“ “を満たして、あと何度。

 あの日、浠の口から放たれた言葉は、俺の心にある大きなしこりを、更に一つ増やした。

 小さい頃から、自分への執着心は人並み以上だったことを思えば、平常通りだったともいえる。しかし、それはもう友情の範疇には収まりきらないほどに肥大化して、すぎる季節と共に膨張し続けていた。

 ずっと見て見ぬふりをしてきた、霧の向こう側。
 その中を歩いていくには、この手にある小さな灯だけでは、到底心もとない。

 深夜三時。
 無意識から浮上して、重たい瞼を上げた先に見える、窓の外をぼんやりと眺めた。
 半月が、時折濃い雲の狭間から顔を覗かせては、星彩を吞み込んだ。
 それがどうにも虚しさを呼ぶものだから、俺は視線を背けるように寝返りを打った。

「……うっ、お、」

 同時に、腰に回されたアイツの両腕に力が入り、密着した肌から伝わる体温に、体内がじんわりと熱を蓄える。

 暑苦しい。

 鬱陶しさを覚えるはずだった。

 拒むように、浠の腕にかけられた自分の手が、その上で留まる。

「ん〜……きょーちゃん……」

 視線を動かした先、隣で眠る浠の寝顔が、やけに人間臭く見えた。

 岬ノ神社の境内までの参道で、走り回って、疲れ果てた末に木陰に入ったかの日の。
 自分の肩に頭を預けて微睡む姿に重なる。

 追憶に心臓がちくりと、針を呑み込んだような痛みに嘆いた。
 俺の記憶の、隅から隅をアイツが満たしている。

 思い返せば思い返すほど、切り裂いた断面から解れ出た、無数の糸が浠へとつながっている。

 アイツに縋らなければ、生きてこられなかった体ではなかったはずだ。
 一人で上手くやってきたはずだ。

 どんな艱難辛苦も、夜に沈めて息を殺してさえいれば、星々が勝手に連れ去ってくれた。

 なら何時から、アイツに願うようになった。
 アイツの特別を欲しがるようになった。

 浠が俺に向ける気持ちの名前は、示すための言葉は、どこを探せば、何を思い返せば見つかるのだろう。

「……お前が、わかんねえよ……俺は……」

 俺は思考を放棄して、そっと再び目を閉じた。

 無意識へと沈む道すがら、懐かしい夢を見た。

 それは、過去の投影であり、俺にとっては珍しいことである。
 記憶はこの田舎に越してきたばかり、浠と俺が初めて出会った頃のものだ。


 ***

 人の身を焼かんとするほどの赤日が、束の間、宵闇でその色を落とす、真夜中のこと。

 床に転がった空き缶を蹴飛ばさないように、爪先で移動しながら、かつての幼かった俺は外へと繰り出した。

 ほんの退屈凌ぎ、現実逃避、ぽっかりと空いた心への慰み。
 目的は毎度そんなもので、ボロボロの履き潰したサンダルと、等身大の小さな影を引き連れたまま、岬ノ神社を目指していた。

 ──蛇神様、蛇神様、蛇神様……!

 俺が毎晩こっそり家を抜け出すようになったのは、道中の車窓から見えた崖にある、あの旧本殿の鳥居がきっかけだった。

 すっかり魅了された俺は、気付けばその日の内に、走り向かっていた。

 そこで見た、蛇の御神体。
 陽光に晒され、後光を帯び、まるで宝石のようだったことは記憶に新しい。

 しかし、傷が付いていても見放され、潮騒の中、孤独に誰かを待っている蛇の神を、俺は可哀想だと思ったのだ。

 だからか、突き動かされるように、毎晩毎晩、あの鳥居へ赴いていた。

 ざあざあと、薫風が海の匂いと混じって、汗ばんだ肌を撫でていく。
 風は母親の手よりも、遥かに優しい。

「…………へびがみさま」

 岬の先端に鎮座する祠の御扉は、開帳されたまま放置されていて、煽られては力なく揺れた。

 剥き出しになった御神体が、ここまで来いと手招いていて、話を聞いてやると言われている気がしたのだ。

 凛と佇む神に俺は尋ねた。

「……蛇神様も独りぼっちか?寂しい?」

 若葉達が頷く。漣は柔く揺蕩う。
 月は雲を跳ね除け、蛇を照らす。

 無彩色の無機質な石肌に刻まれた、二つの痕と、自分の瞳の奥が一直線上に結ばれている。

「俺も、独りだけど、もし神様が寂しいなら、きっと俺もそうなのかな」

 俺は、貼られたての絆創膏を撫でながら言った。答えは決して、この波打ち際には寄ってこない。ただの独白だった。

「それなら、ずっと二人でいようよ。ここにずっと。そうしたら、傷つけようとするやつも、俺が追い払ってやれるもんな」

 何も悪いこと一つしていないのに、煙たがれる。例えボロボロになるまで踏みつけられようと。
 涙を流してくれる人も、怒ってくれる人も、痛みを忘れさせてくれるおまじないを掛けてくれる人もいない。

