輝夜様は私をお屋敷に連れ帰ってすぐに出て行ってしまった。
陰陽寮の地下にある座敷牢に橘様を捕らえた知らせが入ったからだった。
「まぁ! 綺麗な月の色ですわね」
使用人をまとめる女性が色の変わり果てた私を見て、驚く前に感動していた。
離れで私のお世話をしていた使用人の女性たちもまた目を輝かせていた。
「以前よりお顔が明るく見えていいではありませんか!」
「気を遣わないでください。不気味なのに変わりはありません。皆さんも無理して……」
「何を仰います。みちる様がみちる様であることは何一つ変わりません。それだけで充分です」
それだけで充分なんて、想定していなかった。
輝夜様はお許しになっても……到底受け入れられることはないと思っていた。
みるみる身体の力が抜けて行って、腰を抜かしてしまった。
「みちる様!?」
「すみません、こ、腰が抜けてしまって」
だいぶ夜が深まった頃、誰かの足音で私は目を覚ました。
油灯の明かりに照らされていたのは輝夜様だった。
「輝夜様? どうなさったのですか」
「起こしてしまいましたか……みちるさん」
みちる、さん……。
輝夜様は私にさんを付けたことはない。背筋がぞわっと粟立ち、数日前にも嗅いだばかりの甘い香りがした。
「橘……様……?」
油灯の火がゆらゆらと踊り、一度ふっと消えた。そして、すぐに青い炎がついた。青い灯りに照らされていたのは輝夜様ではなく橘様だった。
「お、陰陽寮に捕らえられたと聞きました」
「一度は捕らえられたよ。でも、出るのは簡単だった。あいつらは所詮その程度の力しか使えない」
「では、どうしてこちらに……そのままお逃げになったほうが」
私がびくびく身体を丸くしてぼそぼそ喋ると彼は私の肩を掴んだ。
「みちるさんさぁ、俺と結婚してくれない?」
「なっ、っ——!?」
私は正直、この場で殺されてしまうことも覚悟をしていた。
いつ何が起きてもいいように指を鳴らす準備をしていたのに目の前の橘様は襲ってくるどころか求婚してきた。
何故……。
「俺は輝夜と出会ってから……ずっと悪夢を見てる……あいつがいなければいいって何度も思って、自滅を狙って悪夢を植え続けてたんだよね」
「どうしてそんな……輝夜様と橘様は幼馴染で……仲がいいように見えていました。お互いに力を抜いていつも楽しそうで」
「へぇ、そう見えてるんだね俺たち」
不敵に笑った橘様は私を力任せに雑に抱きしめた。
わざとらしく声に抑揚をつけて私に聞かせるように耳に口を近づけていた。
「みちるさんが現れてから……あいつは悪夢を見なくなった。ねぇ、どうやったの? どうしたら悪夢を見なくて済むようになるの?」
「それは」
「宴の浮ついた雰囲気に紛れて酒に術をかけて、潜在的な悪夢を引き摺り出したとこまではよかったのに......」
橘様は輝夜様を憎らしいという意味合いの言葉を使いながらも、あまり彼への憎悪は感じられなかった。
「みちる! ——みちる!」
外から輝夜様が私の名前を叫んでいるのが聞こえた。振り向けば、透明な壁が私たちと輝夜様を隔てていた。
輝夜様は拳で大きな音を立てて叩いてるに切り離された空間の中では音がとても小さい。
「こんな状況をわざと輝夜様に見せつけていたのですか?」
「あいつ、愛する妻が幼馴染に迫られてるなんて死ぬほど嫌でしょ?」
「どうして……輝夜様を嫌っているのですか」
「嫌ってはない。けど、一日十回以上親族やすれ違う人たちに輝夜と同じ時代に生まれなかったらお前が次期陰陽頭だったのにって言われ続ければ疎ましくは思うだろ?」
橘様の表情には憎しみはなかった。あるのは唇を噛み拳を握った悔しさのようだった。そして、彼から発される甘い香りがぶわっと増した。目眩程度のものじゃない、頭痛がするほどだった。
あぁ、そうか。
彼はずっと寝ても覚めても悪夢を見続けているのだ。
寝ても覚めても悪夢を見続けるなんて身体も精神も耐えられることじゃない。
「橘様! どうぞこちらへ」
「え、なに!?」
強引に橘様の腕を引いて彼の頭を膝に乗せた。
「なにこれ......馬鹿にしてる?」
「あなたの悪夢を喰らうだけです。さぁ、目を閉じてください!」
「えぇ、みちるさん......そういう人だったっけ? 輝夜への当てつけにはいいかな」
橘様の額に口づけると輝夜様と全く同じ濃厚で恨み辛みのこもった味がした。
