“ “が満ちるまで待っててね

 あってもなくても仕方がないような、畦道(あぜみち)を遮る横断歩道に"アイツ"がいる。

 車が来ない事を良いことに、道のど真ん中で大きく手を振りながら、青空の真下、自分を待っている。

 毎日、毎時、毎分、毎秒。
 いつもの場所で、いつもの時間に、いつもの声で、いつもの笑顔で。

「きょーちゃーーん!!」

 都会から離れた田舎、周囲は田圃(たんぼ)と小さな林ばかりで、少し歩かないと人の気配も無いから、大声を出した所で誰に咎められることはない。

 だからアイツも、人目を憚らずガキみたいに叫んだって、何ら恥ずかしがりもしない。
 といっても、羞恥心で自分を制御できるような(たち)の男ではないけれど。

「きょーちゃん、今日は五分遅かったね」

「……待たせて悪かったな」

「ううん!全然気にしてないよ、きょーちゃんと一緒に行けるなら、オレ学校なんて遅れてもいいもん」

「ダメだろバカ。そういう時は先に行け」

 自分を見つけると躊躇いもなく駆け寄ってくるアイツに、俺は少し引け目を感じていた。

 チャラチャラしていて、物事全てにかまけているような子供だと、大人からは揶揄(やゆ)されているけれど。
 誰よりも腹の底が知れない、未確認生命体みたいな面を知っている、幼馴染の俺からすれば、そんな感想は出てこない。

 コイツを怒らせたら、口から毒蛇が出てきそうだと思う。

「寝癖はないから、寝坊じゃないんだね、きょーちゃん」

「…昨日朝飯準備するの忘れてて、慌てて作ってたんだよ」

 この『きょーちゃん』と言われるのも、実は好きじゃない。いや、好きじゃなくなったという方が正しい。
 呼び慣れてはいるものの、コイツが、人前でも見境なくそう呼びかけるから、何時しか苦手意識が湧くようになったのだ。

 そう、言わずにいるだけだ。

「きょーちゃんが忘れるなんて、珍しいね」

「今日その呼び方多くねえか」

「そう?まだ会って五回しか言ってないよ?」

「呼びすぎだバカ。高校にもなって、恥ずかしくねぇの」

 小さい頃は、『きょーちゃん』と呼ばれることに抵抗はなかった。
 引越したばかりの家先にある、小さな神社で出会ったあの日から、ずっと呼び名は変わらなかったし、その時の友人はコイツしかいなかったから。

 寧ろ、互いを愛称で呼び合う関係性は、特別なものに思えていた。

「これ以外に他の呼び方ないんだもん、どう呼ばれたいの?」

 どう呼ばれたいの、と言われても。
 普通に呼んでくれとしか言いようがないが。

 面倒くさそうに顔を(しか)める俺を見ても、コイツは図太い神経で、頑なに目を逸らそうとしない。何としてでも、愛称で呼び合いたいようだ。

 それも、クラスメイトが俺に呼びかけるような平均的な物ではなく、小さい時のような特別な物として。

 俺の名前は、独特な読み方をするから、初手で当てられる人間はまずいない。
「美しい夜」で「きょうや」と一発で読めた奴は、今まで出会ったことがない。幼馴染でも不可能であった。

 単純に言うなら、苗字で呼んでもらう他ないのだが、コイツともなるとそう一筋縄では解決しないのが厄介な所だ。

「きょーちゃん以外」

「じゃあ、しーちゃん」

「その『ちゃん』もやめろ」

「ええ、嫌だよ。オレだけがきょーちゃんに向けるアイデンティティなのに」

「そういうのいらねえし」

「ひでー!!」

 学生用鞄をリュックのように背中に背負いながら、酒のツマミみたいな馬鹿話をして通学する。これがいつものルーティンだ。

 学校に着くまでは、片道一時間はかかる。
 アイツの待っている横断歩道まで行く最中は、終始頭がネタ切れを起こすのが常だ。

 目印は名もない小さな祠と、ひしゃげたカーブミラー。
 それから二人でぼちぼち歩けば、(ようや)く登校完了というわけだ。

 おまけに、この田舎では学校という学校も五本指に収まる程度しか設置されておらず、小中一貫校で飽きるほど登校しても、この田舎を出て受験しない限りは高校受験も丸かぶりなのである。

 その結果が、これだ。

「『汐月美夜(しづききょうや)』で、しーちゃんもきょーちゃんもダメでしょ……?えー、じゃあ…キキとか」

「どっかの魔女に飼われてた気がするから却下」

「ええ?可愛いのに……。じゃあ、やーちゃん」

「お前、話聞いてたか?」

しょうもない話を垂れられて、地味な苛立ちを腹に落ち込める毎日。

 高校への通学路で見慣れなかった新鮮な風景も、あっさりと退屈に様変わりし、話題が無くなった事が最大の原因だろうが。

 コイツは俺の事ともなると、永遠に口を閉じない。つまり、他の話題もない今、沈黙を垂れ流すより、このくだらない話に耳を傾けるしか方法はないということ。

 そして。

「今日ちょっとクマ濃いね、また寝れなかったの」

 俺の顔を覗き込みながら、医者みたいに診察をしてくる時間が今日も始まった。

「まぁ…ンなところ」

「喧嘩、長引いたんだ」

「…………」

「だから、今日の朝ご飯も昨日の内に作っていられなかった。寝てないうえに、食べてもない。慌てて食べたは嘘でしょ」

 長年の付き合い、というのも聞こえが良いだけで、あまりに癒着し合った関係で居続けると、口にしてもいないことまで相手に見透かされてしまう。
 言わなくていいような事も、他言無用の秘密事も。

