君の隣で息をする

なんでもない日の静かな朝。

ブーブーと、枕元のスマホが震えて、アラームが鳴る。
カーテンの隙間から差し込む光がやけに強くて、まだ眠っていたい目を無理やりこじ開けさせられる。

やっとの思いで体を起こして、大きく伸びをすると、
「んう……」と、気の抜けた声が出る。

ベッドから降りて制服に着替え、シャツのボタンを留めながら階段を下りる。
キッチンでフライパンに火をつけると、じわっと広がる油の匂いが、少しずつ朝を現実にしていく。
ちょうど朝ご飯ができあがったタイミングで、

「おはよお〜」

と、あくび混じりの声。
振り向くと、髪をぐしゃぐしゃにしたままの(はる)が、手すりに掴まりながら降りてきた。

「晴、顔洗ってきな。朝ご飯できてるよ」
「ん〜……」

寝ぼけたままの返事をして、晴はよろよろと洗面所へ向かう。
ああいう無防備なところを見ると、やっぱり弟なんだなと思う。

晴は、俺とは正反対だ。
明るくて、社交的で、誰とでもすぐ仲良くなれて、その場の雰囲気を良くできる。
制服を着崩しても様になるし、女子に囲まれているところもよく見る。
ほんの数日前も、

「付き合う事になった!」

と、嬉しそうに報告してきた。
それ以上は何も言わないから、突っ込み過ぎるのは兄としてどうなんだろう、とか、
そんなことを考える。
洗面所の水音が止まって、晴が戻ってきた。

「「いただきます」」

朝ご飯は、いつも二人揃って食べる。
それが、当たり前みたいに続いている、うちのルーティン。

ピッと晴がテレビを付ける。
静かなリビングがアナウンサーの声で満たされる。
今日の天気は晴れ。
今週いっぱい晴れが続くらしい。

気づけば、天気予報は終わり、手元のお椀も空になっていた。

「「ごちそうさまでした」」

ぱっと横を見ると、先に食べ終わったらしい晴が荷物をリックに詰めている。

「兄ちゃん、そろそろ行く?」

荷物を詰め終わった晴が、顔を上げた。

「うん。行こっか」

バックにお弁当を入れながら、晴に声をかける。

「忘れ物ない?」
「ないよ。今日帰り遅くなっちゃうかも。」
「りょーかい。気をつけてね」

壁にかけられた時計を見ると、意外と時間がない。
少し急ぎめで荷物を持って玄関のドアを開けると、まだ冷たい朝の空気が頬を撫でた。

「兄ちゃんじゃーねー」
「晴、またね」

晴に別れを告げて、一歩踏み出した。



今日も、幼馴染の(みなと)くんと登校する。
桃色の桜が散って、緑の葉がついた木が、道に沿って並んでいる。
湊くんとは、少し先の小さな公園の前で待ち合わせている。
しばらく一人で歩いていると、目的の公園が見えてきた。

あ、いた。

「湊くん、おはよう」

スマホを見ていた顔がぱっと上がる。

「おはよ、蒼空(そら)


朝の光を受けて、その笑顔がやけに眩しく見えた。

「今日あったかいね〜」

並んで歩き出してすぐ、湊くんが空を見上げながら言った。

「だね。春って感じする」

制服の上からでも、じんわりとした暖かさが伝わってくる。
あたたかい風が静かに吹いていて、季節が少し進んだ気がした。
しばらく、沈黙が続く。
と思ったら、湊くんが口を開いた。

「蒼空、最近寝れてる?」
「寝れてるよ?」

ほんとに?と言いながら湊くんが顔を覗き込んでくる。

「目にくまできてるけど。昨日寝るの遅かったんじゃない?」
「そ……んな事ないよ。ちゃんと寝てるって」

たまに出る湊くんのお母さんモード。
昨日はバイトがあったからあまり寝れていない。
でも、湊くんに心配かけたくはないから、心苦しいけれど嘘をつく。

「嘘だ。蒼空って顔に出やすいからバレバレだよ?」

なぜバレる……!

「わかりやすいね〜蒼空くん」

得意げに笑いながら、湊くんが指先で軽く俺の頬をつつく。

「ちょ、やめてよ……」

もう子供じゃないんだけど、と言うがやめてくれない。

「やめませーん。てか、蒼空全然嫌がんないじゃん。」
「抵抗しても無駄かなって……」

ふはっと、湊くんは笑い出した。

「……かわいー」

ん?かわ……?
ぼそっと湊くんが言った言葉を、俺は聞き逃さなかった。
俺の頭の上に、はてなマークが浮かぶ。
ちらっと湊くんの方をみるけれど、何事もなかったかのように前を向いている。

「ま、無理しないでね。倒れないように気をつけてよ」
「うん。気をつける」

そう答えると、湊くんは少しだけ安心したように笑った。



そのまま並んで歩いていると、通学路に同じ制服の生徒が少しずつ増えてきた。
前を歩く人の背中や、後ろから追い抜いていく足音が、朝の静けさをゆっくり溶かしていく。
他愛もない会話をしながら、学校の門をくぐる。
すると、後ろから

