」
憎みはしない。そんな感情がアイツに湧きはしない。
ただ、また虚しさが心に却るだけだ。
満たされた胸が、少しずつ空いて、破れて。
俺は真に、浠を信じる事を恐れるようになるだろう。
「なあ。蛇神様、本当は怒ってるんだろ?俺が、約束を破るような真似をしてるから。独りぼっちにしちまうような事したから、だから、お前はあんな事しなきゃならなかったんだろ」
寂寞を忘れた胸中が、傷口から溢れ出る黒く禍々しい煙を纏う。
夢と同じ、走馬灯の如く脳裏に過ぎる事件や過去の約束が、頭の片隅で肥大化していくのを、抑えられない。
この感情が何か分からない。
憎しみでも恨みでも、単なる懐疑心でもなく、深い悲哀とも言いきれないのだから。
ただ、一向に明瞭にならない真実を受け止める勇気の無いまま、五里霧中になって手探りで答えを見つけようと足掻いている。
「きょーちゃ……」
「そうでも言ってくれねぇと、俺はお前の事、ダチとも特別なヤツとも呼べなくなっちまう」
天秤が傾き始める。
「洗いざらい教えろよ、浠。お前がくれたコレが、ただの首輪じゃねえって証明してくれ。俺がお前に縋った意味を、壊したくねえから」
浠は何かを語ろうと口を開けて、噤んでを繰り返しているが、その喉からヤツの声が零れることはなく。
また一つ、軋轢が入り、空白を大きくした。
いっそ、綺麗に分断されてしまえば、楽になれるような気さえした。
それでも、俺はその一歩を踏み切れずにいる。
浠が居なければ、生きてさえゆけなかったから、安易に蜘蛛の糸を断てはしなかったのだ。
心根の奥深く、この手さえも伸びぬ場所に在る、日の目を見ぬ蕾が、物憂げに項垂れる。
浠が居なければ、散って枯れるだけの運命を悟っているから、求め縋ってしまうのだ。
「……この願いを叶えるには、俺の魂のが先か?」
けれど。
「っ!!」
自嘲気味に吐いた空論のつもりが、息を詰めた浠の反応によって、現実味を帯びる。
「は、……やっぱりか」
乾いた笑いが、微かに室内に響いた。
かん、と振り切った天秤の皿。
目元に溜まる涙を蒸発させようと、窓から射し込んだ西日は、うるさく此方を照らす。
浠が胸の内を話さなかったのは、渇望する魂を掌中から逃さぬ為だったのか。
はたまた、俺との約束を果たす為なのか。
しかしそれは、俺への罰と表裏一体で。
波のように満ちては引いていく情動は、次第に風に凪ぎもしない、凍てついた水面へと変わりゆく。
俺はそれ以上何も発さずに、首飾りを外し、ベットの方へ再び踵を返すと、浠の力なく開かれたままの手の平へと乗せた。
「……これ、返す」
ぼそりとそう呟く俺を、浠は言葉に詰まりながら返そうと必死になる。
「嫌だ、待って、きょーちゃん」
胸の真ん中をすり抜ける浠の、掠れた声が鼓膜を確かに震わせたけれど、振り向くことはしなかった。
背後でチャリ、と金属が擦れる音がして、想外にも足が止まる。その隙に、浠は俺の腰に手を回して、肩に顔を埋めようとした。
俺はそれを熟れた手つきであしらって、肘で軽く離れてくれと促す。
「っきょーちゃんが傷ついて欲しくなかったから、オレ、」
「……ンなこと分かってる。お前は俺との約束を守ろうとしてるだけだろ。でも俺はそうじゃない」
ずっと一緒にいてやる、と口では言っておきながら、俺は浅ましくも自分の魂が惜しいのか、浠を孤独へ押しやろうとしている。
蛇神様の怒りを買うのも、仕方がない話だ。
俺に罰が下るのも、きっと時間の問題なのだろう。
結局。表面上、事をひた隠しにした浠に絶望しているけれど、根幹は受け入れ切ることの出来ない己へ絶望しているだけなのかもしれない。
蛇神様も、浠という人間も、俺は何一つ護れず、ただ傍観することしか出来ないと、浮き彫りになる思いが只管に痛む。