 特にコイツは、観察眼が異常に優れていて、こんな具合に俺が遅刻してきた本当の理由も、昨日の家の事情も言い当ててくるのだ。

「傷も増えてる」

「大袈裟だな、庭先で転んだだけだ」

「きょーちゃん」

 若竹色の眼が、洗いざらい話せと訴えかけてくるが、俺はそれに応じなかった。
 まだ子供の範疇であるうえ、こんなちっぽけで過疎な世界しか知らない自分達が、変革をもたらすほどの希望を見い出せるとは、思ってすらいないからだ。

 こんな事を、幼馴染同士で話し合うのは違和感でしかなかった。

「嘘じゃねえよ」

「嘘」

「見てないくせに、何が分かるんだよ」

「分かるよ。きょーちゃんの事なら、なんでも。その傷が何で出来たかも」

 肝を氷漬けにされるような感覚に、全身が震える。

 初夏の風が爽やかに吹き抜ける畦道で、放たれた一言に、軽快さや純朴さは微塵もなく。

「……自分の発言が相当気色悪いことを自覚しろ」

「してる」

「してねえだろ脳みそいっぺん洗ってこい、そこの川で」

 けれども確かに、自分が遅刻してきた理由は、単なる朝食の準備不足ではない。

 昨夜は家に久々に帰宅した母親が見知らぬ男を連れ込んできた一件で、彼らと大いに揉めた事が主たる原因である。
 その男は酒を煽っていて、身なりもだらしがなく、母親の身体をべたべたと触りながら、居間に寝転ぶと、亭主の顔をして傍若無人に振舞っていた。

 母親の事は、肉欲を満たす為の器としか見ていないからか、我が子でもないガキが居ることに酷く腹を立てたようで。
『俺達の恋路を邪魔するな』と怒鳴られながら、俺はなすがままに怒りの捌け口となっていた。

振りあげられた拳が皮膚と骨を容赦なく抉る痛みが、未だに脳裏で繰り返されている。
恐怖はない。ただいつも何となく、死にたくなる。

 腕や頬の生傷は、その時に出来たもので、目の下のクマは隣室から響く騒音のせいで、一睡もできていないが故のものだ。

 だから俺は、図星だった。

「ねえ、オレに嘘つかないって約束したでしょ?」

「……してねえよ」

「約束した。小学二年生の夏、岬ノ神社で」

「そんなガキの頃の話、覚えてねえって」

「記憶力がいいきょーちゃんが、オレ達の大事な場所を忘れるわけない」

 一体どこからその自信が湧いてくるんだか。

 俺が碧空を滑る絶え間ない雲の流れに目を向けたまま、視線を合わさずにいると、コイツは露骨に機嫌を悪くして拗ねてしまった。

 毎回お決まりのパターンだが、十分もしない内に平静を取り戻しているから、俺も特段相手にすることはない。
 風で煽られた稲穂が、漣のような音を立てながら、寄せては引いてを繰り返している。
 それ以外、この二人の間には言葉一つ交わらなかった。

 そうして、隣で不平不満を小さく垂れている幼馴染を放置したまま、歩みを進めると、漸く校舎が見えてくる。
 ふと、二階の格子状に造られた窓から、「遅刻するぞ」と急かす声がした。

 校舎の中心に取り付けられた時計へ目をやれば、残り三分程で授業開始のチャイムが鳴るという所であった。

 慌てて下駄箱に靴を投げ入れる俺に相対して、コイツはぶすくれながらダラダラと簀子(すのこ)に座り込んでいる。

「遅れるぞ」

「いいですよー、オレは後から行くもん」

 次には唇を尖らせ、まるで子供のような口ぶりで、態とらしく靴を遅く脱いでいる。
 極めつけは、小走りに階段を駆け上がる自分の背後で、一段一段、気力の感じられない足取りで上がってくる始末だ。

 こうも傷心されると居た堪れなくなってくる。次第に、自分の胸を削るヤスリのような罪悪感に、心苦しさが増す。
 喉の奥がごろごろして、胸焼けまで起こしているようだ。

 数段先を昇ることも諦めた幼馴染の為に、態々来た道を戻り、俺はその暖簾のように下げられた腕を引っ張る。

「もんじゃねぇよ。オラ、ちったァ走れよ、浠《みずき》」

「……なんで。普段名前なんて呼ばないのに。……っまさかオレが拗ねちゃったの気にしてくれてたの?も〜、きょーちゃん好きーっ!!」

「階段で抱き着くな危ねえっ、クソ、マジで!」

「きょーーちゃぁーーん!!」

 その嬉々とした歓声と共に、授業開始のチャイムがなる。

 遅刻確定を報せる、最も喜べない愛の鐘と共に、俺の苛立ちは最高潮へと達した。