東京から両親が帰ってきた。
ありふれた現実が戻り、小綺麗にしていたリビングは見る影もなくなった。
男は相も変わらず、不機嫌になると酒を煽って母で肉欲を満たし、嫌悪を示す俺を肴にしている。
毎夜暴走する男に、浠から貰ったおまじない付きの首飾りを、悟られないように身につけるには骨が折れた。
何度肝を冷やした事だろうか、五本の指ではきっと収まりきらない。
自室に籠ろうと、気が気でいられずに、俺は部屋へ戻るなり訪れる息苦しさに喘いでいた。
そうして疲弊しきった体を横たえて、気を失うように意識を落とす。
彼らの寝静まる朝が来るまで、死んだふりをした。
思えばあれ以来、眠る度に過去の夢を見る。
それはまるで走馬灯のように、日毎に鮮明になっていき、人生の端から端までもを辿って、順に塗りつぶしていく作業にも思えた。
ベッドはまるで棺だ。
月夜にこだまするトラツグミは、禮鐘《しょうれい》だ。
そうして俺は毎晩、冥土の橋を渡る。
あの白蛇が、夢に現れるのはきっと、神様との約束を蔑ろにしている俺に罰を与えるためなのだろう。
何時かの眠りが、最後の呼吸になるかもしれない。
浠という人間で、俺はずっと試されていたのか。
そう思えば、ある程度の事は辻褄が合う。
浠は被害者だ。あの赤い目も、蛇の夢も、全て俺を窘めていただけなのかもしれない。
けれど、疑問は残る。
浠の執着心や、キスといった突飛な言動。
名前への固執、首飾り。
仮に俺が神様に憎まれているのだとしたら、護ろうとする理由がない。
浠が何者なのか、靄がかったように存在が不明瞭になる。
俺の全てを知っていると豪語出来る根拠はなんだ。
そう胸につっかえる疑心を抱えながら、翌朝を迎えた。
母と男はぐちゃぐちゃになった布の塊の中で、互いに背を向け合って寝息を立てている。
吐き気がするほどの生々しい臭いに、いそいそ家を出た。
道中、いつもの横断歩道まで歩いていると、当然のように浠はそこに居た。しかし、アイツは大声で手を振りながら、俺の名前を呼びはしなかった。
ただ無意味に変わり続ける信号機の脇に在る、小さな名も無き祠を見つめている。
「…………アイツ、何してんだ……?」
長い間、崩れることのなかった日常が綻びた瞬間は、とてつもない違和感として残り、胸に小さな棘を埋め込んだ。
「おーい……」
自分から呼びかけることなど、一度も無かったせいで、羞恥心に脚がすくむ。
しかし浠の鼓膜に届いていないのか、此方に振り向く素振りはない。
「なんだ、アイツ。祠なんて目もくれたことないだろ……オイ浠、」
近寄る内に、浠は祠の扉を開けようと手を伸ばしている。あまりの不自然さに、居ても立ってもいられず、俺はいよいよアイツの頬に人差し指で触れた。
「何してんだよ、お前」
「ッ!むえ、あ。き、きょーちゃん!?」
「はよ」
「おはよう、ごめん気付かなかった。行こうか」
「……まいいけど」
そそくさと先を歩き始める浠を他所に、俺は開かれかけた祠を覗く。特段自分も気にかける事はなかった物だが、意味ありげに凝視していたアイツの様子を見るに、関心を持たずにはいられなかった。
この地域には同じような祠が点在している。
横断歩道だけが特別なわけではなく、自宅の前や学校の裏手、駄菓子屋脇にある空き地にだって見かけるものだ。
何故今頃、そんなものに浠の食指が伸びるのか分からない。
まじまじと眺め回してみれば、薄らと開かれた御扉から何かが見えそうで、俺は体制を変え、無意識に手を伸ばそうとした。
しかし、あともう少し、すんでのところで、浠が水を指した。
「ダメだよ、きょーちゃん」
