思考の劇薬 〜 大人の絵本  『イデアの海をゆく宝船 〜ビジネスパーソンの価値探求と道徳航海録〜』 桜井ジン

音は、まだ合わない
 
嵐は去った。
けれど、船の中には、まだ風が残っていた。
星砂がヒラヒラと、宝船の上に降っている。
つぶは軽いのに、今日はなぜか重たそうだ。
甲板の板目さえ、どちらへ鳴けばよいのか迷うみたいに、カサリ、と乾いた音を立てる。
えびやんが甲板を歩くたび、神さまたちの肩がすこしだけ上がった。
だれも、その理由を言わない。
えびやんの頬に、面のふちのあとが、うすく残っている。
消えない。
えびやんは右を向き、
だいちゃんは左を向く。
そのほかの神さまも、プイッと背中を向け合う。
視線は交わらない。
白い息だけがスウと交わり、すぐほどける。
べにたんが、びわの弦をジャカジャカとかき鳴らす。
音が空気をひっかく。
「ねえ、もうバラバラよ。理想だの順序だの、音がぜんぜん合わないわ」
びしゃんは、やりを甲板にガチャンと置く。
板がビリリと震える。
「右に行きたいのと、左に行きたいの。これじゃ船が迷う」
そのとき。
船がガタガタと震えはじめた。
底のほうから、ブルブルといやなゆれが上がってくる。
右からの風と、左からの風が、帆柱の真ん中でゴツンとぶつかった。
帆がバン、と張り、つぎの瞬間、ビシン、と引き戻される。
つなぎづなが、ギリギリ鳴く。
星砂がクルクルと渦を巻く。
細かなつぶが顔の前をおおい、だれの表情も見えなくなる。
えびやんは、鬼の面をつけたまま、かじを右へ倒す。
ギリ、と木が鳴る。
「進め」
だいちゃんは、こづちを胸に抱え、左へ一歩出る。
トン、と板が鳴る。
「いったん止めろ」
「止まるな」
「急ぐな」
言葉が甲板でぶつかる。
パチパチと、火花みたいに散る。
ほていは真ん中でオロオロ立っている。
ぬれたおなかから、ポタリと水が落ちる。
「まあまあ……」
声は風にちぎれる。
ロクさんの長いあたまが、ユラユラゆれる。
「ユラユラどうしが、ぶつかっておるのう」
船がギクン、とねじれる。
板がピシリ、と鳴った。
おじいだけが、渦のまんなかで、ひざをトントンとたたいている。
トン。
トン。
トン。
風にも、さけびにも、うばわれない、小さな間。
べにたんの指が、ふと止まる。
弦がかすかにふるえる。
「……ちょっと待って」
だが風がゴウゴウ鳴り、声をさらう。
びしゃんが右へ一歩。
だいちゃんが左へ一歩。
船はビキビキときしむ。
そのとき。
おじいが、少しだけ強くひざをたたいた。
トン!
小さな音。
けれど、まっすぐな音。
ちょうどその瞬間、右の風と左の風が、ほんの一しゅん、かみ合わなかった。
渦がぐらり、と形をくずす。
星砂がパラパラと落ちはじめる。
肩に、板に、静かに。
べにたんが、そっと弦をはじく。
ポロン。
今度の音は、とがっていない。
空気にすっとなじむ。
トン。
ポロン。
トン。
ポロン。
ひざの音と、びわの音が、ならんで歩く。
風が、わずかにゆるむ。
帆の張りが、すこしだけやわらぐ。
えびやんの、かじをにぎる手が止まる。
だいちゃんも、足を止める。
トン。
ポロン。
トン。
ほていが、そっと座る。
おなかをポン、とたたく。
トン。
三つの音が、ならぶ。
びしゃんは、やりをゆっくり立てかける。
柄が板にふれる音が、やわらかい。
「……今のは、どっちの音だ」
べにたんが、肩をすくめる。
「どっちでもないわ。まんなかよ」
星砂は、もう壁ではない。
ヒラヒラと、ただ舞っている。
えびやんは、鬼の面に手をかける。
外さない。
ただ、少しだけうつむく。
頬のあとが、星砂をうすく受けた。
「進まなくても、こわれる」
だいちゃんが、低く言う。
「進みすぎても、こわれる」
船はまだギシギシ鳴っている。
けれど、さっきより短い音だ。
おじいは、ひざをたたくのをやめ、甲板をそっとなでる。
細い割れ目の上を、指がなぞる。
「坂は、いそぎすぎても転ぶ」
だれも笑わない。
けれど、だれも背中を向けていない。
べにたんが、最後に小さくはじく。
ポロン。
音は、右にも左にもよらない。
まっすぐ空へ、のぼる。
船は、ほんのすこし前へ進む。
指一本ぶんほど。
水面が、かすかにひらく。
トン。
ポロン。
トン。
音は、まだぴったりとは合っていない。
でも、さっきよりは、ぶつかっていない。
星砂の向こうで、
その小さなまんなかの音だけが、
静かに続いているのだった。