君ってちょっと怪異より不穏

相変わらず指の絡まり方が気まずい。内心で思いながらも、このタイミングで変にほどいたら澄が傷つく気がして、強まった握力に無意識で応えてしまう。
 
挙動が不自然なせいで、気味悪いところもあるけど、澄は、たぶん優しい。
俺が怖がりなことに気が付きつつも、隠しているから、こうしてさりげなく手を差し伸べてくれたのだ。それに、たぶん、すごく素直だ。アホみたいな理由でこの場にいる俺が、本気でこの町や夜宮のために、久瀬怪異録に協力してると思っている。そう信じてしまうのって、こいつ自身がピュアなんだろうな。
 
少し前を歩く澄の輪郭を見つめる。
今はたぶん、極限状態の緊張で脳がバグってるだけだ。やけに澄が頼もしく見える。

……いや待て。
なんで今、ちょっとトゥンクしかけてんだ俺。

おかしいだろ。

これ、あれだ。
吊り橋効果ってやつだ。絶対そう。怖さで心拍数が上がってるだけだ。錯覚。錯覚。

「あ、あった」

抑揚のない澄の声に、びくりと顔を上げる。
澄がライトで照らした先にあったのは、地面にぺたりと落ちている蛇腹のトタン板みたいなものだった。

なんか、想像してた井戸と全然違う。
もっとこう、丸い腰壁があって、上に屋根みたいなのが付いてて、ロープと桶があって――みたいな、いかにも『井戸』って感じのやつを思い描いていた。

けど、目の前にあるのは、雑草に半分埋もれた鉄板。
地面に置かれた蓋、みたいなもの。

「この下にサナコの井戸が?」

上ずった声で聞くと、澄は黙ったまま頷いた。

しゃがみ込むのと同時に、ふいに手を離される。

「あ、ちょ、離れないでっ」

反射で声が出た。
気づけば俺は澄の背後にしゃがみ込んで、背中にしがみついている。

振り返った澄が一瞬だけ瞬きをした。
その間で、自分の発言に気づく。

「いや、危ないだろ……井戸だし。落ちたら」

苦し紛れにそう言うと、「……そやな」と澄は小さく笑って、またトタン板に視線を戻した。

久瀬町に伝わる怪異サナコの噂は、夜のある時間になると、この井戸の中に少女の姿が浮かぶ、というものだ。

もともとは、この旧診療所がまだ使われていた頃の話らしい。夜勤の看護師が裏庭で物音を聞き、井戸を覗き込んだところ、水面の奥に女の子の顔が見えた。瞬きをしたら、もういなかった。そんな話が広まったのが始まりだという。

その『ある時間』というのが、夜の九時ごろとされている。
何の気なしにスマホの画面を確認すると、奇しくもちょうどいい頃合いだった。

「陽翔、開ける?」

心臓が一段、強く跳ねる。

「い、いやいやいやいや、ほら、俺はほら、カメラ回さないと、な? な?」

スマホを握る手をわざとらしく持ち上げながら、俺は澄の肩をペシペシと叩く。
自分でこの蓋を開けるとか、絶対に無理だ。ここはもう、澄に任せる。

澄がトタン板に手をかけるのを見て、俺は少しだけ腰を浮かせた。
よく撮れるように、じゃない。何かあればすぐ逃げられるように、だ。

「開けるで」

「お、おう……」

ごきゅ、と喉が鳴った。

緊張が一気に高まり、息苦しいほどに心臓が脈打つ。この蓋が開いた瞬間、サナコが飛び出してきたりして――なんて想像が勝手に膨らむ。そのせいで、背中にじわっと嫌な汗が滲んだ。

澄が板の端を持ち上げると、ガコンッ、と低く響く音が鳴る。
続いて、井戸口のコンクリートの縁とトタン板が擦れ合い、ガリガリと鈍い音を立てた。

ずっと地面に伏せられていた板が動いたことで、湿った空気がふっと漏れ出す。
雑草の青臭さと、錆びた金属みたいな匂いが混ざって、鼻の奥に刺さった。

さすがの澄も、少しは緊張しているのかもしれない。トタン板をどけると、井戸の縁に手を置いたまま、ほんのわずかに覗き込むのを躊躇うような間があった。

「ど、どう……?」

もちろん、自分で覗く勇気なんてない。
だから促すように尋ねる。

澄がゆっくりと身を乗り出していく。俺も自撮り棒の先についたスマホを、その動きに合わせて少しずつ差し出した。後頭部越しのアングルは、たぶん動画としては悪くない。直接覗くよりは怖くない気がして、俺は画面越しに澄の視線を追う。

ゆっくりと、画面が井戸の縁を越え、暗い穴の中がフレームに入る。

「――ヒっ!」

水面が映り、その中にゆらりと何かが揺れたのを見て、俺は激しく息を吸い込んだ。

危うくまた叫びそうになって、片手で口を塞ぐ。落とすな、と反射的にスマホを握り直したのは無意識だった。

すぐそばの澄の背中が、ふぅー、と小さく息を吐く。

「……なんも、ないな?」

その通りだ。
水面に映っていたのは、月明かりと懐中電灯に照らされた澄の姿。画面越しにしか確認していないけど、サナコなんてどこにもいない。井戸の中は、木屑や草がぷかぷか浮いているだけだった。