「……ッ!」
「迂闊に触れない。触らぬ神に祟りなし、ね?」
「じゃあなんでお前はいいんだよ。祟られるなら俺じゃなくてお前だろ」
俺がそう指摘すると、浠は言葉を濁し、正論に負かされて口篭る。また、俺の預かり知らぬ所で、コイツは何かを垣間見ているのか。
腑には落ちないが、約束破りだと責め立てる感情は、もう湧き上がって来なかった。
全てはあの夢が、俺に大きな空白を思い出させたからだ。
「分かった。いいよ、行こうぜ」
「っきょーちゃん……」
「勢いでキスしやがったこと、今更恥ずかしがってるってことにしておいてやるから」
「恥ずかしいと思ってるのはオレじゃなくてきょーちゃんじゃ──」
「うっせー、人の善意を無下にすんな!」
俺は浠へ足蹴りをしてから、畦道を歩き出す。学校への道中、アイツは上の空で俺との会話に淡々とした相槌を打っているだけだった。
時は流れ、一日は午後の休み時間に差し掛かる。普段は浠と昼食を済ませる流れであったが、アイツが急遽委員会活動で呼び出されたことにより、そのプランは泣く泣く見送りとなった。
しくしく嘆きながら、哀愁漂う背中で別教室に向かう浠の姿が、あまりに小さくて、滑稽に思えた本心は伏せておこう。
教室がやけに騒然としている様を、俺はぼんやり窓際の席から遠巻きに見ていた。
その時、クラスメイトの一人が声を上げる。
「そういやさ、あの時の失踪事件、お前たち覚えてる?」
「!」
その話を持ち掛けていたのは、クラスの保健委員である須貝であった。
"失踪事件"という単語に、反射的に耳がぴくりとそば立ち、俺は伏せかけていた顔を烟る方へ向けた。
「あったあった。結局未解決になっちまったよな、持ってた荷物も見つかってないし。痕跡を辿れるものがなくて、警察もお手上げだったって」
「なんでそんな話、今更持ち出すんだ?」
そう。
俺に嫌がらせをした五人の失踪事件は、迷宮入り、時効扱いなのである。
地域でも話題に上がることはぱったりと消え失せてしまったものであるし、全員が全員記憶に新しいものとも言い難い。
今になって、取り沙汰される状況は、少し妙だ。
「いや、噂というか、俺の弟のクラスの都市伝説みたいになってるらしくて」
「チビたちの純粋さって時に残酷だな」
「まあ、あれくらいの子たちからしたら事件というより、未確認生命体の仕業!みたいな方として盛り上がっちゃうよね……」
「か~~、マジかそっちか~」
なるほど。そういうことならば合点もいく。
容疑者さえあがらない事件だ。変な尾鰭がついて、一人歩きするのも無理はないだろう。
何せ、目撃談は駄菓子屋の老夫婦のみ、証拠は愚か足取り一つ辿れない。
警察犬も出動したものの、結果は変わらず。
ただ一つ、彼らが岬の方向──あの神社のある山手を目指していたことだけが分かっている。
山中は自然豊かで、子供たちにとっては絶好の遊び場だ。五人も恐らくは、その為に入山したのかもしれない。
数年経っても、氷山の一角も掴めていない話だ。
「でも唐突すぎじゃね。都市伝説にしたって、いきなし失踪事件の話があがるなんて。それよりもっとオカルトチックな話なんてここらじゃごまんとあるだろ。ほら、あの岬にある神社の話とか」
「実は、それの話なんだよ。今、弟たちの間で、あの山に入ると二度と出てこれないみたいな噂が流れているらしくて」
「まあそりゃ、一人で入ったら一発で迷うような所だけどよ。なんでまた」
「"神隠しに遭うから"って」
ぞくり。
何の予兆か、背筋に悪寒が走る。
気道に捩じ込まれた空気が、潰れた音を出して、思わず噎せそうになった。
