思考の劇薬 〜 大人の絵本  『イデアの海をゆく宝船 〜ビジネスパーソンの価値探求と道徳航海録〜』 桜井ジン

クジラは、名前を知らない
 
宝船の横腹に、なにかがゴツンとぶつかった。
甲板がドンとゆれ、星砂がヒラヒラと舞い上がる。
びしゃんは、みがいていたやりをにぎりしめ、立ち上がった。
よろいがガチャリと重たく鳴る。
「おい、どこのどいつだ。おれさまの船にけんかを売るのは!」
船べりから身をのり出す。
そこに、小さなクジラがぷかりと浮かんでいた。
大きなひとみが、うるうる光っている。
じっと、びしゃんを見上げていた。
「キュゥ……」
やりを振り上げたまま、動きが止まる。
星砂がヒラヒラと、よろいのかたに積もった。
えびやんが、ふにゃりと笑ってのぞきこむ。
「ねえ、この子、まい子みたいだよ。助けてあげる?」
びしゃんは、ふいと顔をそらす。
「知るか。おれさまには関係ねえ。……関係ねえんだよ」
けれど指先は、もうクジラの頭をポリポリとなでていた。
星砂の海に、小さな波もんがヒラヒラと広がる。
クジラは、くしゃんと鼻水の泡をふいた。
ポコポコと浮かび、すぐに消える。
「キュゥ……キュゥ……」
べにたんが、びわのいとで鼻先をつついた。
「なき虫ね」
だいちゃんは、まゆをしかめる。
「船にのせると、重さの計算が……」
ほていは、甲板にねころんだまま手を振った。
「いいんじゃないかなぁ。かわいいし」
おじいは、湯のみを差し出す。
もちろん、クジラは飲めない。
湯のみのふちに、星砂がヒラヒラと積もる。
ロクさんは、長いあたまをポリポリとかいた。
「名がないと、不便じゃのう」
びしゃんは、やりをドンと立てた。
甲板がコツンとひびく。
「おい」
クジラは、びくっとふるえた。
「名前は」
クジラは、首をふるふる振る。
「キュゥ」
「名前もねえのか」
よろいのかたが、ギシと鳴る。
少しだけ、こまった顔になる。
星砂がヒラヒラと二人のあいだを落ちる。
「じゃあ……お前は、クジラだ」
クジラは、尾びれをパタパタさせた。
水しぶきがキラリとはね、星砂とまざる。
えびやんが、甲板に地図を広げる。
けれど、地図はまっ白だった。
「帰り道、書いてないね」
ロクさんは、霧の向こうを見る。
「道は、あとからできるものじゃ」
べにたんが、いとをジャーンと鳴らす。
音がヒラヒラと空へほどける。
「聞こえたら、返事してくれるかもね」
霧は、なにも答えない。
クジラは、ぽちゃんと甲板に上がった。
体から星砂の水がポタポタ落ちる。
びしゃんは、布を投げた。
「ふけ」
クジラは、口にくわえてブンブン振る。
甲板がびしょびしょになる。
「ふけって言っただろ!」
声は大きい。
でも、目はやわらかい。
もう一まい、布を投げる。
星砂がヒラヒラと二人のあいだを舞う。
夜になった。
星が、ぽつぽつと浮かぶ。
クジラは、船べりで丸くなる。
すうすうと息をする。
びしゃんは、となりにすわった。
やりをかかえたまま、動かない。
えびやんが、ふにゃりと笑う。
「関係ないって、言ってたよね」
びしゃんは、空を見る。
「……うるせえ」
クジラが、ね言で「キュゥ」と鳴く。
びしゃんは、そっと尾びれに毛布をかけた。
その夜。
宝船は、ほんの少しだけ方向を変えた。
だれも、かじを切っていない。
けれど、クジラの呼吸に合わせて、
船はヒラヒラと進む。
甲板に落ちる星砂も、ヒラヒラと同じ調子でゆれる。
びしゃんは、小さくつぶやく。
「知らねえやつでも……見ちまったら、関係あるんだよな」
星が、ひとつだけまたたいた。
宝船のうしろに、小さな泡の道ができる。
ポコポコと続く、白い道。
それは、クジラが帰るための道だった。
それとも、七人が新しくえらんだ道だった。
クジラは、まだ名前を知らない。
けれど、もうひとりではなかった。
星砂の海に、しずかな波もんがヒラヒラと広がっていった。