「ま、待ってよ、美夜。そんな風に思ったことなんかない、オレはずっと美夜の事、特別で大事にしたかったから、傷付ける奴らが許せなくてそれで──」
「蛇神様がそう言ってんのか」
「蛇神の、事は……」
蛇神の名前を出すと露骨に言葉を濁す浠を見て、漠然とした形を帯びていた不信感が集まっていくのが分かる。
「……お前があっち側に居るなら、俺は最初から、同じ場所にすら立ててねえんだ。お前の望み一つ満足に叶えてやれやしない、ただの人間なんざ、もう用済みだろ」
「欲しいもん、満たしてやれなくて悪かったな。蛇神様に謝っといてくれよ」
態と、吐き捨てるようにそう言った俺に、浠は険しい顔をした。
「美夜、」
「……ちょっと頭冷やさせてくれ」
扉に手をかけた俺は、振り向くことなく保健室を後にした。
時間感覚がはっきりとしない、あの空間では、外界の音は完璧に遮断されていたのか、チャイムの音などは一切届きはしていない。
教室に戻る頃には、授業が終わり間休みの時間になっていた。
ふら、と浠を置いて現れた俺に、視線が一気に集中する。担任も、目を向けて一驚した。無理もないが。
さらりと早退の旨を伝えて、俺は一人帰路についた。
帰り際、昇降口で靴を履いている最中、保健室の扉がガラガラと開く音がして、脈が飛ぶ。
横目に一瞥すれば、様子がおかしくなった養護教諭と入れ替わるように、教室へと踵を返す浠の姿であった。
「きょー……」
浠もまた直ぐ気付き、再度俺を引き止めるように手を伸ばしかけていたけれど、そこに養護教諭が通りかかる。
あの赤い目を図らずも直視させられ、操り人形のように自我を失ったにも関わらず、彼女ほ至って平然としていた。
「あら、蘆谷さん。汐月さんは」
「帰りました、今さっき。オレは、教室に戻ります」
端的に会話を終わらせた浠を、数秒交わった視線に囚われたまま、無意識的に凝望していた。しかし、アイツは顔を伏せて罰が悪そうに階段をゆっくりと上がって行った。
じくり、と胸が抉られる。
その痛みを無視して、俺は校舎を出た。
浠と出会って以来、たった一人で帰ることなど、滅多になくなっていた。
こんなに静かな帰り道は、何時ぶりだろうか。
永遠に続く田園風景の先に見える空と海の境目が、碧空を残しながら、朝焼けの時のようにぼやけ、彩やかに光っている。
青々しい若苗を揺らす白南風が、屡々頬を切るように吹き抜けていく。
その度に無造作になっていく前髪が鬱陶しくてならないが、整えようとする事もせずに、畦道を歩き続けた。
時折、先刻を思い出した脚が、まるで引き返せとでも言うように、武者震いをする。
家に帰れる時間でもないにも関わらず、考え無しに学校を飛び出してきたせいで、俺は路頭に迷った徘徊者になった。
待ち合わせの横断歩道に差し掛かり、今朝方、浠が見つめていた祠が目に入る。
俺は一度足を止めて、気を取られたけれど、アイツの顔が記憶に滲んでいく事に耐えられず、早々に通り過ぎた。
小石が爪先に弾かれて、ぽちゃんと水路に落ちる音や、閑古鳥が物憂げに鳴く声がする。
自然に溶け込み、過去に染み行き、ふと思い返す時に、慈雨のような心地良さを覚えるはずの、雅景だった。
そんなものでさえ、今は全て季節が死んだような視える。
浠が隣に居ない世界は、想像以上に呆気ない平凡さを煮詰めたものになってしまうのだと、少しばかり傷心した。
それもこれも、突き放した自分のせいでもあるのだが。
一体何時から、俺の心は満たされた気に、浠を満たした気になったんだ。
何を踏み外してから、虚脱感に目を瞑るようになっていたのだろう。
浠が蛇神であるかもしれない、というあまりに奇想天外な現実が、身体を巡る静寂を混乱させていく。
違うと嘘でも信じてやることが、せめてもの贖罪のような気がした。