彼らの話にもある通り、俺たちの住む田舎じゃ、この手の怪談話はよくある話だ。
それなのに、こんなにも胸騒ぎがするのは。
「オカルトだな〜、お前そういうの信じる質じゃなかっただろ、転身か?」
「ちっげーよ!つーか、言ったの俺じゃないし!」
「胡散臭ぇ〜!!!」
教室の中心で揶揄された須貝の話は、やけにあっさりと右から左に流れようとしている。
けれども俺は、無意識に腰を上げ、衝動的に彼らの輪の中へ踏み込んでしまったのだ。
「なあ」
普段口数も少なく、影も薄い俺が突如として接近してきたことに驚いたのか、相手は妖怪でも見たように固まる。
「え、汐月……?」
「その話、もうちょっと詳しく聞かせてくんね」
「お前こういう話興味あんの?意外〜」
噂を知っている須貝の友人──秋峯は、ろくに俺との接点もないにも関わらず、所々おちょくった態度だ。しかしそれにしても、名前を覚えられているとは予想外だったけれど。
「悪いか」
「え?い、いや悪くはない悪くは……」
「神隠しがあるって話、本当か」
「俺も気になってさ……そうしたら、うちのばあちゃんが、あそこの山は昔から神様がいるから近付くなよーって。母さんもばあちゃんもそう言われて育ってきたらしいんだ」
「なんでも、あの岬ノ神社にいる蛇神様は、気に入った人間をあの世に連れ去っちゃうからって。一度見初められた人間は、絶対に逃げられない。俺にはそういうの、よく分からないけど、魂……に取り憑いて、肉体を食らってでも攫うんだって」
蛇神が、魂に、取り憑く。
須貝は口にしている内に、恐怖心が湧いてきたのか、自分を抱きしめるように体を摩っている。茶化していた秋峯は、依然と余裕綽々としていそうな態度だが、委縮してしまった須貝の姿を見て、黙り込んでいた。
彼の祖父母の発言が確かならば、山の神隠しの伝承は相当古くからのもので間違いないだろう。
問題は、岬ノ神社の蛇神様であるということだ。
俺は、内心ひどく戦慄していて、心臓が鷲掴まれたような感覚に血の気が引いた。
「須貝、あんまマジに考えんな。言い伝えなんだろ?」
「でも、弟たちが本気にして遊び半分で行ったりしたら心配だよ。信じるわけじゃないけど、ばあちゃんが言ってるから、なんか信憑性が……」
不安に駆られ、顔を青くする須貝を宥める秋峯もまた、軽く身震いをしている。
しかし、背筋を凍らせながらも、真実に少しでも近づきたい衝動が先行し、俺は話を続けた。
蛇神様と浠に何らかの因果があるだろうと、確信した今、動かぬわけにはいかなかった。
「仮にその話が本当なら、失踪した五人は神様に気に入られたってことになるよな。五人まとめて好かれるなんて、有り得ねえと思うんだけど」
「それはそうなんだよな……」
すると須貝の横で黙っていた秋峯が、開口した。
「まあでも、俺もあいつらが好かれるなんてこと、絶対ねえと思うから神隠しの可能性はゼロだと思うよ」
「……秋峯?」
喉元に溜まった感情を吐露する彼の眼には、霧が立ち込めている。
何かを含蓄した言葉は、空気よりも重く床に落ちていった。
「俺、あいつらがクラスの女子をいじめてるの、止めに入ったことがあってさ。平気でそういう事何回も出来るやつらなんだ」
「だからさ。神様が、罰与えたんじゃねえの」
秋峯の口から放たれた言葉を聞いた刹那、脳に電流が流れたような、鋭い衝撃が走る。
既視感を覚えるより先に、俺の頭に響く過去からの声があった。
『傷つけるような奴には、罰を与えてあげるから』
「ば、つ……」
あの絆創膏を剥がした時、浠は自分は"罰は当たらない"と断言していた。
