“ “を満たして、あと何度。

「きょーちゃん」

 まるで、図ったようなタイミングで、浠は現れた。

 はっとして壁にかけられた時計を見やれば、もう直、昼休みが終わる頃合いだということに気が付く。

 浠の口角と(まなじり)は、いつもの様に弧を描いているが、その双眸に暖かみはない。脊髄に沿って氷水を掛けられたような、一瞬の空気の変化に、肺が縮こまる。

「蘆谷、委員会おつ〜」

「有り難う秋峯。きょーちゃん、三人で何話してたの?」

「……っそ、れ、は」

 上手く口が回らない。唇が痺れたみたいだ。

「どうしたの。オレには内緒のこと?」

 鎖骨下を這う微弱に震える低音は、嫉妬をいっぱいに吸い込んでいる。
 珍しく他の人間と交流している俺は、浠にとって面白くなかったのかもしれない。

 委縮する俺を他所に、浠は須貝達に見向きもせず、開口するのを強いてきた。

「話したくない?」

 俺は辛うじて機能する首を、必死に横に振ったけれども、浠が自分の意思を受け入れてくれたかまでは察することが出来ない。
 コイツの宝石のような瞳が深紅に濁っていくのが見える。

 須貝達にその違和感は伝わっていないようで、あたかも此処には俺と浠以外存在していないかのようであった。

 常軌を逸した空気に充てられて、ますます心臓が生き急ぐ。

「蘆谷、汐月になんでそんな凄んでんだよー」

「あはは、楽しそうな話してたから混ざりたかったなって思っただけだよ」

 その乾いた作り笑いを、俺が一瞥する一瞬でさえも、浠は逃さない。目が身体中に埋め込まれているのではないか、と気味悪さを覚えて、殊更俺は硬直した。

 鋭い眼光に、神経が焼き切れる感覚がする。

 まだ浠と決まったわけじゃないだろ。
 コイツは俺のたった一人の幼馴染で、友達で。

 ──いや。違う。浠にとっては、俺は友達じゃないのか?

「汐月?……さっきから顔色悪いけど大丈夫?」

「あ、ぁぁ……」

 俺の顔を覗き込んだ須貝に、気遣わしげに声を掛けられるが、鼓動が大きすぎるあまりに、薄ぼんやりとしか聞こえない。

 複雑に絡まりあった感情は結び付けた一つの答えを拒否している。
 結わえられた先の重しは、手繰り寄せる度に心の表皮に深い擦痕を残した。

「きょーちゃん、席戻ろ」

 浠からの友情(あい)が、考える程分からなくなる。

 その時、定刻通りにチャイムが鳴り響き、混沌の中に沈み込んでいた意識を引き上げた。

 俺は地に足つけている感覚を失ったまま、席へと足を進めたけれど、背後には浠の気配が取り憑いていて、冷や汗が滲み出る。

 教師が教室の扉を開け、軽快な口調で授業を始めるも、脳内を揺らす喧騒の煩わしさに言葉一つ拾うことが出来ない。

 開始から数十分が経過し、時を刻む単調な音が、冷静な脳と掻き混ぜられた混沌とした感情の中に割り込んでいく。

 無意識に浠を見遣った途端、俺は縫い付けられたように目が離せなくなった。

 その内、アイツが視線に気付く。

「っ、う"」

 こちらを凝視する浠の、深紅に染まった瞳が心弁を狂わせた。
 全身の血液が逆流しそうな程の、猛烈な吐き気に襲われ、思わず口元を抑える。

 また、またこれだ。

 繰り返す度、増していく苦痛。
 自分の体から魂を引き裂かれるかのような痛みを堪えるように、食いしばった顳顬がぎりりと音を立てた。

 景色がぐるん、と激しく回転して、浠の顔も歪んでいく。

 腹の奥が煮え滾り、内側から焼かれているような熱さが押し寄せ、次第に吸い込む酸素の冷たさを拒んだ。

 声を殺しながら、迫り上がる異物感を飲み込もうと足掻いたけれど、毒を食らっているように麻痺する身体では、それを保つ精神力でさえ摩耗させるばかり。

 このまま意識を失うか、吐き出すかは時間の問題ともいえた。
 まともに呼吸もできず、机に体を凭れていると、不意に肩を叩かれ、脈が飛ぶ。

「汐月」

 それは教師の声だった。

 十中八九、顔を伏せていたせいで、居眠りをしていると思われたのかもしれない。
 しかし、全身が鉛のように重い。崩れた前髪の隙間から、その姿を視認出来るが、呼応する力がない。