そうする以外で、償う方法を、俺は誰からも教わることは出来ない。
盛夏の日照りに耐え忍んでいた肌も、いよいよ泣き始めて、一筋首筋に滴が伝う。
かぶれるからと、扇いでいた首襟の下で擦れる飾りはもう無い。
退けようとした指先は、虚しく肉肌を撫ぜただけに終わる。
「……奪われちまうかもしれなかったもんな」
「あんな綺麗な首飾り、壊されたら溜まったもんじゃねえし、バレないように持ってんのも大変だったし」
「別に無くても……」
自分に言い聞かせるように、肌が覚えている重みをはぐらかした。
あの首飾りがあるだけで、浠がずっと傍にいるような気がしていたけれど、もうその安堵は此処にない。
寄るべのない夜が、これから容赦なく襲いかかって来るだろうが、盲目的に救いを乞える物は捨て去ってしまった。
孤独の波にどれほど攫われようと、岸に戻れる舟は永遠に来ないだろう。
俺は、独りになることを選んだのだから、それでいいのだ。蛇神様の餌食となって無残に食い散らかされようと、後に魂をも支配されようと、腹は決まっていた。
なにも、喜んでそうしているわけではない。そうせざるを得ないならば、無様に情けなく足掻くだけ格好悪いと思っているのみである。
俺と浠は些か、繋がりすぎた。
それ故に、互いを疑わず、拒まずにいる時間も長かったのだ。
五人の失踪も、浠の好意も、あの赤い目も。
そして、蛇神も。
「俺はお前を知るほど、お前が分かんねえよ。浠」
アイツが俺を好いている理由が何なのか。
蛇神様について頑として語ろうとしないのは何故なのか。
それにも関わらず、その存在を仄めかしては朧に掠めていくのはどうしてなのか。
果たして本当に、俺と浠の出会いは偶然の産物と呼べるのだろうか。
ただの好意なら、アイツが神様なら、人智も及ばぬ、人間など到底逆らえっこない力でも行使して、俺を殺せばいい。
そうしてあの世に連れ去ってしまえば簡単にかたが付く話じゃないか。自分まで傷つかずとも、それで済むだろうに。
「あ”~~……クソ、ッ、ちくしょう……ッ」
躍起になって吐き捨てた雑言は、降り始めた通り雨のように地面に落ちていく。
俺はただ、ぼた、ぼたと淡く滲んでいくそれを暫く睨んでいた。
俺は鳩尾を抑える浠を他所に、ベッドから離れながら、乱れかけたワイシャツの襟を直した。
沈黙を貫く俺に「美夜」と、か細い声で名前を呼ばれる。その声が心臓を巡る脈を握りこんだ。
「お前、俺だけの神様なんだろ。俺が、なんでお前を憎まないのか分かるか」
浠は首を縦にも横にも振らない。
それがまた棘となり、胸を貫く。
「特別だったからだ。好きだったから、何だって良かった。……神様には簡単すぎて逆に難しかったかもな」
この嘲りは、半ば自虐でもあった。
浠の事を誰よりも、何よりも理解していると過信していたのは自分も同じだった。
傍に居続けたからこそ、知らない事などは微塵もないのだと、浠の心や体を知った気になって、悦に浸っていたと言っていい。
親や周囲の大人、剰え同年代の子供にも、存在を蔑まれる俺にとって、釣り合いの取れた天秤に、心を置く場所をくれる浠という人がいとおしいと思った。
碌に愛さえ知らず、他の愛に割く心さえも存在していなかったから、全て捧げる事に抵抗はなかった。
浠もまた俺の気持ちが分かるだろうと、思い続けてきた。
それが孤独に殺されかけていた幼少期の背丈で、精一杯見てくることのできた世界だ。
「……俺は、お前の事分かったつもりでいた。特別同士だから、知らねえ事なんてお互い何一つねえよなって安心してた」
けれどそれは違う。
「でも、蛇神様の事が分かる度に。……お前が俺に話してねえことなんて、山ほどある事を知った。嘘も誤魔化しも」
「きょーちゃん違うよ、それは」
「何が違ぇんだよ」
胸がやけに苦しい。