寧ろその逆、アイツは何時だって、俺にヤッカミをかける奴らに正々堂々と立ち向かって、時に暴挙にさえ出た。
それも全て、俺を傷つける者に対する"罰"。
あの五人は、間違いなく浠の中で、罰を与えるに足る存在だ。
「五人には罰が当たった、」
「いや、想像上の話だから!汐月まで本気にするなよな〜も〜」
そうだ。五人には罰が当たった。
「もし、蛇神様に見初めた人間を、あの五人が傷付けたら──」
いじめの被害者の内に、蛇神様の寵児がいるとするなら。
「ッ秋峯、その女子がいじめにあったのは何時くらいか覚えてるか」
「え?!あー、どうだったかな……入学したてだったと思うから……小一とかじゃねえの?」
「なら違ぇ、他は知らねえのか。小学三年の頃とか」
「流石に覚えてないな、そこまでは」
「ッ…………」
それなら、秋峯の言っている女子は対象じゃないはずだ。五人の失踪時期と合致しない。
「汐月?大丈夫か?」
「……くそ、」
違う。きっと他に可能性がある。
放置しておけば、また失踪者が出ちまう。
でも、いや、まだ。
因果があるのも、仮の話だ。真実には程遠い。
違う。浠は、違う。アイツじゃねえよ。
徐々に炙り出され、中心からじくじくと向き合うべき全体像が鮮明になっていくのを、俺は見て見ぬふりをした。
信じてしまったら、次こそ、浠との特別が壊れる気がしたのだ。
アイツじゃない。
アイツじゃ……。
しかし、胸元に隠されたあの首飾りが、薄く陽の光を反射する。その光彩が、網膜に舞い込んだ時──
『好きな子が自分のあげたものを肌身離さず持ってくれてるって、凄く幸せ』
そう微笑んだ浠の姿が重なった。
あ、と思う頃には何かが音を立てて砕け散る。
「みず、き……が?」
「きょーちゃん」
夢なら、早く覚めればいい。
眠って忘れるなら、俺は今ここで、死んだフリをするから。
ありふれた現実が戻り、小綺麗にしていたリビングは見る影もなくなった。
男は相も変わらず、不機嫌になると酒を煽って母で肉欲を満たし、嫌悪を示す俺を肴にしている。
毎夜暴走する男に、浠から貰ったおまじない付きの首飾りを、悟られないように身につけるには骨が折れた。
何度肝を冷やした事だろうか、五本の指ではきっと収まりきらない。
自室に籠ろうと、気が気でいられずに、俺は部屋へ戻るなり訪れる息苦しさに喘いでいた。
そうして疲弊しきった体を横たえて、気を失うように意識を落とす。
彼らの寝静まる朝が来るまで、死んだふりをした。
思えばあれ以来、眠る度に過去の夢を見る。
それはまるで走馬灯のように、日毎に鮮明になっていき、人生の端から端までもを辿って、順に塗りつぶしていく作業にも思えた。
ベッドはまるで棺だ。
月夜にこだまするトラツグミは、禮鐘《しょうれい》だ。
そうして俺は毎晩、冥土の橋を渡る。
あの白蛇が、夢に現れるのはきっと、神様との約束を蔑ろにしている俺に罰を与えるためなのだろう。
何時かの眠りが、最後の呼吸になるかもしれない。
浠という人間で、俺はずっと試されていたのか。
そう思えば、ある程度の事は辻褄が合う。
浠は被害者だ。あの赤い目も、蛇の夢も、全て俺を窘めていただけなのかもしれない。
けれど、疑問は残る。
浠の執着心や、キスといった突飛な言動。
名前への固執、首飾り。
仮に俺が神様に憎まれているのだとしたら、護ろうとする理由がない。
浠が何者なのか、靄がかったように存在が不明瞭になる。
俺の全てを知っていると豪語出来る根拠はなんだ。
そう胸につっかえる疑心を抱えながら、翌朝を迎えた。
母と男はぐちゃぐちゃになった布の塊の中で、互いに背を向け合って寝息を立てている。