輝夜様との違いは闇の深さだった。ものの怪である私ですら取り込まれてしまいそうなほどだった。
幼い男の子が衣を何重にも着させられ、身動きができずに泣いていた。
その衣の模様を間近で見れば、模様ではなく一枚一枚には重く苦しい言葉がびっしり書かれていた。
「橘の子があんな素性のわからない子に劣るなんて」
「水月、しっかり勉強しなさい」
「才能がない」
「同じ時代に生まれなれば、次はお前のはずだったのに」
「藤原輝夜は天才だ」
橘様はただまっすぐ光の灯らない瞳のまま謝り続けていた。申し訳ありません、精進しますを繰り返していた。
誰一人、励ましや支えになる言葉をかける人はいなかった。
幼い男の子の震える冷たい手を取ると彼は謝るのをやめた。
「辛い、苦しい、身体が痛い、もうやだ、俺は輝夜を」
「水月様、もう大丈夫です」
辛い苦しい痛いを繰りかえす水月様の衣を一枚ずつ脱がせて身軽にすると幼い男の子は私にすり寄り抱き着いてしくしくと泣いていた。
「俺は俺なのに、輝夜とたくさん遊びたいのに、俺はだめだ、輝夜は天才だって引き離すんだ。輝夜の事は好きだ、友達だから」
「大丈夫です。輝夜様は今も変わらず、水月様を大切なご友人だと思っておられます。あなたが悩んでいたら彼はまっすぐ助けに来てくれると思いますよ。輝夜様はそういう人です」
「許されないよ、許されちゃいけない。俺は、あいつに」
「それは、輝夜様がお決めになることですよ。少し、お休みになってください。私が側にいますから……」
水月様がぐったりと眠りにつくと私の部屋を囲っていた結界がすうっと消えてなくなった。
輝夜様は私に駆け寄って膝の上で子供のように眠る水月様を見て、大きく息を吐いた。
「こいつ、庭に捨て置いてもいいですか?」
「だめです。起こさないであげてください。水月様も輝夜様と同じ、悪夢に苛まれていただけですよ」
輝夜様は不服そうにしながらも起きそうにない水月様の頬つねって笑っていた。
◇◇◇
「みちるさん、輝夜なんてやめて俺と結婚しようよ。みちるさんマジ天女!」
「水月様、ちゃんと寝てないとだめですよ。身体がぼろぼろなんですから」
「みちるさん膝枕してよー」
「お前、部屋から出るな、寝ていろと言っているだろう!」
あれから、輝夜様と水月様、そして私をふまえて陰陽寮で聞き取り調査が行われ、連日大忙しだった。
輝夜様が水月様を許すことを決め、水月様は悪夢のものの怪のせいで宴で乱心したということになった。
私は陰陽寮の管理するものの怪として悪夢を喰らう職を全うする約束でお咎めを免れた。
水月様は悪夢の療養と輝夜様直々の監視を条件に長期の謹慎となったため、同じお屋敷内で暮らしている。
離れは水月様の謹慎、療養部屋として使用することが決まり、私の部屋は輝夜様と同じ本邸の中に移された。
輝夜様と同じ屋根の下で生活できるのは嬉しいけれど、最近小言がとても増えてしまった。
どうにも、水月様が私に迫った場面に今も同じ熱量で腹を立てているのだという。
「治癒行為なのはわかりますが、あいつの悪夢を喰らう時に額に口づけるのやめませんか?」
「えっと、量によっては指だけで問題ないんですけど……多くなると難しくて」
「私の時はどうしていたのです?」
「輝夜様も量が多かったので恐れながらも額に口づけてました。……き、汚かったですよね。すみません」
「違います。汚い等とおもったことはありません。問題は私が覚えていない点です」
問題なのかな……。むしろ、寝ている間に口づけされてた事実の方が嫌では?
「月の帳を降ろしてもらってましたから、眠っていたのだと思います」
「水月に月の帳を降ろしていないと聞きました」
「水月様は治癒行為だから、眠らせなくていいと……」
「今日からは必ず降ろしてください。それが出来ないなら水月を追い出します」
「水月様を追い出すのですか!?」
「えぇ、あなたに出ていかれては困りますから。あいつを追い出します」
◇◇◇
「あら水月様、ぼうっとしてどうなさったのです?」
「ん――? 平和でいいなって」
「もしお暇でしたら、今都で流行っている御伽草子お読みになられます?」
「御伽草子い~~?」
使用人をまとめる女性が水月の傍らに御伽草子を置いていった。
「ふうん、今話題の御伽草子……。なになに、冷血な陰陽師とものの怪の話ねぇ……」
水月はお茶を飲みながら、御伽草子を膝にのせて読んでいた。
めでたし、めでたし。