コイツに覚えた感情が苦しいから、吐き出したというのに、何故だか殊更、溺れているように息継ぎが難しくなる。
これは真実を知ろうとする恐怖のせいか、絶望のせいか。
浠の、俺の吐露を聞いて目を見開いたまま硬直している姿が、やけに心を掻き毟る。
「ずっと聞かないフリしてた。いつか話してくれると思ってたから。お前が嘘じゃねえって言うなら、それが本当だって信じてた」
「でも、このままじゃ、そんな日は一生来ねぇだろうな」
蓋をしていた心の綻びが次第に拡がり、ぶちぶちと歪な音を立てながら、裂かれていく。
浠の燃える茜の穹のような瞳が、薄らいで、恋しかった萌木の色へと映り果てた。
「訳分かんねぇまま、隠されたまま、好き勝手される俺の気持ちが分かるか。……お前にとっての特別って、本当はなんだよ」
思えば浠と俺は、特別と言い合いながら、その本質的な部分が曖昧であったのかもしれない。
「オレにとっての特別は、きょーちゃんだよ」
「そんなの、答えになってねえ……ッ!!」
「特別なら、俺がお前に話してねえことを、お前が知り尽くしてるみたいに、俺も同じくらいお前を知っていたかった」
「けど、ダメだった」
肉体関係もなく、精神的な強い繋がりも、全てあるものだと思い込んで、そんな不可思議な証明しようもない情を、あたかも宝物のようにして抱えていた。
けれどその宝物が、何かを犠牲にした上で磨かれる、呪物なのだとしたら。
浠が後ろめる秘密を暴いた時、俺はそれを、受け入れ続けるわけにはいかなかった。
「知った所で……俺はお前の事、どう好きでいたらいいか分からなくなる」
憎みはしない。そんな感情がアイツに湧きはしない。
ただ、また虚しさが心に却るだけだ。
満たされた胸が、少しずつ空いて、破れて。
俺は真に、浠を信じる事を恐れるようになるだろう。
「なあ。蛇神様、本当は怒ってるんだろ?俺が、約束を破るような真似をしてるから。独りぼっちにしちまうような事したから、だから、お前はあんな事しなきゃならなかったんだろ」
寂寞を忘れた胸中が、傷口から溢れ出る黒く禍々しい煙を纏う。
夢と同じ、走馬灯の如く脳裏に過ぎる事件や過去の約束が、頭の片隅で肥大化していくのを、抑えられない。
この感情が何か分からない。
憎しみでも恨みでも、単なる懐疑心でもなく、深い悲哀とも言いきれないのだから。
ただ、一向に明瞭にならない真実を受け止める勇気の無いまま、五里霧中になって手探りで答えを見つけようと足掻いている。
「きょーちゃ……」
「そうでも言ってくれねぇと、俺はお前の事、ダチとも特別なヤツとも呼べなくなっちまう」
天秤が傾き始める。
「洗いざらい教えろよ、浠。お前がくれたコレが、ただの首輪じゃねえって証明してくれ。俺がお前に縋った意味を、壊したくねえから」
浠は何かを語ろうと口を開けて、噤んでを繰り返しているが、その喉からヤツの声が零れることはなく。
また一つ、軋轢が入り、空白を大きくした。
いっそ、綺麗に分断されてしまえば、楽になれるような気さえした。
それでも、俺はその一歩を踏み切れずにいる。
浠が居なければ、生きてさえゆけなかったから、安易に蜘蛛の糸を断てはしなかったのだ。
心根の奥深く、この手さえも伸びぬ場所に在る、日の目を見ぬ蕾が、物憂げに項垂れる。
浠が居なければ、散って枯れるだけの運命を悟っているから、求め縋ってしまうのだ。
「……この願いを叶えるには、俺の魂のが先か?」
けれど。
「っ!!」
自嘲気味に吐いた空論のつもりが、息を詰めた浠の反応によって、現実味を帯びる。
「は、……やっぱりか」
乾いた笑いが、微かに室内に響いた。
かん、と振り切った天秤の皿。
目元に溜まる涙を蒸発させようと、窓から射し込んだ西日は、うるさく此方を照らす。
