優しい嘘

手術の日は、思っていたよりもずっと早くやってきた。

不安と期待が入り混じる中で、私はずっと兄のことを考えていた。

きっと手を握って、「大丈夫だよ」と言ってくれると思っていたから。


けれど

「本当にごめん。どうしても抜けられなくて。」

電話越しの兄の声は、いつもと同じ優しさなのに、どこか少しだけ遠く感じた。
 
 やがて名前を呼ばれ、私は手術室へと運ばれていった。
ベッドが動くたびに、機械の音や人の足音がやけに大きく聞こえる。
「大丈夫ですよ。すぐ終わりますからね。」
優しい声が聞こえる。けれど、その優しさがかえって不安を大きくした。
冷たい何かが腕に触れた。
「少し眠くなりますよ。」
だめだ。まだ怖い。
ちゃんと、目を開けるって決めたのに。
お兄ちゃん。
心の中でそう呼んだ瞬間、意識がゆっくりと遠のいていった。


 次に目覚めた時には手術は終わっていた。

「目を開けてみてください。どうですか?」

担当医が何か壊れそうなものに触れるように声をかけた。

よし1、2、3で目を開けよう。

1、2、、だめだ怖い。

もしこれでいつもと同じ真っ暗闇しか見えなかったら?

お兄ちゃんもお母さんもお父さんもお医者さんまでもがっかりさせてしまう。

お金だってきっと高いはず。


もう失うものなんてないはずなのに、なにか大切なものを失ってしまう気がして前に進めない。

みんな応援してくれているのに。

こんな自分が嫌いだ。

そう葛藤していたときふとこんな言葉が頭によぎった。

「いつかみんなでお互いの表情を見て会話をしよう。そしてみんなで食卓を囲もう。約束だ。」

いつしかお父さんが言ってくれた言葉。

ほとんどの人からすると、日常のことなのかもしれない。

それでも、人の感情を顔を見ることによって汲み取ったことのない私にとって家族で顔を合わせながら食事をすることは夢のような話だった。

そして、なにより父がそう言ってくれたこと、母と兄が深く同意してくれたことがただただ嬉しかった。

きっと私は家族に恵まれている。

みんなこんな私のことを好きだと言ってくれる。

なのに私は怖くて目の前のことすらできないなんて情けない。

よし私も頑張るんだ。

私に期待してくれている人たちがいるかぎり、何があってもやるしかない。

そう覚悟を決めゆっくりゆっくりと目を開く。

するとそこには暗闇以外のものがあった。

真っ白の天井、こちらを明るく照らす電灯、そして心配そうに私を見つめる白衣を着た人たち。

はじめて見る景色に驚くと同時に、世界にはこんなにたくさんの色があることを生まれて初めて知った。

ただの病院の景色に過ぎないが、私は初めて自分の目で見た世界の一ピースを一生忘れないだろう。