吐き気がするほどの生々しい臭いに、いそいそ家を出た。
道中、いつもの横断歩道まで歩いていると、当然のように浠はそこに居た。しかし、アイツは大声で手を振りながら、俺の名前を呼びはしなかった。
ただ無意味に変わり続ける信号機の脇に在る、小さな名も無き祠を見つめている。
「…………アイツ、何してんだ……?」
長い間、崩れることのなかった日常が綻びた瞬間は、とてつもない違和感として残り、胸に小さな棘を埋め込んだ。
「おーい……」
自分から呼びかけることなど、一度も無かったせいで、羞恥心に脚がすくむ。
しかし浠の鼓膜に届いていないのか、此方に振り向く素振りはない。
「なんだ、アイツ。祠なんて目もくれたことないだろ……オイ浠、」
近寄る内に、浠は祠の扉を開けようと手を伸ばしている。あまりの不自然さに、居ても立ってもいられず、俺はいよいよアイツの頬に人差し指で触れた。
「何してんだよ、お前」
「ッ!むえ、あ。き、きょーちゃん!?」
「はよ」
「おはよう、ごめん気付かなかった。行こうか」
「……まいいけど」
そそくさと先を歩き始める浠を他所に、俺は開かれかけた祠を覗く。特段自分も気にかける事はなかった物だが、意味ありげに凝視していたアイツの様子を見るに、関心を持たずにはいられなかった。
この地域には同じような祠が点在している。
横断歩道だけが特別なわけではなく、自宅の前や学校の裏手、駄菓子屋脇にある空き地にだって見かけるものだ。
何故今頃、そんなものに浠の食指が伸びるのか分からない。
まじまじと眺め回してみれば、薄らと開かれた御扉から何かが見えそうで、俺は体制を変え、無意識に手を伸ばそうとした。
しかし、あともう少し、すんでのところで、浠が水を指した。
「ダメだよ、きょーちゃん」
「……ッ!」
「迂闊に触れない。触らぬ神に祟りなし、ね?」
「じゃあなんでお前はいいんだよ。祟られるなら俺じゃなくてお前だろ」
俺がそう指摘すると、浠は言葉を濁し、正論に負かされて口篭る。また、俺の預かり知らぬ所で、コイツは何かを垣間見ているのか。
腑には落ちないが、約束破りだと責め立てる感情は、もう湧き上がって来なかった。
全てはあの夢が、俺に大きな空白を思い出させたからだ。
「分かった。いいよ、行こうぜ」
「っきょーちゃん……」
「勢いでキスしやがったこと、今更恥ずかしがってるってことにしておいてやるから」
「恥ずかしいと思ってるのはオレじゃなくてきょーちゃんじゃ──」
「うっせー、人の善意を無下にすんな!」
俺は浠へ足蹴りをしてから、畦道を歩き出す。学校への道中、アイツは上の空で俺との会話に淡々とした相槌を打っているだけだった。
時は流れ、一日は午後の休み時間に差し掛かる。普段は浠と昼食を済ませる流れであったが、アイツが急遽委員会活動で呼び出されたことにより、そのプランは泣く泣く見送りとなった。
しくしく嘆きながら、哀愁漂う背中で別教室に向かう浠の姿が、あまりに小さくて、滑稽に思えた本心は伏せておこう。
教室がやけに騒然としている様を、俺はぼんやり窓際の席から遠巻きに見ていた。
その時、クラスメイトの一人が声を上げる。
「そういやさ、あの時の失踪事件、お前たち覚えてる?」
「!」
その話を持ち掛けていたのは、クラスの保健委員である須貝であった。
"失踪事件"という単語に、反射的に耳がぴくりとそば立ち、俺は伏せかけていた顔を烟る方へ向けた。
「あったあった。結局未解決になっちまったよな、持ってた荷物も見つかってないし。痕跡を辿れるものがなくて、警察もお手上げだったって」
「なんでそんな話、今更持ち出すんだ?」