浠が胸の内を話さなかったのは、渇望する魂を掌中から逃さぬ為だったのか。
はたまた、俺との約束を果たす為なのか。
しかしそれは、俺への罰と表裏一体で。
波のように満ちては引いていく情動は、次第に風に凪ぎもしない、凍てついた水面へと変わりゆく。
俺はそれ以上何も発さずに、首飾りを外し、ベットの方へ再び踵を返すと、浠の力なく開かれたままの手の平へと乗せた。
「……これ、返す」
ぼそりとそう呟く俺を、浠は言葉に詰まりながら返そうと必死になる。
「嫌だ、待って、きょーちゃん」
胸の真ん中をすり抜ける浠の、掠れた声が鼓膜を確かに震わせたけれど、振り向くことはしなかった。
背後でチャリ、と金属が擦れる音がして、想外にも足が止まる。その隙に、浠は俺の腰に手を回して、肩に顔を埋めようとした。
俺はそれを熟れた手つきであしらって、肘で軽く離れてくれと促す。
「っきょーちゃんが傷ついて欲しくなかったから、オレ、」
「……ンなこと分かってる。お前は俺との約束を守ろうとしてるだけだろ。でも俺はそうじゃない」
ずっと一緒にいてやる、と口では言っておきながら、俺は浅ましくも自分の魂が惜しいのか、浠を孤独へ押しやろうとしている。
蛇神様の怒りを買うのも、仕方がない話だ。
俺に罰が下るのも、きっと時間の問題なのだろう。
結局。表面上、事をひた隠しにした浠に絶望しているけれど、根幹は受け入れ切ることの出来ない己へ絶望しているだけなのかもしれない。
蛇神様も、浠という人間も、俺は何一つ護れず、ただ傍観することしか出来ないと、浮き彫りになる思いが只管に痛む。
「ま、待ってよ、美夜。そんな風に思ったことなんかない、オレはずっと美夜の事、特別で大事にしたかったから、傷付ける奴らが許せなくてそれで──」
「蛇神様がそう言ってんのか」
「蛇神の、事は……」
蛇神の名前を出すと露骨に言葉を濁す浠を見て、漠然とした形を帯びていた不信感が集まっていくのが分かる。
「……お前があっち側に居るなら、俺は最初から、同じ場所にすら立ててねえんだ。お前の望み一つ満足に叶えてやれやしない、ただの人間なんざ、もう用済みだろ」
「欲しいもん、満たしてやれなくて悪かったな。蛇神様に謝っといてくれよ」
態と、吐き捨てるようにそう言った俺に、浠は険しい顔をした。
「美夜、」
「……ちょっと頭冷やさせてくれ」
扉に手をかけた俺は、振り向くことなく保健室を後にした。
時間感覚がはっきりとしない、あの空間では、外界の音は完璧に遮断されていたのか、チャイムの音などは一切届きはしていない。
教室に戻る頃には、授業が終わり間休みの時間になっていた。
ふら、と浠を置いて現れた俺に、視線が一気に集中する。担任も、目を向けて一驚した。無理もないが。
さらりと早退の旨を伝えて、俺は一人帰路についた。
帰り際、昇降口で靴を履いている最中、保健室の扉がガラガラと開く音がして、脈が飛ぶ。
横目に一瞥すれば、様子がおかしくなった養護教諭と入れ替わるように、教室へと踵を返す浠の姿であった。
「きょー……」
浠もまた直ぐ気付き、再度俺を引き止めるように手を伸ばしかけていたけれど、そこに養護教諭が通りかかる。
あの赤い目を図らずも直視させられ、操り人形のように自我を失ったにも関わらず、彼女ほ至って平然としていた。
「あら、蘆谷さん。汐月さんは」
「帰りました、今さっき。オレは、教室に戻ります」
端的に会話を終わらせた浠を、数秒交わった視線に囚われたまま、無意識的に凝望していた。しかし、アイツは顔を伏せて罰が悪そうに階段をゆっくりと上がって行った。
じくり、と胸が抉られる。
その痛みを無視して、俺は校舎を出た。
浠と出会って以来、たった一人で帰ることなど、滅多になくなっていた。
こんなに静かな帰り道は、何時ぶりだろうか。
