えびやん、鬼になる
えびやんは、しばらく、かじを見ていた。
手をかけるまでに、二つ呼吸をした。
そっと、ひとつだけ動かす。
ギィ。
その音が、止まった世界をひっかいた。
星砂がヒラヒラと、宝船のまわりを舞っている。
けれど今日は、そのヒラヒラが落ちつかない。
風がゴウゴウとうなり、空がゆっくり黒くなる。
帆が、バン、とふくらんだ。
らんかんがミシリと鳴る。
波がドン、と船べりを打つ。
えびやんは、かじの前に立っていた。
手には、古い木の面。
指先が、ぎゅっと白くなる。
べにたんが、びわをかかえて走ってくる。
足音がバシャバシャ、ぬれた板に広がる。
「ねえ、これ、ただの風じゃないわ。船がバラバラになっちゃう!」
えびやんは答えない。
ゆっくりと、面を顔に当てる。
指が、ほんの少しだけ震えた。
カチリ。
「ふにゃり」とした笑いが、すっと消えた。
そこにあらわれたのは、きびしい目をした鬼の面。
目のあなのおくが、じっと暗い。
雨つぶがポチポチと面を打つ。
「みんな、持ち場へ」
声は低く、まっすぐだった。
だいちゃんは、こづちをぎゅっとにぎる。
グゥ、とおなかが鳴るが、ふたたびにぎり直す。
びしゃんは、よろいをガチャガチャ鳴らし、帆柱につかまる。
おじいは、長いひげをおさえながら、トン、と足をふんばる。
ロクさんの長いあたまが、ユラユラゆれる。
ほていは、甲板にゴロンと転がったまま、おなかをポンとたたく。
「まあまあ、一休み……」
ゴウッ、と風が声をさらう。
えびやんは、かじをギリギリと回す。
木がミシミシ鳴る。
船がグラリと傾く。
「止まるな」
短い声。
波がドン、と船底を打つ。
星砂は雨にまじり、ベチャリと板に広がる。
ヒラヒラは、もう見えない。
べにたんが、ぬれた手でつなを引く。
ツルリとすべる。
それでも、もう一度つかむ。
「ねえ、どうしちゃったの? いつものえびやんじゃない!」
返事はない。
かじがギリ、と鳴るだけ。
えびやんは、まっすぐ前を見る。
「今は、進む」
その一言だけが、嵐の中に残る。
だいちゃんは、こづちの角で自分のひざをトントンと打つ。
びしゃんは、波に向かって体を向ける。
ほていは、ぬれたおなかをポン、ともう一度たたく。
「流されても、いいときもあるのです」
えびやんの面が、わずかにゆれる。
けれど、かじをにぎる手はゆるまない。
「今は、流されない」
帆がビリビリ鳴る。
らんかんがきしむ。
木箱がガラガラ転がる。
中から、小さな鯛の置きものがコロンと出た。
えびやんは、一しゅん、それを見る。
ヒラヒラ、と一つぶの星砂が、鯛の上に落ちる。
えびやんは、鯛を拾わない。
ただ、前を見る。
「進め」
船は、黒いうねりの中へ、グイッと入っていく。
坂をのぼるみたいに、ゆっくり、けれど止まらずに。
雨がザーザー降りつづく。
雷がゴロゴロ遠くで鳴る。
だれも笑わない。
だれも泣かない。
ただ、それぞれの足が、板をギュッとつかんでいる。
ロクさんのあたまが、ユラユラと小さくゆれる。
「動くって、たいへんじゃのう」
おじいは、なにも言わない。
ただ、えびやんのうしろ姿を、じっと見ている。
鬼の面は、雨にぬれながら、前だけを向いている。
面の内がわは、見えない。
かじをにぎる手だけが、白く力をこめている。
嵐の向こうに、なにがあるのか。
だれも、まだ知らない。
それでも。
宝船は、ギシギシと音を立てながら、
ヒラヒラを失った空の下を、まっすぐ進んでいくのでした。
