君の隣で息をする

体育館を出て、廊下を歩く。
床に当たる靴音だけが、やけに大きく響く。
肩を借りながら歩くたび、体が少し揺れる。
視界はまだ完全じゃなくて、ところどころ白く滲んでいた。

「気分、悪くない?」

すぐ近くから、さっきと同じ、落ち着いた声がする。

「……ちょっと、くらっとする」

自分の声が、思ったより小さかった。

「そっか。無理しなくていいから」

そう言って、支える腕に少しだけ力がこもる。

廊下の突き当たり。
白い扉に、保健室の文字が見えた。
扉が開くと、消毒液の匂いがふわっと広がる。ひんやりした空気が、火照った頭に心地よかった。

「失礼します」

返事はない。どうやら、今は誰もいないらしい。

「先生、いないな……先に座ろう」

そう言って、ベッドのカーテンを開けてくれる。白いシーツが目に入った瞬間、
安心したのか、急に力が抜けた。

「ここ、座れる?」

こくり、と頷くと、ゆっくりとベッドに腰を下ろされる。
マットレスが沈んで、体が預けられた。

「立ちっぱなしで無理させたな」

そう言って、少し困ったように笑う。
そこで初めて、ちゃんと顔が見えた。
背が高くて、整った顔立ち。思っていたより、ずっと柔らかい表情をしている。

「……ありがとう」

掠れた声でそう言うと、

「どういたしまして。少し横になってな」

そう言って、カーテンをそっと閉められた。

連れてきてくれたのは、一条 慧(いちじょう けい)
俺の後ろの席で、湊くんみたいに、明るくてかっこよくて、誰とでも仲良くなれるような人。

俺とは、住んでる世界が違うはずなのに。
同じクラスで、後ろの席だけど、話した事なんてなかった。

……何で、俺なんかを。

そんな事を考えているうちに、まぶたがじわじわ重くなってきた。
少しだけ横になるつもりだったのに、そのまま体が動かなくなった。
カーテンの向こうで、誰かが話している気配がする。声は聞こえるのに、
言葉までは届かない。

……もう、少しだけ。

そう思ったところで、意識が、ふっと遠のいた。



どれくらい眠っていたんだろう。
まぶたの向こうが、やけに明るい。
うっすらと目を開けると、カーテン越しに、橙色の光が滲んでいた。

……夕方?

体を起こそうとして、少しだけ頭がくらっとする。

「無理すんなって」

すぐ近くから、聞き慣れた声がした。

「……湊、くん?」

ベッドのすぐ横にある椅子に座っている湊くんの心配そうな顔が、すぐそばにあった。

「やーっと起きた。結構寝てたよ」

湊くんは少しだけ安心したように笑う。その表情に、胸の奥がほっと緩んだ。

「……今、何限?」
「もう放課後だよ」

放課後か……早く帰らないと。今日も、夕方からバイトがある。

「蒼空、帰れそう?」
「うん、帰れる。」

安心させるように少し笑った。やっぱり、湊くんは過保護だ。

「湊くんは、これから部活?」
「うん。そうだよ」

一条くんってバレー部だっけ。お礼言っておいてもらおうかな。

「一条くんって、バレー部だよね。お礼、伝えておいて欲しい」

湊くんのさっきまでの優しい表情が、ふっと消える。

……なんでだ。

「分かった」

一瞬だけ間を置いてから、ムッとしたままそう言った。
一条くんと仲良くないのかな。

ほんとに伝えておいてくれるかな……?

不安になりつつも、保健室を出る支度を進める。

「じゃあ行こっか」

湊くんが俺の荷物を持ち上げて言う。

……え、いや、自分で持てるけど。

まあ、たまには甘えても良いのかなって。

「ありがとう」
「ん。俺、部活あるから途中まででいい?」

送って行ってくれるんだ。

「うん、大丈夫だよ」

無理に明るくしたつもりはなかったのに、湊くんは少し困った顔をした。

「ほんとに平気?」
「平気だよ」

そう言うと、しばらく迷ったあと湊くんは、

「……何かあったらすぐ連絡して」

と念を押す。それから、校門の前で別れた。

校門を離れると、さっきまで隣にあった湊くんの気配がなくなって、
急に世界が広くなった気がする。

一人になると少し心が軽くなる。
夕方の風は少し冷たくて、火照っていた頭をゆっくり冷ましてくれた。

足取りは重くないはずなのに、体の奥がだるい。
まだ完全復帰したわけではないみたいだ。
また倒れたりしたら、迷惑をかけるから、今日はバイト休んでゆっくりしよう。



玄関のドアを開けると、家の中はしんとしていた。

「ただいまー」

返事はない。靴を揃えて、リビングを覗く。
やっぱり、まだ誰もいない。
そういえば晴、今日遅くなるって言ってたな。

制服を脱いで部屋に置き、エプロンを手に取る。
少しだけ頭は重いけれど、動けないほどじゃない。
むしろ、何かしていた方が楽だった。

包丁がまな板に当たる音が、規則正しく響く。
じゅう、というフライパンの音。
湯気が立ち上って、部屋にあたたかい匂いが広がっていく。

時計を見ると、まだ帰ってくるには少し早い時間だった。

……今日は、バイト休んで正解だったかも。

料理が出来上がって、ひと段落してソファに腰を下ろす。
テレビをつける気にもならず、ぼんやりと天井を見上げた。

すると、ガチャ、とドアを開ける音がした。
はっとして立ち上がり、玄関に向かう。

「ただいま〜」
「晴、おかえり」

思ったより遅くないな。

「兄ちゃん今日早いねーバイトは?」
「今日は休んだ。疲れ溜まっちゃっててさ」

安心させるように少し笑う。

「ふーん……」

あれ、疑ってる?
さっきまで明るかったはずの晴の顔が曇った。
弟まで心配させてどーすんだ。

「元気だから。大丈夫」

元気アピールのつもりで、両手を広げて笑ってみせる。

「……そっか。何かあったら言ってね?」
「大丈夫だってば」
「はいはーい」

心配して欲しくないから、何かあっても言えるわけがない。

「先お風呂入ってきちゃいな」
「分かった〜」

さてと、盛り付けでもして待っていようかな。



食器を片付けて、電気を落とす。
家の中が静かになると、ようやく一日が終わった気がした。

自分の部屋に戻って、ベッドに腰を下ろす。
体が重い。バイトがある日よりも、ずっと疲れた気がした。

早く寝ちゃおう。今日はもうこれ以上、何も考えたくなかった。