体育館を出て、廊下を歩く。
床に当たる靴音だけが、やけに大きく響く。
肩を借りながら歩くたび、体が少し揺れる。
視界はまだ完全じゃなくて、ところどころ白く滲んでいた。
「気分、悪くない?」
すぐ近くから、さっきと同じ、落ち着いた声がする。
「……ちょっと、くらっとする」
自分の声が、思ったより小さかった。
「そっか。無理しなくていいから」
そう言って、支える腕に少しだけ力がこもる。
廊下の突き当たり。
白い扉に、保健室の文字が見えた。
扉が開くと、消毒液の匂いがふわっと広がる。ひんやりした空気が、火照った頭に心地よかった。
「失礼します」
返事はない。どうやら、今は誰もいないらしい。
「先生、いないな……先に座ろう」
そう言って、ベッドのカーテンを開けてくれる。白いシーツが目に入った瞬間、
安心したのか、急に力が抜けた。
「ここ、座れる?」
こくり、と頷くと、ゆっくりとベッドに腰を下ろされる。
マットレスが沈んで、体が預けられた。
「立ちっぱなしで無理させたな」
そう言って、少し困ったように笑う。
そこで初めて、ちゃんと顔が見えた。
背が高くて、整った顔立ち。思っていたより、ずっと柔らかい表情をしている。
「……ありがとう」
掠れた声でそう言うと、
「どういたしまして。少し横になってな」
そう言って、カーテンをそっと閉められた。
連れてきてくれたのは、一条 慧。
俺の後ろの席で、湊くんみたいに、明るくてかっこよくて、誰とでも仲良くなれるような人。
俺とは、住んでる世界が違うはずなのに。
同じクラスで、後ろの席だけど、話した事なんてなかった。
……何で、俺なんかを。
そんな事を考えているうちに、まぶたがじわじわ重くなってきた。
少しだけ横になるつもりだったのに、そのまま体が動かなくなった。
カーテンの向こうで、誰かが話している気配がする。声は聞こえるのに、
言葉までは届かない。
……もう、少しだけ。
そう思ったところで、意識が、ふっと遠のいた。
*
どれくらい眠っていたんだろう。
まぶたの向こうが、やけに明るい。
うっすらと目を開けると、カーテン越しに、橙色の光が滲んでいた。
……夕方?
体を起こそうとして、少しだけ頭がくらっとする。
「無理すんなって」
すぐ近くから、聞き慣れた声がした。
「……湊、くん?」
ベッドのすぐ横にある椅子に座っている湊くんの心配そうな顔が、すぐそばにあった。
「やーっと起きた。結構寝てたよ」
湊くんは少しだけ安心したように笑う。その表情に、胸の奥がほっと緩んだ。
「……今、何限?」
「もう放課後だよ」
放課後か……早く帰らないと。今日も、夕方からバイトがある。
「蒼空、帰れそう?」
「うん、帰れる。」
安心させるように少し笑った。やっぱり、湊くんは過保護だ。
「湊くんは、これから部活?」
「うん。そうだよ」
一条くんってバレー部だっけ。お礼言っておいてもらおうかな。
「一条くんって、バレー部だよね。お礼、伝えておいて欲しい」
湊くんのさっきまでの優しい表情が、ふっと消える。
……なんでだ。
「分かった」
一瞬だけ間を置いてから、ムッとしたままそう言った。
一条くんと仲良くないのかな。
ほんとに伝えておいてくれるかな……?
