たった一人の、大切な

 ふざけるな、と怒鳴りたくなった。海斗に対してではない。海斗の上司に対してだ。
 会社に乗り込んで、青筋を立てて怒って――。そんなアイディアが一瞬頭をよぎって、私はぶんぶんと首を横に振る。さすがにそんなことはできない。きっとそんなことしたって海斗が恥をかいて、社内での立場がなくなるだけだ。だから、私はつとめて冷静にならなければいけなかった。
「お姉ちゃん?」
 海斗は、困ったような顔でこちらを見ると、「死にたいっていうのは、さすがに冗談だよ」と言う。でも、それが本心でないことは私にも分かった。会社の愚痴の間に挟まった、切実な響きを持った「死にたい」というぼやきは、私の胸に重くのしかかっている。
「本気にしないでよ。死にたいっていうのは何も本当に死ぬわけじゃなくて、明日会社に行きたくないなぁ、くらいの意味なんだから」
「……うん、そうだね」
 私は、そう合いの手を入れるけれど、この反応が正しいものだとは思えない。
 海斗は大切な弟なのに。姉である私が何とかしてあげないといけないのに。そう思えば思うほど言葉は喉の奥に詰まって、気の利いたセリフを口にすることもできなかった。
「……ごめん」
「なんでお姉ちゃんが謝るの」
「私、つらいことがあったら何でも言ってねって言ったのに、結局何もできてない」
「そんなことないよ」
 そう言いながら、海斗はテーブルに置かれたままになっていたカップをそっと手に取る。
「僕の好きな紅茶、淹れてくれたでしょ」
「そんなこと、誰にでもできるよ」
「それに、わざわざベランダに出たのも母さんたちに話を聞かれないようにするためだよね」
「それは……だって、海斗は昔からお母さんに弱いところ見せたがらないから」
 両親が共働きで家にいないことが多かったからなのか、海斗は母と父の前では“いい子”を演じたがる子だった。弱音を吐くのは、決まって姉である私の前でだけ。だからこそ海斗が困ったときにはいつでも手を差し伸べられる姉でありたいと思っていたはずなのに、何もできない自分が情けなくて涙が出る。
「お姉ちゃん?……なんでお姉ちゃんが泣くのさ」
「だって……私、やっぱり海斗に何もしてあげられてなくて……」
「そんなことないよって話を今してたのに」
「こんなの、何かしたうちに入らないよ……」
 人一倍優しい海斗。親の前では愚痴を溢すこともできない海斗。そんな海斗を支えたいと思っているのに、どうしてこうも上手くいかないのか。そんなことを考えていると、海斗が「じゃあさ」と口を開いた。
「来週もまた、こうやって話を聞いてよ」
「え……?」
「仕事がしんどい気持ちはなくならないけど……でも、お姉ちゃんに話を聞いてもらうとちょっと楽になる気がするから」
 だめ?と聞かれて、私は「だめなわけないでしょ」と返す。
 私は海斗を救えない。幼い頃ならいざ知らず、お互い大人になった今は介入できない領域も増えた。でも、話を聞くことで海斗の心の傷が癒えるのであれば、いつだって話を聞いてやりたいと思う。
 たった一人の大切な弟は、いくつになったって私の弟なのだから。