そう。
俺に嫌がらせをした五人の失踪事件は、迷宮入り、時効扱いなのである。
地域でも話題に上がることはぱったりと消え失せてしまったものであるし、全員が全員記憶に新しいものとも言い難い。
今になって、取り沙汰される状況は、少し妙だ。
「いや、噂というか、俺の弟のクラスの都市伝説みたいになってるらしくて」
「チビたちの純粋さって時に残酷だな」
「まあ、あれくらいの子たちからしたら事件というより、未確認生命体の仕業!みたいな方として盛り上がっちゃうよね……」
「か~~、マジかそっちか~」
なるほど。そういうことならば合点もいく。
容疑者さえあがらない事件だ。変な尾鰭がついて、一人歩きするのも無理はないだろう。
何せ、目撃談は駄菓子屋の老夫婦のみ、証拠は愚か足取り一つ辿れない。
警察犬も出動したものの、結果は変わらず。
ただ一つ、彼らが岬の方向──あの神社のある山手を目指していたことだけが分かっている。
山中は自然豊かで、子供たちにとっては絶好の遊び場だ。五人も恐らくは、その為に入山したのかもしれない。
数年経っても、氷山の一角も掴めていない話だ。
「でも唐突すぎじゃね。都市伝説にしたって、いきなし失踪事件の話があがるなんて。それよりもっとオカルトチックな話なんてここらじゃごまんとあるだろ。ほら、あの岬にある神社の話とか」
「実は、それの話なんだよ。今、弟たちの間で、あの山に入ると二度と出てこれないみたいな噂が流れているらしくて」
「まあそりゃ、一人で入ったら一発で迷うような所だけどよ。なんでまた」
「"神隠しに遭うから"って」
ぞくり。
何の予兆か、背筋に悪寒が走る。
気道に捩じ込まれた空気が、潰れた音を出して、思わず噎せそうになった。
彼らの話にもある通り、俺たちの住む田舎じゃ、この手の怪談話はよくある話だ。
それなのに、こんなにも胸騒ぎがするのは。
「オカルトだな〜、お前そういうの信じる質じゃなかっただろ、転身か?」
「ちっげーよ!つーか、言ったの俺じゃないし!」
「胡散臭ぇ〜!!!」
教室の中心で揶揄された須貝の話は、やけにあっさりと右から左に流れようとしている。
けれども俺は、無意識に腰を上げ、衝動的に彼らの輪の中へ踏み込んでしまったのだ。
「なあ」
普段口数も少なく、影も薄い俺が突如として接近してきたことに驚いたのか、相手は妖怪でも見たように固まる。
「え、汐月……?」
「その話、もうちょっと詳しく聞かせてくんね」
「お前こういう話興味あんの?意外〜」
噂を知っている須貝の友人──秋峯は、ろくに俺との接点もないにも関わらず、所々おちょくった態度だ。しかしそれにしても、名前を覚えられているとは予想外だったけれど。
「悪いか」
「え?い、いや悪くはない悪くは……」
「神隠しがあるって話、本当か」
「俺も気になってさ……そうしたら、うちのばあちゃんが、あそこの山は昔から神様がいるから近付くなよーって。母さんもばあちゃんもそう言われて育ってきたらしいんだ」
「なんでも、あの岬ノ神社にいる蛇神様は、気に入った人間をあの世に連れ去っちゃうからって。一度見初められた人間は、絶対に逃げられない。俺にはそういうの、よく分からないけど、魂……に取り憑いて、肉体を食らってでも攫うんだって」
蛇神が、魂に、取り憑く。
須貝は口にしている内に、恐怖心が湧いてきたのか、自分を抱きしめるように体を摩っている。茶化していた秋峯は、依然と余裕綽々としていそうな態度だが、委縮してしまった須貝の姿を見て、黙り込んでいた。
彼の祖父母の発言が確かならば、山の神隠しの伝承は相当古くからのもので間違いないだろう。
