「ただいま」
アパートの扉を閉めて、鍵をかける。中は暗く、誰もいない。一人しか住んでいないのだから当然だけれど、つい癖で言ってしまう。もしかしたら今日こそは、声が返ってこないかな、なんて毎日ほんの少し期待している。
そんなこと、絶対にありえないとわかっている。
靴を脱いで電気をつけ、鞄を部屋の隅に置く。台所で手を洗うと、小さな冷蔵庫の中身を確認。なんだか今日はいろいろありすぎて疲れてしまったから、簡単に済ませよう。
中途半端に残っていた野菜と麺を見つけて、焼きそばに決める。夕食を作る間、意識しないように努めてもやはり浮かんでくるのは、つい先ほどまで一緒にいたくるみ先輩の顔。
ふう、と息を吐き出して気持ちを切り替えると火を止め、適当な皿に焼きそばを盛りつける。
それと箸とコップを小さな机に並べる。ほかほかと湯気が立ち、美味しそうな香りが漂う。
食べる前に、と立ち上がり、小さな部屋の隅に置かれた写真立ての前へ座った。
「今日もありがとう、お母さん」
きっとどこか遠いところから見ていてくれるであろう亡き母に、手を合わせた。
僕が色を認識できなくなったきっかけは、今から約九年前のことだ。その日はクリスマスだった。小学校は冬休みに入ったばかり。僕は家が隣で幼稚園の頃から仲良しの、ひとつ年上の女の子――白川胡桃ちゃんに誘われて、近所の公園へ向かった。
「ねえ、もう夕方だよ。別に今日じゃなくてもいいんじゃない?お母さんたちにもなんにも言ってないし、きっと心配するよ」
「だーめ。明日じゃ見れないの!」
「なにが?」
「着いてからのお楽しみ!」
僕の手を引くくるみちゃんは楽しそうだった。なんだかんだと言いながらも、僕だってくるみちゃんと少しでも長く一緒にいられることが嬉しかった。くるみちゃんは僕よりひとつお姉さんで、特に小学校に上がってからは必然的にふたりで遊べる時間もだんだん少なくなっていた。
このままゆっくり時間をかけて、離ればなれになってしまうのかな。
漠然としたそんな不安を抱えていた。寂しかったんだ。だから、本当にうれしくて、わくわくしていた。
「着いた!」
とん、と公園の入口の土を踏んで、くるみちゃんは宣言した。僕も周りを見渡したけれど、特に変わったところはない。ブランコと鉄棒と砂場とすべり台がある、いつもの公園だ。
「こっち!」
くるみちゃんは遊具がある方とは反対側の、芝生が広がる広場の方へと足を向けた。そこでやっと僕は、見慣れぬものを見つけた。
「あ!あれって、クリスマスツリー?」
広場の中央に、大きなクリスマスツリーが鎮座していた。てっぺんに星、きらきら光るオーナメント。
「わあ、すごい!こんなに大きいの初めて見た!」
「でしょう!ひなたに見せたかったんだ。絶対喜ぶと思って」
「うん!ありがとくるみちゃん」
僕はツリーに駆け寄った。今思えば、子供の遊ぶ小さな公園に設置されたツリーなのだからそれほど大きいものではなかっただろうけど、小さな僕にとっては見上げるほど大きなツリーだった。
「ひなた!こっち向いて。写真撮ってあげる!」
くるりと振り返ると、くるみちゃんが赤いカメラを掲げてこちらを見ていた。くるみちゃんが去年、お母さんとお父さんから貰って嬉しそうにしていたものだ。それから肌見放さずと言っていいほど持ち歩いていた。
「え、恥ずかしいからいいよ」
写真を撮られる事というよりも、くるみちゃんに見つめられるのが。
「そんなこと言わないの。ひなたはかわいいから大丈夫!」
にっこりと笑うくるみちゃん。
かわいいなんて、彼女は僕によく言った。男の子としては微妙な気分だったんだけどな。
「……それなら一緒に撮ろうよ」
「え?」
僕はくるみちゃんの手を引っ張って、一緒にツリーの下に並んだ。
「ふたりの方が寂しくないよ」
「確かにそうだね!それじゃあ、いくよ!」
パシャリ、微かなシャッター音が響いた。
「……うん、綺麗に撮れてる!」
カメラを覗き込んだくるみちゃんが、弾んだ声で言った。
「日向!」
その時、不意に僕を呼ぶ鋭い声が聞こえた。
「お母さん?」
いつもより緊迫した、でも知っている声。僕はぱっと振り向いた。公演の前の横断歩道の向こうに、お母さんが立っていた。
「日向……!やっと見つけた」
ほっとした声でお母さんが言ったのが微かに聞こえた。僕は勝手に出てきた後ろめたさと、お母さんにもツリーを見せたい気持ちが溢れて笑顔で駆け出した。
「お母さん!あれ見て――」
けたたましいクラクションの音が響いて、頭が真っ白になる。
「日向!」