「昼休みの後で眠くなるのは仕方ないが……おい大丈夫か?具合、悪いか?」

「辛いなら保健室で休んでも……あー、須貝──」

「先生、オレが連れていきますよ」

 保健委員である須貝に声を掛けた教師の言葉を遮ったのは、浠である。
 薄々こうなると予測はついていたが、あまりに突飛な申し出だと、内心困惑した。

 けれども同時に、失念していた。
 コイツは話を煙に巻くのが達者であることを。否、それだけではない。

 浠には、他言無用の秘密事だって見透かせる。

「須貝君、今足痛めてるので」

「えっ、俺蘆谷に言ったっけ?」

「昨日のバレーボールで挫いたって聞いたからさ」

「そうか。じゃあ蘆谷、頼めるか」

「はい」

 浠が此方に向かってくる足音が、やけに遅く聞こえる。床を叩く上履きのとん、とんという軽い歩調は、俺を追い詰め、逃げ場を失わせるように小気味好く鳴っている。

 今、コイツと二人きりになるのは避けて通りたい道であったのに。

 浠を断る理由も、須貝を指名する理由もない。

「きょーちゃん、保健室行こう」

「みず、……」

 ふっと、伸し掛っていた重力が消える。
 口付けをした時と同じ体感を覚えて、オレは愕然とする他なかった。
 自分の体が完全に浠によって支配されていく感覚に抗えない事を、ただ悔やむ事しか出来ない。

 あの赤い目が、夢に出た蛇の目と、否。
 本当の蛇神と同じなのだとしたら。
 どうして今まで、単なる恐怖心だけで片付けられたのだろう。

「じゃあ蘆谷、お願いな」

 積み重なる懐疑心に苦しみながら、為すがまま、浠に支えられ教室を出た。



「……もういい浠、一人で行ける」

「駄目だよ、階段から落ちでもしたらどうするの」

「ンなヘマしねぇ、戻れよ」

「戻らない」

 頑なに我を通す浠の、強引な姿勢に気圧されて尚、俺は負けじと押し問答を繰り返す。
 保健室に着くまでの間、アイツを離れさせようとする催促は当然続いた。

 しかし結局、浠は俺が拒否する度に、過剰に密着して、首肯する意志など毛頭にないと言わんばかりの横暴な態度を示す。

 流れるままに保健室へ投げ入れられ一驚する俺と、何時になく表情が固い浠を見て、養護教諭が、回転椅子をがたんと揺らして立ち上がった。

「すみません先生。美夜君、体調悪いみたいで、少し休ませてあげてください」

 彼女は忙しなさそうに慌てふためきつつ、ボソボソと何やら独白を吐いている。

「どうしようかしら……私この後会議が入っていて。少し保健室を空けなければならないの。ベッドで休んでいてもらっていいのだけど……一人じゃ心配だしねえ」

「俺、一人でも大丈夫っすよ。少し寝れば治ると思うんで……」

「心配なら、オレが此処に居ますよ。先生が戻ってくるまで」

 そう言う訳にはいかない、と言い、教諭は首を振って、俺と同様に浠へ教室に帰るよう促した。それはそうだ。

 生徒の意見が罷り通るはずもない、教諭として正しい選択をしていると、俺は何度も心中で首肯し、挙句は、安堵の息を漏らす。

「そうもいかないわぁ。貴方は生徒ですから。体育の先生にお願いしてみるから大丈夫よ、教室へ戻ってね」

 教諭は、机の上に散乱した、まとまりきらないファイルや畳まれた書類の数々を、とんとん、と工場作業のように整えながら、室内を往来している。ゆったりと話をしている余裕などは当然、ありはしない。

 浠は宥められながら、教室へ戻るよう急かされるばかりで、望んだ未来を阻まれていた。

「…………邪魔だな」

 けれども、その様を見やる浠の鋭い眼光が、生温い苛立ちを孕んだ禍々しい牙として透けて見えた瞬間、ヤツから再び温度が消えた。

 かちり、と長針が垂直に振り切った時、齷齪動いていた教諭の四肢が電池の切れた玩具のように静止したのである。

「オレに任せて大丈夫ですよ、先生」

 虚ろな面持ちで浠を見つめる教諭は、胸に抱えた資料を持ったまま、外へ爪先を向けた。
 足取りは蹣跚めき、肉体はまるで抜け殻で、操り人形じみた芯のない動きをしている。

「先生?っおい、」

 これに耳すら傾けることなく、生きる死体じみた様子に変貌した教諭を俺は引き留めようとした。
 しかし、その覚束無さに反して、前進する力は凄まじく、単に触れるだけではびくともしない。

