もしもの話をしよう。
あなたがよく知っている、ミステリを書く小説家のYが、ノンフィクション・ライターだったとしたら、の話だ。
あなたは、いままでYはフィクションを書く作家だと思っていた。思いこんでいた、と言うほうが正しいかもしれない。
あなたは、裏切られたような気分になる。
もしもの話だ。
私は、そんな小説家を知っている。その小説家のイニシャルも、やっぱりYだ。
だが、ここでYの正体を公表して仕舞えば、フェアプレーでもなし、Yの尊厳をキズつけてしまうことになる。
だから、Yの正体は触れない。
Yの正体に、触れてはいけない。
*
Y、三十四歳の秋。
日本は、高度経済成長期があっけなく幕切れを迎えてから五年後。ぬけがらになったビルたちで、抜け殻にならないようにあくせく働く男たち。
Yは、そんな会社員たちをいちべつして、喫茶店へ向かった。
Yの前を、小さな男の子が歩いている。
五六歳くらいだろうか。
秋にしては寒いこんな日に、男の子は半そで半ズボンで歩いている。折り紙で作った、謎の袋を持ち歩いている。
家出だろうか、とYは直感した。男の子はそれと感づかれないように、わざと気丈にふるまっているのだ、と。
男の子が、曲がり角で左に曲がった。Yの知らない方面だ。
Yの目指す喫茶店は、曲がり角を直進する。
Yは、曲がり角でしばらく立ち止まると、左折した。ぎょえー、と声をあげた。
男の子がおらず、かわりに三四十代くらいの、キャリーバッグを道に這わせる男が歩いていたのだ。
キャリーバッグの中から、『助けて!』と聞こえてきた気がする。
もしかして、誘拐犯なのか。
Yの脳内を、その考えが独占する。
気づけば、Yは走り出していた。
男も、Yに気づき、逃げる。
激しい攻防戦。
勝ったのは男だった。Yは、男とも、男の子とも、それきりまったく会っていない。
その日、Yは、コーヒーを飲みながら、敗北を痛感していた。
Yは、喫茶店で、原稿用紙を広げた。
編集者から書くように言われている密室殺人より、今は誘拐事件が魅力的に思えた。
これは、Y自身のエッセイである、というていで行こうと思ったが、一行目から語り手がYだと知らせては面白くない。フェアじゃない。
――そうだ、少しずつ種明かしをしていこう、と。
こんな考えが、私の脳裏に浮かんだのである。
(おわり)
あなたがよく知っている、ミステリを書く小説家のYが、ノンフィクション・ライターだったとしたら、の話だ。
あなたは、いままでYはフィクションを書く作家だと思っていた。思いこんでいた、と言うほうが正しいかもしれない。
あなたは、裏切られたような気分になる。
もしもの話だ。
私は、そんな小説家を知っている。その小説家のイニシャルも、やっぱりYだ。
だが、ここでYの正体を公表して仕舞えば、フェアプレーでもなし、Yの尊厳をキズつけてしまうことになる。
だから、Yの正体は触れない。
Yの正体に、触れてはいけない。
*
Y、三十四歳の秋。
日本は、高度経済成長期があっけなく幕切れを迎えてから五年後。ぬけがらになったビルたちで、抜け殻にならないようにあくせく働く男たち。
Yは、そんな会社員たちをいちべつして、喫茶店へ向かった。
Yの前を、小さな男の子が歩いている。
五六歳くらいだろうか。
秋にしては寒いこんな日に、男の子は半そで半ズボンで歩いている。折り紙で作った、謎の袋を持ち歩いている。
家出だろうか、とYは直感した。男の子はそれと感づかれないように、わざと気丈にふるまっているのだ、と。
男の子が、曲がり角で左に曲がった。Yの知らない方面だ。
Yの目指す喫茶店は、曲がり角を直進する。
Yは、曲がり角でしばらく立ち止まると、左折した。ぎょえー、と声をあげた。
男の子がおらず、かわりに三四十代くらいの、キャリーバッグを道に這わせる男が歩いていたのだ。
キャリーバッグの中から、『助けて!』と聞こえてきた気がする。
もしかして、誘拐犯なのか。
Yの脳内を、その考えが独占する。
気づけば、Yは走り出していた。
男も、Yに気づき、逃げる。
激しい攻防戦。
勝ったのは男だった。Yは、男とも、男の子とも、それきりまったく会っていない。
その日、Yは、コーヒーを飲みながら、敗北を痛感していた。
Yは、喫茶店で、原稿用紙を広げた。
編集者から書くように言われている密室殺人より、今は誘拐事件が魅力的に思えた。
これは、Y自身のエッセイである、というていで行こうと思ったが、一行目から語り手がYだと知らせては面白くない。フェアじゃない。
――そうだ、少しずつ種明かしをしていこう、と。
こんな考えが、私の脳裏に浮かんだのである。
(おわり)