永遠に続く田園風景の先に見える空と海の境目が、碧空を残しながら、朝焼けの時のようにぼやけ、彩やかに光っている。
青々しい若苗を揺らす白南風が、屡々頬を切るように吹き抜けていく。
その度に無造作になっていく前髪が鬱陶しくてならないが、整えようとする事もせずに、畦道を歩き続けた。
時折、先刻を思い出した脚が、まるで引き返せとでも言うように、武者震いをする。
家に帰れる時間でもないにも関わらず、考え無しに学校を飛び出してきたせいで、俺は路頭に迷った徘徊者になった。
待ち合わせの横断歩道に差し掛かり、今朝方、浠が見つめていた祠が目に入る。
俺は一度足を止めて、気を取られたけれど、アイツの顔が記憶に滲んでいく事に耐えられず、早々に通り過ぎた。
小石が爪先に弾かれて、ぽちゃんと水路に落ちる音や、閑古鳥が物憂げに鳴く声がする。
自然に溶け込み、過去に染み行き、ふと思い返す時に、慈雨のような心地良さを覚えるはずの、雅景だった。
そんなものでさえ、今は全て季節が死んだような視える。
浠が隣に居ない世界は、想像以上に呆気ない平凡さを煮詰めたものになってしまうのだと、少しばかり傷心した。
それもこれも、突き放した自分のせいでもあるのだが。
一体何時から、俺の心は満たされた気に、浠を満たした気になったんだ。
何を踏み外してから、虚脱感に目を瞑るようになっていたのだろう。
浠が蛇神であるかもしれない、というあまりに奇想天外な現実が、身体を巡る静寂を混乱させていく。
違うと嘘でも信じてやることが、せめてもの贖罪のような気がした。
そうする以外で、償う方法を、俺は誰からも教わることは出来ない。
盛夏の日照りに耐え忍んでいた肌も、いよいよ泣き始めて、一筋首筋に滴が伝う。
かぶれるからと、扇いでいた首襟の下で擦れる飾りはもう無い。
退けようとした指先は、虚しく肉肌を撫ぜただけに終わる。
「……奪われちまうかもしれなかったもんな」
「あんな綺麗な首飾り、壊されたら溜まったもんじゃねえし、バレないように持ってんのも大変だったし」
「別に無くても……」
自分に言い聞かせるように、肌が覚えている重みをはぐらかした。
あの首飾りがあるだけで、浠がずっと傍にいるような気がしていたけれど、もうその安堵は此処にない。
寄るべのない夜が、これから容赦なく襲いかかって来るだろうが、盲目的に救いを乞える物は捨て去ってしまった。
孤独の波にどれほど攫われようと、岸に戻れる舟は永遠に来ないだろう。
俺は、独りになることを選んだのだから、それでいいのだ。蛇神様の餌食となって無残に食い散らかされようと、後に魂をも支配されようと、腹は決まっていた。
なにも、喜んでそうしているわけではない。そうせざるを得ないならば、無様に情けなく足掻くだけ格好悪いと思っているのみである。
俺と浠は些か、繋がりすぎた。
それ故に、互いを疑わず、拒まずにいる時間も長かったのだ。
五人の失踪も、浠の好意も、あの赤い目も。
そして、蛇神も。
「俺はお前を知るほど、お前が分かんねえよ。浠」
アイツが俺を好いている理由が何なのか。
蛇神様について頑として語ろうとしないのは何故なのか。
それにも関わらず、その存在を仄めかしては朧に掠めていくのはどうしてなのか。
果たして本当に、俺と浠の出会いは偶然の産物と呼べるのだろうか。
ただの好意なら、アイツが神様なら、人智も及ばぬ、人間など到底逆らえっこない力でも行使して、俺を殺せばいい。
そうしてあの世に連れ去ってしまえば簡単にかたが付く話じゃないか。自分まで傷つかずとも、それで済むだろうに。
「あ”~~……クソ、ッ、ちくしょう……ッ」
躍起になって吐き捨てた雑言は、降り始めた通り雨のように地面に落ちていく。
俺はただ、ぼた、ぼたと淡く滲んでいくそれを暫く睨んでいた。