えびやんは、しばらく、かじを見ていた。
手をかけるまでに、二つ呼吸をした。
そっと、ひとつだけ動かす。
ギィ。
その音が、止まった世界をひっかいた。
星砂がヒラヒラと、宝船のまわりを舞っている。
けれど今日は、そのヒラヒラが落ちつかない。
風がゴウゴウとうなり、空がゆっくり黒くなる。
帆が、バン、とふくらんだ。
らんかんがミシリと鳴る。
波がドン、と船べりを打つ。
えびやんは、かじの前に立っていた。
手には、古い木の面。
指先が、ぎゅっと白くなる。
べにたんが、びわをかかえて走ってくる。
足音がバシャバシャ、ぬれた板に広がる。
「ねえ、これ、ただの風じゃないわ。船がバラバラになっちゃう!」
えびやんは答えない。
ゆっくりと、面を顔に当てる。
指が、ほんの少しだけ震えた。
カチリ。
「ふにゃり」とした笑いが、すっと消えた。
そこにあらわれたのは、きびしい目をした鬼の面。
目のあなのおくが、じっと暗い。
雨つぶがポチポチと面を打つ。
「みんな、持ち場へ」
声は低く、まっすぐだった。
だいちゃんは、こづちをぎゅっとにぎる。
グゥ、とおなかが鳴るが、ふたたびにぎり直す。
びしゃんは、よろいをガチャガチャ鳴らし、帆柱につかまる。
おじいは、長いひげをおさえながら、トン、と足をふんばる。
ロクさんの長いあたまが、ユラユラゆれる。
ほていは、甲板にゴロンと転がったまま、おなかをポンとたたく。
「まあまあ、一休み……」
ゴウッ、と風が声をさらう。
えびやんは、かじをギリギリと回す。
木がミシミシ鳴る。
船がグラリと傾く。
「止まるな」
短い声。
波がドン、と船底を打つ。
星砂は雨にまじり、ベチャリと板に広がる。
ヒラヒラは、もう見えない。
べにたんが、ぬれた手でつなを引く。
ツルリとすべる。
それでも、もう一度つかむ。
「ねえ、どうしちゃったの? いつものえびやんじゃない!」
返事はない。
かじがギリ、と鳴るだけ。
えびやんは、まっすぐ前を見る。
「今は、進む」
その一言だけが、嵐の中に残る。
だいちゃんは、こづちの角で自分のひざをトントンと打つ。
びしゃんは、波に向かって体を向ける。
ほていは、ぬれたおなかをポン、ともう一度たたく。
「流されても、いいときもあるのです」
えびやんの面が、わずかにゆれる。
けれど、かじをにぎる手はゆるまない。
「今は、流されない」
帆がビリビリ鳴る。
らんかんがきしむ。
木箱がガラガラ転がる。
中から、小さな鯛の置きものがコロンと出た。
えびやんは、一しゅん、それを見る。
ヒラヒラ、と一つぶの星砂が、鯛の上に落ちる。
えびやんは、鯛を拾わない。
ただ、前を見る。
「進め」
船は、黒いうねりの中へ、グイッと入っていく。
坂をのぼるみたいに、ゆっくり、けれど止まらずに。
雨がザーザー降りつづく。
雷がゴロゴロ遠くで鳴る。
だれも笑わない。
だれも泣かない。
ただ、それぞれの足が、板をギュッとつかんでいる。
ロクさんのあたまが、ユラユラと小さくゆれる。
「動くって、たいへんじゃのう」
おじいは、なにも言わない。
ただ、えびやんのうしろ姿を、じっと見ている。
鬼の面は、雨にぬれながら、前だけを向いている。
面の内がわは、見えない。
かじをにぎる手だけが、白く力をこめている。
嵐の向こうに、なにがあるのか。
だれも、まだ知らない。
それでも。
宝船は、ギシギシと音を立てながら、
ヒラヒラを失った空の下を、まっすぐ進んでいくのでした。