問題は、岬ノ神社の蛇神様であるということだ。
俺は、内心ひどく戦慄していて、心臓が鷲掴まれたような感覚に血の気が引いた。
「須貝、あんまマジに考えんな。言い伝えなんだろ?」
「でも、弟たちが本気にして遊び半分で行ったりしたら心配だよ。信じるわけじゃないけど、ばあちゃんが言ってるから、なんか信憑性が……」
不安に駆られ、顔を青くする須貝を宥める秋峯もまた、軽く身震いをしている。
しかし、背筋を凍らせながらも、真実に少しでも近づきたい衝動が先行し、俺は話を続けた。
蛇神様と浠に何らかの因果があるだろうと、確信した今、動かぬわけにはいかなかった。
「仮にその話が本当なら、失踪した五人は神様に気に入られたってことになるよな。五人まとめて好かれるなんて、有り得ねえと思うんだけど」
「それはそうなんだよな……」
すると須貝の横で黙っていた秋峯が、開口した。
「まあでも、俺もあいつらが好かれるなんてこと、絶対ねえと思うから神隠しの可能性はゼロだと思うよ」
「……秋峯?」
喉元に溜まった感情を吐露する彼の眼には、霧が立ち込めている。
何かを含蓄した言葉は、空気よりも重く床に落ちていった。
「俺、あいつらがクラスの女子をいじめてるの、止めに入ったことがあってさ。平気でそういう事何回も出来るやつらなんだ」
「だからさ。神様が、罰与えたんじゃねえの」
秋峯の口から放たれた言葉を聞いた刹那、脳に電流が流れたような、鋭い衝撃が走る。
既視感を覚えるより先に、俺の頭に響く過去からの声があった。
『傷つけるような奴には、罰を与えてあげるから』
「ば、つ……」
あの絆創膏を剥がした時、浠は自分は"罰は当たらない"と断言していた。
寧ろその逆、アイツは何時だって、俺にヤッカミをかける奴らに正々堂々と立ち向かって、時に暴挙にさえ出た。
それも全て、俺を傷つける者に対する"罰"。
あの五人は、間違いなく浠の中で、罰を与えるに足る存在だ。
「五人には罰が当たった、」
「いや、想像上の話だから!汐月まで本気にするなよな〜も〜」
そうだ。五人には罰が当たった。
「もし、蛇神様に見初めた人間を、あの五人が傷付けたら──」
いじめの被害者の内に、蛇神様の寵児がいるとするなら。
「ッ秋峯、その女子がいじめにあったのは何時くらいか覚えてるか」
「え?!あー、どうだったかな……入学したてだったと思うから……小一とかじゃねえの?」
「なら違ぇ、他は知らねえのか。小学三年の頃とか」
「流石に覚えてないな、そこまでは」
「ッ…………」
それなら、秋峯の言っている女子は対象じゃないはずだ。五人の失踪時期と合致しない。
「汐月?大丈夫か?」
「……くそ、」
違う。きっと他に可能性がある。
放置しておけば、また失踪者が出ちまう。
でも、いや、まだ。
因果があるのも、仮の話だ。真実には程遠い。
違う。浠は、違う。アイツじゃねえよ。
徐々に炙り出され、中心からじくじくと向き合うべき全体像が鮮明になっていくのを、俺は見て見ぬふりをした。
信じてしまったら、次こそ、浠との特別が壊れる気がしたのだ。
アイツじゃない。
アイツじゃ……。
しかし、胸元に隠されたあの首飾りが、薄く陽の光を反射する。その光彩が、網膜に舞い込んだ時──
『好きな子が自分のあげたものを肌身離さず持ってくれてるって、凄く幸せ』
そう微笑んだ浠の姿が重なった。
あ、と思う頃には何かが音を立てて砕け散る。
「みず、き……が?」
「きょーちゃん」
夢なら、早く覚めればいい。
眠って忘れるなら、俺は今ここで、死んだフリをするから。