 それはとても、苦しいことなのかもしれないと、俺は同情していた。

 自分に言い聞かせるような、お呪いのつもりで吐いた言葉が、霧散していく。
 刹那、一際強く疾風が吹き抜けた。

 その時──。

「……ねえ」

「っ!!?」

 不意に飛んできた声に動揺して、慌てて振り返ると、暗闇でも明るく見える、宝石のような二つの目があった。

 こんな深夜に、人が歩き回っているわけもなく、警察である可能性に、冷や汗が滲み出る。

「だっ、だれ、なにしに来た……ッ!!」

 しかしそれは杞憂に過ぎない結果となった。
 現れたのは歳の近そうな一人の男児であったのだ。

「人の──違う、えっと。神社に入っていくのが、家から見えて。ここ、夜は足場悪くて危ないから追いかけてきたんだ。君、引っ越してきたばかりの子だよね」

「……!なんで知って」

「よそ者の事はすぐ耳に入るから」

 よそ者、そんな排他的な呼び名をつけられているとは少し心外だった。俺は後退りつつ、背後の御神体を護るように、腕を広げて警戒する。

「!……なにしてるの?」

「まもってる」

「どうして?」

 ──どうして。どうしてだろう。ここの神様は、俺になにかしてくれたわけじゃない。願いを叶えてもらったわけじゃない。
 ただ、ここに居ていいと言ってくれている気がしただけだった。

 それは、幼い俺にとっての無条件の肯定。無条件のアイ情。

「蛇神様は俺を、追い出したりしないから……」

「人間は、君を追い出すの?」

「うん」

「だから、優しくしてくれるの?」

「そうだよ」

 この神域は、疎まれ続ける自分という存在の、醜さに目を瞑り、沈黙という抱擁で、空の心を満たしてくれた。

「誰にも傷つけられたくない、俺はいらない子だけど、蛇神様はそうじゃない」

 俺だけの、神様。
 俺だけの、家族。
 俺だけの。

 だから。

「ずっと、ここにいて、ほしいだけで……別に俺は……」

 尻すぼみになりながら呟く俺を見て、ヤツは目を大きく見開いたあと、くつくつと笑った。

「ふ、あははっ、そっか、そっかあ……!!」

「な、なんで笑うんだよ!」

「いや、ふふ、なんでもない。だから君はあの絆創膏──。っねえ、名前はなんて言うの?」

 増幅する怪しさに、未だ緊張が取れない俺は、ぐっと押し黙る。
 もしここで名前を言ったら、きっと母にこっぴどく怒られるだろう。学校に行くことになったら、いじめられるかもしれない。