「お前、何したんだよ……ッ」

「そろそろ会議の時間だからって、彼女が選んだんだ」

「そういう話してるんじゃねえよ、先生に何したか聞いてンだ!!」

「何もしてない。きょーちゃんだって見てたでしょ?」

 静かな開閉音と共に教諭は部屋を去る。
 二人きりになった空間で、浠が自分の方へ躙り寄ると、全身が粟立ち膝が微かに笑った。

 退こうと引いた体に、ざり、と床板と上履きの底が擦れる音がする。

「見ても分かんねえから聞いて──」

「ねえきょーちゃん。隠し事はダメだよ」

「わ、?!」

 浠は然りげ無く俺の背後へ回り込むと、この背中を強く押した。
 不意を打たれ、前方によろめいた時、錠を下ろす音が鳴る。

 鼓膜が震え、悪寒が走り、間髪なく振り向けば浠が張り付いた笑みを浮かべたまま、ひらひら手をちらつかせた。

 周囲を咄嗟に見回せど、逃げ場はない。

「何、考えてんだ」

「さあ。当ててみてよ」

 思考を奪われる前に、この正常な理性がある内に、退路を見つけなければと血道を上げる。
 しかしそうしている間に、浠は俺の腕を掴みあげ、ベッドの方へ無理矢理に投げやった。

「いっ!!」

 衝撃にカーテンレールが揺れ、スプリングの軋む音が鳴る。
 丁重に敷かれたシーツを、勢いのまま付いた手がぐしゃぐしゃに崩して、その上に雪崩れ込んだ。

 身体が震える。
 焦点が定まらない、合わせるのが怖い。
 覆い被さる影に、あの男の幻影が重なり、肺が怯える。

 浠の匂いに、視界が眩んでいく。

「やめろ、来──ん"ぐ……ッ!?」

「時間切れ」

 声を荒らげかけた瞬間、浠の手が俺の口元を乱暴に塞ぎ、上半身が完全にマットレスに沈み込んだ。

「オレ、悲しかったんだよ。きょーちゃんの特別じゃなくなったんじゃないかって、不安だった」

 手首を縫い付けられるように抑えられ、自由を奪われる。

「知ってるんだよ。須貝達と話してたの、事件の事だって」

 抑揚のない物言いをする浠から放たれた言葉が、俺の意表を突いた。
 あの時、その場に居なかったはずの浠が、あたかも聞いていたかのような口振りでいたからだ。

 俺は首を縦に振ることも出来ずに、切り詰められた肺で精一杯息を吸おうと、踠くだけで精一杯であった。

「蛇神様の神隠し……そんな伝承、もう途絶えたものだと思ってたなぁ……」

「ねえ、どう思った」

 しかし問い掛けに相反して、口元を押さえつける浠の手の力は増している。崩れた前髪の細い線の、僅かな間から若竹色の瞳が垣間見えた。

 添えられた手指の微弱な震えが、直に肉肌に伝わる。

「……きょーちゃんを傷付けた五人が、失踪したのは、第三者のせい?それとも、神様のせい?どっちだったら、許せる」

「もしそれが、大好きな人を護ろうとする為の抵抗だったとしたら?仮に赦したって…………次はきょーちゃんを、殺しちゃうかもしれないとしたら」

 その言葉の裏に、丸め込まれた大きな矛盾が、目の奥で揺らいでいた。

「はは……。優しいきょーちゃんには、難しい、かな」

「無理矢理キスされても、酷いことされても、オレを独りぼっちにしない人間。憎んだっていいのにさ」

「本当に、お人好し」

 "答えないで"。"言わないでいて"。

 "本心を知らないままでいさせて"。

 そんな訴えが、歪んだ口角から滲み出ている。

 なんだよ、それ。

 俺が、お前のことを憎めるわけねえだろうが。
 それを知っているくせに、俺の全部を知っていると豪語するくせに。

 なんで、そんな答えが出るんだよ。

 嘘や欺瞞や、卑劣な欲望に抉られ、空虚で完成されていた心を、幾度も幾度も満たしたのは浠だった。
 愛情なんて聞こえの良い絵空事を、空き箱のままにしなかった。

 絶望を塗り替えられ、生の世界へと引っ張り出され。浠は俺の生命線に成り代わった。

 だからこそ、例え何程恐れていたとしても、浠を捨てる選択肢は俺には無かった。
 だからこそ、此処にある特別な感情が、霞んだ事に、心が絶望してしまった。

 俯く浠の、顰められた眉と皮肉めいた笑みに、脳裏は焦げ付いて、熱し続けられた海馬が糜爛していく。
 描き殴られた数多の心緒が、境目も無く、互いを取り込み合い、濁り澱んだ。

 そうは言えど、あの時、刹那でも浠を恐れてしまった。
 今でさえ、腹底から湧き上がる畏怖の念を吐き出すまいと、闘っている。

 一度その感覚を刻んでしまったが最後、数珠繋ぎになってしまった憶測を、容易に断ち切ることはできない。

 俺は堪らなくなって、浠の腹を膝で蹴り飛ばした。僅かに緩んだ拘束から逃れ、込み上げる怒濤の激情と罪悪感とに苛まれながら、肩で息をする。

「ッう"……!!き、きょー、ちゃん……?なに──」

「お前、全然、俺の事わかってねぇよ……っ」

「え……っ?」