確かめた瞬間、はぁ、と体の力が抜ける。
同時に、妙な余裕が戻ってきた。さっきまでの恐怖が、急に小さく思えてくる。

「これ、もしかしてさ、水面に映った自分の顔をサナコと見間違えたとか、そういう類の話かもな」

つまり、さっき窓に映った自分にビビった俺と同じってことだ。

「せやなぁ。どうする? これ動画になる?」

「うーん」

相変わらず、直接井戸を覗く気にはなれなくて、俺は一歩だけ後ろに下がって立ち上がる。
周囲の雰囲気は十分ホラーだし、旧診療所ってだけで素材としては強い。

「まあ、正体が見えそうなところでスパッと切る引きでまとめれば、いい感じにできると思う」
 
断言せずに、余白を残す。
クリフハンガーってやつだ。

「素材はもう撮れた感じ?」

「ああ……そ、そうだな。あと表に戻って、診療所の引きの画撮って終わりでいいかな」

さっき怖すぎて動画を回すのが遅れたんだった。冷静さを取り戻すと、ちゃんと段取りまで考えられる自分に少しだけ安心する。

「わかった。じゃ、行こか」

澄が膝をぽんと叩いて立ち上がる。
そのまま、こちらを振り返った、その瞬間だった。

足元がわずかに崩れるような音がして、澄の体がぐらりと傾く。

――ズルッ。

次の瞬間、視界から澄の姿が消えた。

いや、消えたように見えただけだ。正確には井戸に落ちたのだ。
頭が理解するより先に、体が動いていた。俺は握っていたスマホを地面に放り投げ、反射的に井戸へ身を乗り出す。

「うわぁゎゎ、うそうそうそ!」

叫びながら縁に腹ばいになり、俺は澄に手を伸ばした。

澄は完全に落ちたわけじゃない。足を滑らせた勢いで前のめりになり、そのまま上半身ごと井戸の縁に乗り上げる形で止まっている。胸から腹にかけてが縁に引っかかり、両腕で抱え込むようにして体を支えているが、下半身は中へ落ち込んでいる状態だ。足は宙ぶらりんで、踏ん張りはきかないだろう。

俺はその背中に腕を回し、服ごと掴んで力いっぱい引き寄せる。

「なんで、なんでっ! なんでそうなった!?」

「すまん、足引っ張られた」

引っ張られたってなに!
いや、『滑らせた』をこの辺りじゃそう言うのか?!
頼む方言であってくれ!

「陽翔……手離して」

「いや、そんっ、ば、バカいうなよっ!」

いくら俺が怖がりでも、そんなことできるわけないだろ。

「おまえ置いて逃げるなんて……!」

「いや、そうちゃう」

「諦めるな! 澄! 踏ん張れ! 俺に掴まれ!」

ぎゅっと腕に力を込める。でも手応えが薄い。こいつ、俺に遠慮してるのか。

「おい、こら、ちゃんと力入れろって!」

「陽翔……離してって、だいじょぶやから」

「大丈夫なわけねぇだろ!」

「やから!」

次の瞬間、がばっと澄の体が浮き上がった。反動で俺のほうが後ろへひっくり返る。草と土の匂いが一気に近づき、俺は澄を抱えたまま仰向けに倒れ込んだ。

視界いっぱいに澄の顔がある。

一瞬、俺が引き上げたんだと思った。けど違う。腕にほとんど重さを感じなかったことを思い出す。

「この井戸……めっちゃ浅いねん」

「へ……」

言われて足元を見ると、澄の足はもう地面に着いている。裾は膝下まで濡れて泥がついているが、それだけだ。

「井戸っていうか、昔の貯水槽やな。防火用の溜め水や。井戸のほうが怖そうやろ? やから、そう呼ばれとるだけ」

俺はしばらく澄の顔を見上げたまま、状況を理解できずに固まっていた。

「貯水……槽?」
「そう、やから、だいじょぶ」

そう言って澄は呆然とした俺の体を抱き起こした。

「俺、おまえ死ぬと思って……」

「死なんよ。平気」

ふっと苦笑するその顔を見た途端、体に残っていた緊張が一気にほどけた。俺は澄の肩に手を置いたまま、しなだれるみたいに顔を伏せ、大きく息を吐く。

「なんだよ、まじでもう……ふざけんなよ」

「そんなに、俺のこと心配してくれたん?」

「ったりまえだろっ!」
 
澄が軽く笑いながら、ぽんぽんと俺の背中を撫でる。

「足引っ張られたとか言うからさぁ、何事かと思ったわ。草で滑らせたってこと?」

一瞬、背中の手が止まった気がして顔を上げる。けれど澄はすぐに俺と目を合わせ、「そう、うっかりや」と言って、俺の手を引いて立ち上がった。

「足濡れてもうてキモいわ。はよ帰ろ」

それについては完全同意だ。もう撮るものは撮ったし、さっさとこの場を離れたい。手を繋ぐことにも、もはや違和感がなく、俺はそのまま澄の手を引き、旧診療所のほうへ歩き出した。

「水腐ってたんじゃね? 臭い?」

「わからん。でも、スニーカー死んだかもしれん」

「ご愁傷様」

軽口を交わしながら、俺はふと思い出す。動画、回しっぱなしだった。いったん澄の手を離し、スマートフォンの録画ボタンを停止する。

そのとき、背後の気配がふっと遠のいた気がして振り返ると、澄が立ち止まり、貯水槽のほうをじっと見ていた。

「急に引っ張ったらあかんよ……」

「……澄?」

声をかけると、澄ははっとしたように、すぐにこちらへ視線を戻す。

「なんでもない。はよ、帰ろ」

何もなかったはずの浅い穴が、月明かりの下でただ黒く口を開けている。

俺はもう一度だけそこを見てから、何も言わずにまた澄の手を引いた。