 俺には、拒絶するしか選択肢がなかったのだ。そのはずだった。

 けれどコイツは。

「オレ、みずき。オレもこの場所が大切だからさ、友達に……なりたいなって」

「友……達……」

 差し出された手と、月明かりを受けて漸く輪郭がはっきりした瞳孔が、熟れた果実のようで、思わず魅入る。

 きん、と心臓から伸びる糸を手繰り寄せられ、俺は偶然の出会いを、やけにあっさりと受け入れてしまった。

 友達になろう、と初めて言われて、どう答えていいのか分からない動揺と混乱のせいだったのかもしれない。

 面映ゆさから口が回らず、落ちていた木の棒で「美夜」と書いた。
 するとヤツは案の定首を傾げる。

「なんて読むの……?」

「きょうや」

「これできょうやかぁ。綺麗だね。……じゃあ、きょーちゃんだ!」

 浠と名乗る子供は、そう言って無邪気にはにかんだ。しかし、まともに友人関係を築いた経験がない俺からすれば、そんな馴れ馴れしさに戸惑わざるを得なかった。

「きょーちゃんって、変な呼び方すんなよ……」

「他の誰かに呼ばれたことないの?」

「いや、あるわけねーじゃん……初めて言われた」

「じゃあ、オレが一番乗りしちゃお〜っと」

 ──……あほっぽいヤツ。

 浠の第一印象はそんなものだった。

 半ば押し流された俺の言葉は、水面を揺蕩い彷徨う木の葉のようだったが、浠からの期待に満ち溢れた眼差しが、今一度胸の中心をぐっとしぼる。

「明日もまた、来てくれるよね」

「気が向いたら」

「絶対来るでしょ。ね、約束!」

「はぁ……?」

 浠は俺の手を徐に取って、やけにはしゃいでいる。初対面にしては、なかなか気味悪がられる強引さだ。

 友達が出来る、ということはそんなにも喜ばしいものなのか、当時からよく分からないままだった。

「またね、きょーちゃん!」

「……うん、またな。……みずき」

 一頻りの追憶を上映した後、鮮やかな景色は無意識に溶け込んで、影も形も掴めなくなる。

 彼方に消えていく浠の声に、後ろ髪を引かれながら、とっぷりと闇に呑まれ、夢の中の意識も次第に霞みがかっていった。

 ふと、遺された御神体が脳裏で揺れる。

 俺は引っ越してから浠と会うまでの数週間を、あの場所で過ごしていた。
 人も動物も、近寄りたがらない、死をも彷彿とさせる岬で、ひっそりと忘れ去られた存在同士、砂塵のように枯れていこうと思った。

 けれど、それは本心ではなく、本当は子供心ながらに、薄ら友達のような特別さには、憧憬を抱いていたのかもしれない。

 だから蛇神様はきっと、気を利かせて浠と俺を会わせてくれたのだろう。

 偶然にしては、些か出来すぎている気もするけれど。

 否、浠と出会ってから、出来すぎていることばかりだ。

 俺が蛇神様に、変なおまじないばかりを執拗にぼやいてしまったからだろうか。
 それなのに、浠を恐れ拒んでしまうのは、許されないことだと叱咤されるべきなのかもしれない。

 あの蛇神が、もし浠となにか関係があるならば、俺は──。

「ずっと一緒にいてやる」という約束を、破っているような気がした。


 ──ごめん。


 ──ごめんな。お前がいないとダメだって思っていたのは、俺なのに。

 俺の血液や神経の中で、蛇は蠢いている。

 脳を蹂躙するが如く。逃がさぬように、啄まれぬようにと。

 暗闇の中の幼い俺は小さく身を丸めて、ひたすらに届くはずも無い謝罪をしていた。

 ***



「……ょー……ちゃん……」


「きょーちゃん」

「っ!!」

 目が覚めると、外はまだ薄暗い、東雲の頃であった。
 夢の一切の記憶は、覚醒した頃には酷く朧気だったけれど、この身体の己でも預かり知らぬ所に、深い痕が残されているような後味がする。

 額や背中に夥しい汗が滲み出ていて、いやに胸が苦しい。
 俺を覗き込む浠の表情も、心做しか優れていないような。

「浠……なんか、あったのか」

「きょーちゃん魘されてたから、心配で」

「あぁ、それは平気だ……悪い、起こしたか」

「気にしないで。クーラー、寒くない?」

「おう……」

 浠は汗で張り付いた俺の前髪を、横に流しながら、眉間に皺を寄せて何かを堪えた。
 乱暴さの欠けらも無い、花を愛でるような優しい手つきに、掻き回された心が自然と擦り寄る。

「今、水持ってくるね。横になってていいよ」

 離れていく浠を見て、俺は筆舌し難い衝動に駆られた。

「──ッ待っ!!て……」

 立ち上がろうとする浠の袖を、俺は咄嗟に引っ張る。中途半端な姿勢で固まる浠の表情は、何故だか曇りガラスのようだ。

 冷静さを未だ取り戻していない脳内は、騒々しくごった返していた。

 黒い孤独に蝕まれる気がして、声が震える。

「顔色悪いよ……?ねえきょーちゃん、どんな夢見たか、教えて」

「……昔の夢だ、お前と会った頃の」

 掴んだ瞬間、焦燥感や恐怖心、かつての憧憬や悲哀が蘇るように押し寄せ、胸が内側から張り裂けそうであった。

「なぁ浠……蛇神様、怒ってるのか」

「っえ、」

 正常な判断力は掻き消され、今や自分が何を口走っているかなんて、そんな自覚もなく。感情が、罪悪感へ変貌する事に抗えないまま、気付けば浠に縋っていた。

 お前が、俺だけの神様と名乗るなら。

 お前が、俺の夢に出てきた岬ノ神社の白蛇と同じ世界にいるのなら。

 答えて欲しい。

「どうして、それをオレに聞くの」

 浠が目を細める。
 俺は、今、禁忌に触れようとしている気がしてならなかった。
 このパンドラの匣を開けてしまうのは、時期尚早だろう。

「……いや、忘れていい。ただの夢だ」

 "友人"に聞くには、あまりに可笑しすぎる。

 少し、耽りすぎただけだ。

 そうだ。