「湊はよ〜」

と、湊くんを呼ぶ声。

「おはよー。今日も寝癖すごいな」
「だろ。セットする時間ねえんだよな〜」

がははっと、豪快に笑うクラスメイト。
湊くんは、クラスの誰とでも仲が良い。
今のクラスメイトも、いつも湊くんと過ごしているうちの一人だ。
俺は、ああいうキラキラした輪の中には、うまく入れない。
だから、休み時間は一人で過ごすことが多い。
一人の方が、慣れているし、周りに気を使わなくて済む。

「星乃もはよ〜」

急に声を掛けられてビクッと肩が跳ねる。
一瞬、自分に向けられた言葉だと気づかなかった。

「お、おはよ……」

なかなか話す事がないから、ちょっとびっくりする。
気づけば、さっきまで話していたクラスメイトの姿はもうなかった。

「あいつ、声でかいんだよな〜。蒼空、びっくりしてたね」

にこっと微笑んで見てくる湊くん。

「ちょっとびっくりした。あんま話した事ないし」
「だよね〜」

そんな他愛もない会話をしているうちに、気づけば教室の前に立っていた。

教室のドアを開けると、いつものざわめきが耳に入る。
友達同士で集まって話している声や、椅子を引く音が混ざり合って、
朝の教室特有の空気が広がっていた。
湊くんは、いつものグループの方へと向かっていく。すぐに誰かに声を
掛けられていて、楽しそうに笑っていた。

俺はそれを少しだけ見てから、自分の席に向かう。
椅子に座って、鞄を机の横にかける。自分の席は窓側の後ろから二番目。
ぼーっと、窓の外を眺めながら、今日の夕飯何にしようかなとか、そんな事を考えていた。



気づけば、午前中の授業が終わっていた。
ノートを閉じた瞬間、視界がわずかに揺れた気がした。
……昨日寝れてないからかな。

「次、体育だから移動なー」

教師の声で、教室が一気にざわつく。俺は体操服に着替えて、体育館へ向かった。


ピピーッ

鋭い音が体育館に響いた。
今日の体育はバレー。
軽くアップをしてから、試合メインで授業が進んでいく。
今は、湊くんのチームがコートに立っている。
高く跳んだ湊くんの手から、ボールが勢いよく叩き落とされた。
その瞬間、少し離れたところから黄色い声が聞こえる。

ラリーが続き、点が入り、またすぐ笛が鳴る。目まぐるしく展開が変わっていく。

……やけに耳の奥で音が響いている気がする。

湊くんのチームの試合が終わって、自分のチームの試合の番が来た。

最初は、良かった。

ただ、段々視界が白くなっていって、グルグルし出した。

……あ、やばい。

まだ試合は中盤だった。抜けるわけにはいかない。
体にうまく力が入らなくて、倒れそうになる。

「……!……ら!そら!!!」

……呼ば、れてる?

「危ない!!!!!」


ドッッッ


衝撃と一緒に、視界が大きく揺れた。
足元がぐらりと崩れて、体が後ろに倒れる。

痛い。
けど、それより頭が――。

さっきまで響いていた笛や声が、水の中に沈んでいくみたいに、滲んでいく。
誰かが駆け寄ってくる気配がした。
視界の端で、影が揺れる。
肩を掴まれて、体が支えられる。
力が入らなくて、されるがままになる。

星乃(ほしの)、大丈夫?」

少し焦った声。知ってる声なのに、どうしても思い出せない。
……誰だっけ。
目を開けようとしたけど、うまく開かない。まぶたの裏が、ちかちかする。

「顔、赤くなってるな」

誰かの手が、そっと頬に触れる。

「立てそう?」

小さく首を振った。
完全に力が抜けてしまって、立つことさえできないと思った。
その瞬間、体がふわっと浮いた気がした。

「保健室行こうか」

体を支えられたまま、体育館の端へ連れて行かれる。
足がうまく動かなくて、ほとんど引きずられるみたいだった。

「蒼空……!」

聞き慣れた声が、少し震えて聞こえる。
湊くん、かな。

「俺も行く」

やっと目が開けられて、視界の端にいる湊くんを見れた。

「湊はいい」

きっぱりした声。目は開けられたのに、背が高くて、支えてくれているのが誰かは確認できない。

「でも――」
「人数多いと邪魔になるから。先生呼んできて」

一瞬、言葉がぶつかる。湊くんは唇を噛んで、俺を見る。その視線が、痛いくらい心配そうで。

「……すぐ行くね」

そう言ってくれたのに、返事をする力が残っていなかった。

「ゆっくりでいいよ。行こ」

そう言われて、また体を支え直される。
肩に回された腕が、思ったよりしっかりしていた。

体育館の扉が開く。
きい、と小さな音。

外の空気がひんやりしていて、さっきまでの喧騒が、嘘みたいに遠ざかって
いった。