思考の劇薬 〜 大人の絵本  『イデアの海をゆく宝船 〜ビジネスパーソンの価値探求と道徳航海録〜』 桜井ジン

何もしないの、最高!
 
宝船の上から、すべての音が消えた。
笛も、やりも、こづちも、びわも、
甲板の上で、ただ静かに転がっている。
ほていは、笛をすみに置いて、ゴロリと横になった。
大きなおなかが、ポヨン、とひとつ揺れる。
「ねえ、もう、何もしなくていいのです」
おなかの上に両手を置き、目を閉じる。
鼻先を、風がヒラリとなでていった。
星砂は、ヒラヒラと舞わない。
だいちゃんは、すすけたこづちをまくらにして、小さく丸まっていた。
甲板の板目を、じっと見つめる。
「……こづちを振るのも、つかれた」
えびやんは、ふにゃりと笑ったまま、白い湯をすすった。
湯気は、まっすぐ上にのびて、途中で止まった。
「ただ、おなかが空いていなくて、どこも痛くない。それだけで、いいんだね」
船は、どこへも向かわない。
ユラユラともせず、光の中に浮いている。
帆は、力なくパタリと垂れ下がった。
帆のはしが、ほんの少しだけ、ほつれている。
海は、ガラスみたいにピタリと止まっている。
泡も、さざ波も、ない。
空も、雲も、なにもかもが、のびきっていた。
べにたんは、船べりに腰かけ、びわのいとをポロンと弾いた。
音は、ヒラヒラと浮かび、途中でほどけるように消えた。
「ねえ、これ、たのしいの?」
足をブラブラさせる。
水面は、ゆれない。
おじいは、甲板にしゃがんで、小石をひとつ拾った。
コトン、と置く。
またひとつ拾って、コトン、と置く。
三つ目の小石は、置いたはずなのに、少しだけ傾いていた。
びしゃんは、よろいを半分ぬいだまま、柱にもたれている。
やりは、床にコロンと転がっている。
「……なんか、静かすぎるな」
声は、うすく広がって、すぐに消えた。
ほていは、ゴロリと寝返りを打った。
おなかが、ポヨン、とまた揺れる。
「まあまあ。静かなのは、いいことなのです。あらそわなくていい。考えなくていい。お昼寝できるのです」
えびやんは、湯のみを置いて、空を見上げた。
白い空のすき間に、小さな光がヒラヒラと浮いた。
「でもさ、船、止まってるよ」
だいちゃんは、こづちの角で甲板をトントンとたたいた。
音は、コトン、と落ちて、それきり広がらない。
ほていは、丸くなる。
「止まっていても、いいのです。どこにも行かなくていいのです」
そのとき。
かじが、ギィ……と小さく鳴った。
だれも触っていないのに、かじは、ほんの少しだけ横を向いていた。
霧でもなく、あらしでもない。
ただ、白い空間に、船はぽつんと浮いている。
おじいが、かじの方を見て、ひとこと。
「……このまま、ずっとかのう」
言葉は、甲板の上でポトンと落ちた。
だれも拾わない。
昼なのか、夜なのか、わからない。
時計の針が、トン、トン、と進む。
ロクさんは、長いあたまをポリポリかいた。
「波が、来ないねえ」
波は、来ない。
えびやんは、つりざおを垂らした。
いとは、ピンと張ったまま、少しも動かない。
「黄金のたいも、寝ちゃったかな」
水の下で、小さな魚が一匹、尾びれを動かしかけたまま、止まっていた。
べにたんは、白紙の楽譜をヒラヒラと空に投げた。
紙は、落ちずに、少しだけ傾いたまま止まった。
「ねえ、これ、世界もお昼寝してるのかしら」
ほていは、ニコニコしたまま言う。
「それなら、それで、いいのです」
びしゃんが、ゆっくり立ち上がった。
よろいが、ガチャリ、と鳴る。
「港、どこだ」
だれも答えない。
だいちゃんは、こづちを持ち上げ、空に向けて振ろうとした。
でも、手は途中で止まる。
「……順番が、ない」
こづちは、ポトン、と床に落ちた。
持ち手の根もとに、小さなヒビが入っていた。
えびやんは、船首に立った。
「ねえ、みんな。このままだと、どこにも、着かないよ」
声は、コロコロと転がって、船べりで止まる。
ほていは、目を開けた。
おなかをポンとたたく。
「着かなくても、いいじゃないですか。今、どこも痛くない。おなかも空いていない。それだけで、宝ものなのです」
おじいは、小石を並べるのをやめた。
三つ目の石だけ、やっぱり少し傾いている。
日が沈んだのか、まだなのか、わからない。
星も、キラキラしない。
白い空と、白い海と、白い船。
べにたんが、びわの胴をポンとたたいた。
音は、出ない。
「ねえ、これ、ちょっと、さびしくない?」
えびやんは、笑ったまま、まゆだけが少し下がった。
「……ふにゃり」
びしゃんは、やりを拾って、甲板に立てた。
ドン。
音は、吸いこまれた。
ロクさんが、小さく言う。
「ユラユラしないと、ユラユラが分からなくなるねえ」
時計の針が、カチリ、と鳴った。
そのしゅんかん。
船の下で、泡がひとつだけ、コポリ、と上がった。
すぐ消えた。
星砂が、ヒラヒラと、甲板のすみで舞う。
だれも気づかない。
かじが、もう一度、ギィ……と鳴る。
今度は、ほんの少しだけ、強く。
えびやんが、かじの前に立つ。
「ねえ、船も、どこかへ行きたいのかな」
ほていは、目を閉じた。
「船も、休みたいのです」
びしゃんが、かじをガシリとつかむ。
でも、動かさない。
「……どっちだ」
そのとき。
遠くの白の奥で、黒い点が、ほんの少しだけ増えていた。
だれも見ていない。
帆のほつれが、ほんの少しだけ裂けた。
ヒリ。
風は、まだ吹かない。
宝船は、静かな白い世界に、ぽつんと浮いている。
おじいが、最後に言った。
港の奥の石段を、頭に浮かべる。
「……しあわせは、止まることかもしれぬ。でも、坂は、止まらぬのう」
言葉は、甲板のすきまに沈んだ。
遠くで、もう一度だけ、
ギィ、とかじが鳴った。
その音は、だれの手でもなく、
船の奥から鳴った気がした。