不安になりつつも、保健室を出る支度を進める。
「じゃあ行こっか」
湊くんが俺の荷物を持ち上げて言う。
……え、いや、自分で持てるけど。
まあ、たまには甘えても良いのかなって。
「ありがとう」
「ん。俺、部活あるから途中まででいい?」
送って行ってくれるんだ。
「うん、大丈夫だよ」
無理に明るくしたつもりはなかったのに、湊くんは少し困った顔をした。
「ほんとに平気?」
「平気だよ」
そう言うと、しばらく迷ったあと湊くんは、
「……何かあったらすぐ連絡して」
と念を押す。それから、校門の前で別れた。
校門を離れると、さっきまで隣にあった湊くんの気配がなくなって、
急に世界が広くなった気がする。
一人になると少し心が軽くなる。
夕方の風は少し冷たくて、火照っていた頭をゆっくり冷ましてくれた。
足取りは重くないはずなのに、体の奥がだるい。
まだ完全復帰したわけではないみたいだ。
また倒れたりしたら、迷惑をかけるから、今日はバイト休んでゆっくりしよう。
*
玄関のドアを開けると、家の中はしんとしていた。
「ただいまー」
返事はない。靴を揃えて、リビングを覗く。
やっぱり、まだ誰もいない。
そういえば晴、今日遅くなるって言ってたな。
制服を脱いで部屋に置き、エプロンを手に取る。
少しだけ頭は重いけれど、動けないほどじゃない。
むしろ、何かしていた方が楽だった。
包丁がまな板に当たる音が、規則正しく響く。
じゅう、というフライパンの音。
湯気が立ち上って、部屋にあたたかい匂いが広がっていく。
時計を見ると、まだ帰ってくるには少し早い時間だった。
……今日は、バイト休んで正解だったかも。
料理が出来上がって、ひと段落してソファに腰を下ろす。
テレビをつける気にもならず、ぼんやりと天井を見上げた。
すると、ガチャ、とドアを開ける音がした。
はっとして立ち上がり、玄関に向かう。
「ただいま〜」
「晴、おかえり」
思ったより遅くないな。
「兄ちゃん今日早いねーバイトは?」
「今日は休んだ。疲れ溜まっちゃっててさ」
安心させるように少し笑う。
「ふーん……」
あれ、疑ってる?
さっきまで明るかったはずの晴の顔が曇った。
弟まで心配させてどーすんだ。
「元気だから。大丈夫」
元気アピールのつもりで、両手を広げて笑ってみせる。
「……そっか。何かあったら言ってね?」
「大丈夫だってば」
「はいはーい」
心配して欲しくないから、何かあっても言えるわけがない。
「先お風呂入ってきちゃいな」
「分かった〜」
さてと、盛り付けでもして待っていようかな。
*
食器を片付けて、電気を落とす。
家の中が静かになると、ようやく一日が終わった気がした。
自分の部屋に戻って、ベッドに腰を下ろす。
体が重い。バイトがある日よりも、ずっと疲れた気がした。
早く寝ちゃおう。今日はもうこれ以上、何も考えたくなかった。
床に当たる靴音だけが、やけに大きく響く。
肩を借りながら歩くたび、体が少し揺れる。
視界はまだ完全じゃなくて、ところどころ白く滲んでいた。
「気分、悪くない?」
すぐ近くから、さっきと同じ、落ち着いた声がする。
「……ちょっと、くらっとする」
自分の声が、思ったより小さかった。
「そっか。無理しなくていいから」
そう言って、支える腕に少しだけ力がこもる。
廊下の突き当たり。
白い扉に、保健室の文字が見えた。
扉が開くと、消毒液の匂いがふわっと広がる。ひんやりした空気が、火照った頭に心地よかった。
「失礼します」
返事はない。どうやら、今は誰もいないらしい。
「先生、いないな……先に座ろう」
そう言って、ベッドのカーテンを開けてくれる。白いシーツが目に入った瞬間、
安心したのか、急に力が抜けた。
「ここ、座れる?」
こくり、と頷くと、ゆっくりとベッドに腰を下ろされる。
マットレスが沈んで、体が預けられた。
「立ちっぱなしで無理させたな」
そう言って、少し困ったように笑う。
そこで初めて、ちゃんと顔が見えた。
背が高くて、整った顔立ち。思っていたより、ずっと柔らかい表情をしている。
「……ありがとう」
掠れた声でそう言うと、
「どういたしまして。少し横になってな」
そう言って、カーテンをそっと閉められた。
連れてきてくれたのは、一条 慧。
俺の後ろの席で、湊くんみたいに、明るくてかっこよくて、誰とでも仲良くなれるような人。
俺とは、住んでる世界が違うはずなのに。
同じクラスで、後ろの席だけど、話した事なんてなかった。
……何で、俺なんかを。
そんな事を考えているうちに、まぶたがじわじわ重くなってきた。
少しだけ横になるつもりだったのに、そのまま体が動かなくなった。
カーテンの向こうで、誰かが話している気配がする。声は聞こえるのに、
言葉までは届かない。
……もう、少しだけ。
そう思ったところで、意識が、ふっと遠のいた。
*
どれくらい眠っていたんだろう。
まぶたの向こうが、やけに明るい。
うっすらと目を開けると、カーテン越しに、橙色の光が滲んでいた。
……夕方?