どこかから、お母さんが僕を呼んだ。視界がぐるりと回転する。赤く光る信号機。オレンジ色の空。
一瞬、意識が飛んだ。
何かのサイレンが煩くて、すぐに目を覚ます。
「おかあさ、」
地面についた手が、ぬちゃ、と変な音を立てた。見下ろした手は、今までに見たことがないほど暗い赤で染まっていた。
そろそろと赤い水溜まりを視線で辿る。その、先には。
倒れて動かない、母の姿があった。
「……ん」
ふと目が覚める。またあの日の夢を見ていた。たぶん実際にはあそこまで鮮明に全てを見てはいなかっただろうし、あんなに大量に血が流れてもいなかったと思う。時間が経つごとに自分の中で記憶が修整され、よりショッキングな光景へと塗り替えられていく。夢の中では色まで鮮明に見えるのだから、皮肉なものだ。
冬だと言うのにじんわりと汗をかいた体が気持ち悪く、軽く布団を剥いだ。枕に顔を埋めながら浅く呼吸を繰り返すと、だんだんと動悸が収まっていく。
あれから、気がついたら僕は病院のベッドの上で、既に母はこの世から旅立っていた。このあたりの記憶は曖昧で、気がついたら僕は父に連れられ遠くの街へ引っ越していた。
まだお互い小学校低学年、くるみちゃんとは連絡先も交換していなかったから、あれっきりになってしまった。もう二度と会えないと思っていた。
でも、会えた。まるで奇跡のように。
父は優しい。僕のせいじゃないと言い含めるように言ってくれた。けれど僕には母の死の原因を作ってしまった負い目がどうしてもあって。夜中、僕に隠れて偶にお酒を飲む父が泣くのを見ているのが辛くて、我儘を言って一人暮らしを選んだ。わざわざ遠い高校を選んで、進学すると同時に僕は家賃の安い小さなアパートへ引っ越した。
小さな頃住んでいた家とそれほど近い高校でもなかったし、先生が勧めてくれた適当なところを選んだから、くるみちゃんに再会できたのは、まったくの偶然だった。
入学式の日。たまたま先生に用事を頼まれ、教室に戻る道すがら。階段を下ってきた生徒が、急に足を踏み外した。咄嗟に受け止めて手摺を掴み、一緒に落ちるのを回避する。
名前を聞いたとき、まさか、と思った。
でも、そのまっすぐな瞳や揺れる髪に、ふと幼い頃の彼女の面影をみて。
くるみちゃん?と、思わず聞きそうになるのを抑える。僕の名前を聞いても驚く素振りのない彼女は、もしかしたら僕のことを……いや、あの事故のことも覚えていないのかもしれない。だったら、下手に思い出させるのはきっとよくない。
「……くるみ先輩!かわいい名前」
そんな言葉で咄嗟に誤魔化す。僕の微かな沈黙の違和感には触れず、彼女は会話を続けてくれた。そのことにほっとしつつも、僕の心臓はどくどくと嫌な音を立てていた。
くるみちゃんは、どうして一言も話せない?
まさか、あの事故のせい?
僕があの時、道路に飛び出したりなんかしなければ。
誰もいないはずの空き教室からシャッター音が聞こえて、なんとなく気になった僕は扉を開けた。窓際、恐らくオレンジ色に染まっているであろう空を背景に、彼女が振り向く。
そこで出会った彼女は、記憶と声を持つ「くるみちゃん」だった。彼女は僕の母が亡くなったことを、自分のせいだと責めていた。違う、とそう言ってしまうことは簡単だ。でも、いくら他人に否定してもらっても自分が自分にかけた呪いは消えない。そのことを僕は、身をもって知っていた。父がどれほど否定してくれても、僕から罪の意識が消えなかったように。
二度と彼女に近づかない。それも、ひとつの正解かもしれないと思った。僕が、父から離れたように。
でもその後、くるみ先輩に部活に誘われた。
僕はその夜、一晩中悩んだ。
このまま関わらなければ、今までのまま、何も変わらない平穏な日々が訪れる。でも。
何も覚えていないのに声を奪われたくるみ先輩と、ずっと悲しそうな表情のくるみちゃん、どちらか幸せそうだっただろうか?
どちらも、強がっていてもその裏で泣いている。僕にはそんなふうに見えた。
だから、約束をした。
きっと僕が、笑顔にすると。
でも僕は本当に情けなくて、「白川胡桃」のことを深く知るたびに、迷ったり、間違えたりした。その度に道を示してくれたのは、他でもない彼女自身だった。
過去と向き合う強さを、彼女は僕に見せてくれた。
怖がっていたのは、僕の方だった。
彼女はいつだって、ただまっすぐで、ひたすらに勁かった。
だからきっと、彼女は大丈夫。
長く厳しい冬を乗り越え、美しく芽吹く胡桃のように。
彼女もまた、「過去」を乗り越え、幸せになる。