体を起こそうとして、少しだけ頭がくらっとする。
「無理すんなって」
すぐ近くから、聞き慣れた声がした。
「……湊、くん?」
ベッドのすぐ横にある椅子に座っている湊くんの心配そうな顔が、すぐそばにあった。
「やーっと起きた。結構寝てたよ」
湊くんは少しだけ安心したように笑う。その表情に、胸の奥がほっと緩んだ。
「……今、何限?」
「もう放課後だよ」
放課後か……早く帰らないと。今日も、夕方からバイトがある。
「蒼空、帰れそう?」
「うん、帰れる。」
安心させるように少し笑った。やっぱり、湊くんは過保護だ。
「湊くんは、これから部活?」
「うん。そうだよ」
一条くんってバレー部だっけ。お礼言っておいてもらおうかな。
「一条くんって、バレー部だよね。お礼、伝えておいて欲しい」
湊くんのさっきまでの優しい表情が、ふっと消える。
……なんでだ。
「分かった」
一瞬だけ間を置いてから、ムッとしたままそう言った。
一条くんと仲良くないのかな。
ほんとに伝えておいてくれるかな……?
不安になりつつも、保健室を出る支度を進める。
「じゃあ行こっか」
湊くんが俺の荷物を持ち上げて言う。
……え、いや、自分で持てるけど。
まあ、たまには甘えても良いのかなって。
「ありがとう」
「ん。俺、部活あるから途中まででいい?」
送って行ってくれるんだ。
「うん、大丈夫だよ」
無理に明るくしたつもりはなかったのに、湊くんは少し困った顔をした。
「ほんとに平気?」
「平気だよ」
そう言うと、しばらく迷ったあと湊くんは、
「……何かあったらすぐ連絡して」
と念を押す。それから、校門の前で別れた。
校門を離れると、さっきまで隣にあった湊くんの気配がなくなって、
急に世界が広くなった気がする。
一人になると少し心が軽くなる。
夕方の風は少し冷たくて、火照っていた頭をゆっくり冷ましてくれた。
足取りは重くないはずなのに、体の奥がだるい。
まだ完全復帰したわけではないみたいだ。
また倒れたりしたら、迷惑をかけるから、今日はバイト休んでゆっくりしよう。
*
玄関のドアを開けると、家の中はしんとしていた。
「ただいまー」
返事はない。靴を揃えて、リビングを覗く。
やっぱり、まだ誰もいない。
そういえば晴、今日遅くなるって言ってたな。
制服を脱いで部屋に置き、エプロンを手に取る。
少しだけ頭は重いけれど、動けないほどじゃない。
むしろ、何かしていた方が楽だった。
包丁がまな板に当たる音が、規則正しく響く。
じゅう、というフライパンの音。
湯気が立ち上って、部屋にあたたかい匂いが広がっていく。
時計を見ると、まだ帰ってくるには少し早い時間だった。
……今日は、バイト休んで正解だったかも。
料理が出来上がって、ひと段落してソファに腰を下ろす。
テレビをつける気にもならず、ぼんやりと天井を見上げた。
すると、ガチャ、とドアを開ける音がした。
はっとして立ち上がり、玄関に向かう。
「ただいま〜」
「晴、おかえり」
思ったより遅くないな。
「兄ちゃん今日早いねーバイトは?」
「今日は休んだ。疲れ溜まっちゃっててさ」
安心させるように少し笑う。
「ふーん……」
あれ、疑ってる?
さっきまで明るかったはずの晴の顔が曇った。
弟まで心配させてどーすんだ。
「元気だから。大丈夫」
元気アピールのつもりで、両手を広げて笑ってみせる。
「……そっか。何かあったら言ってね?」
「大丈夫だってば」
「はいはーい」
心配して欲しくないから、何かあっても言えるわけがない。
「先お風呂入ってきちゃいな」
「分かった〜」
さてと、盛り付けでもして待っていようかな。
*
食器を片付けて、電気を落とす。
家の中が静かになると、ようやく一日が終わった気がした。
自分の部屋に戻って、ベッドに腰を下ろす。
体が重い。バイトがある日よりも、ずっと疲れた気がした。
早く寝ちゃおう。今日はもうこれ以上、何も考えたくなかった。
