君ってちょっと怪異より不穏



ごきゅっ、と喉奥に唾を落とし込む音が耳に届いた。
胸の奥は張り詰めたまま。手のひらは冷えているくせに、背中だけじっとり汗ばんでいる。
田舎の夜は暗い。とにかく暗い。
俺はその暗さに、八つ当たりみたいな苛立ちを覚えながら、懐中電灯とスマホ用の自撮り棒を握る指に力を込めた。

「このへん、久しぶりに来たけど、夜やと、やっぱ気味わるいなぁ」

呑気で抑揚のない澄の声に、今はどこか救われる。

今、俺たちが向かっているのは、久瀬町の外れの丘に残っている旧診療所だ。
山道ってほどでもない。ただ、住宅地の灯りが途切れたあたりから、道が急に細くなる。車が一台通るのがやっとの幅で、端の草が舗装にせり出してきている。片側は畑か空き地か、夜だと境目が曖昧で、足元の感覚だけが頼りだ。

街灯は、ところどころに立っている。けれど間が長い。
次の灯りまでの数十メートルが、普通に真っ暗で、懐中電灯の光の輪だけが前へ前へと滑っていく。照らされたアスファルトのひび、小石、草の影。それ以外は、闇の中に沈んでいる。

怖い。
怖いのに、何故今俺が、澄と二人でこんなところにいるのかというと、それは件の久瀬怪異録の素材撮影のためだ。
この町おこしへの協力を拒む理由を探していた俺が、気持ちを変えた経緯を説明すると、答えは簡単だ。

何故か、どういうわけか、SNSにあげたあの趣味の悪い紫色の神社の鳥居や境内の写真が、若干跳ねたのだ。
いや、元々いた俺のフォロワーからの反応はイマイチ。だけど、どこかでなんらかのアルゴリズムが機能したのか、『日本に興味のある外国人』の目に止まったらしい。

異国の言葉でコメントがいくつか付いていて、翻訳ボタンをおして確認すると――

“This looks like a shrine gate in a horror movie… I love it.”
(ホラー映画の神社の門みたい。こういうの大好き。)

“So beautiful and creepy at the same time. Where is this?”
(綺麗なのに不気味ってすごい。ここどこ?)

つまり、オリエンタルな雰囲気が彼らの趣向に刺さった、ってことだ。
ついでに言うと、古めかしい日本の茶の間でくつろぐ茶トラの小麦の写真もそこそこにリアクションが付いているし、その流れもあるのか、外国人のフォロワーが増えた。

バズというほどではないけれど、なんというか、ある意味で俺のSNSの方向性の兆しが見えたのだ。見えてしまった……。
そして俺は、気乗りしない久瀬怪異録への協力と、自分のSNSのフォロワー維持を心の中で天秤にかけ、その結果が今この状況である。
 
「陽翔、そこ」
「うひゃぁっ――!」
「……段差あるから、気ぃつけて……」

おせぇよ、と眉を寄せて表情のみで訴えながら、俺はバランスを崩して咄嗟にしがみついた澄の腕から手を離した。

「怖いなら、手ぇ繋ぐ?」
「あほか、こ、怖くねぇよ」

ゴホンッ、と咳払いでうわずる声を誤魔化しながら、俺は手にした懐中電灯で向かう先を照らしてみる。

少し先に、四角い建物の影が浮かんだ。
懐中電灯の光だけでは色はわからない。でも窓が横一列に並んでいるのは見える。人の手が離れた建物特有の、輪郭だけが残っているような不気味な雰囲気を纏っていた。しかも、旧診療所というカテゴリーだ。それだけで足がすくむ。
駐車スペースらしい場所は草が伸びっぱなしで、入口へ続く道も半分は雑草に飲まれている。その中を、一歩一歩踏み締める音が、サクリサクリと闇の中に沈んでいく。

「こ、この診療所っていつくらいまで使われてたの」

静けさからくる恐怖に耐えかねて、人の声が聞きたくなる。俺は澄に喋らせようと、思いついたまま質問をした。

「んー、俺の小さい頃にはもうこの状況やったから詳しくはわからないけど、二十年前ごろまでって話やで。手入れされてなくて危ないから、中には入ったらいかんでって北村さんが言うとった」

それは、助かる。

「そ、そっかぁ、中に入れないと動画の素材がなぁ」

そんな風に嘯きながら、懐中電灯を建物の壁に当ててみる。

「大丈夫やで、裏手の井戸が本命やし」

「はは……」

心にもない笑いが溢れた。

久瀬怪異録の運用については、北村さんも交えて軽く意見交換をしている。
そもそも久瀬怪異録は、役所が施策する久瀬町の町おこしの一環で、いくつもある取り組みのうちの一つだ。どちらかといえば“お遊び枠”に近い。

だからこそ、地元の高校生にある程度任せてみよう、という話になったらしい。

今は何の観光スポットでもない場所に「怪談エピソード」を作り、それを紹介する動画として発信する。
訪れる理由を作るための仕掛けだ。

豊かな自然や、日本の田舎独特の街並みは、都心や海外の観光客にとって魅力ではある。けれど、それだけでは決め手に欠ける。
自然を堪能して美味しい料理を食べる――それが“静”の楽しみ方だとすれば、そこに“動”の楽しみ方が加われば、訪れる動機は強くなる。
 
そういう理屈らしい。
 
そして、その“動”の楽しみ方を俺のSNSを介して、役所のSNSや YouTubeに誘導することで広めようと言うわけだ。
 
正直、こういう企画モノは嫌いじゃない。
怪談から始めて、いずれは謎解きとかAR体験に広げるとか。そういう話を北村さんとノリノリで膨らませたのも事実だ。

けど、それと実際に夜の旧診療所に来るのは、また別の話なわけで……。

企画が大きくなれば、俺がいちいち動かなくてもよくなるのかもしれない。
でも、まだ何の結果も出ていない実験枠だ。だから今は、俺と澄が動くしかない。

「それで……サナコが出る井戸はどこにあんの」

サナコ、というのはコンビニのポイントカードの名前じゃない。今回の怪異の名前だ。

基本的に、久瀬怪異録で使う怪談エピソードは創作前提だ。ゼロから作って、それらしく語る。
でも、この町にも昔からそれっぽい話はいくつかあって、そのひとつが、旧診療所の裏手にある井戸に出る女の怪異――サナコさん。

井戸の女。
どこかで聞いたことがある響きだ。花子さんと貞子を足して二で割ったみたいな名前で、正直ちょっと安直だな、と明るい場所で聞いたときは笑えた。

けど、それはあくまで昼間の話だ。

今は、目の前にあるのが暗闇に沈んだ旧診療所で、風に揺れる草の音すらやけに大きく感じる。
その裏にあるという井戸を思い浮かべるだけで、俺はまだ見ぬサナコにしっかりビビり散らかしている。

「そこの脇通った林の中やな。前は裏庭やったらしいけど、今は草ボーボーやで」

「へぇ……」

できるだけ恐怖を押し隠した平坦な声音で相槌を返しながら、澄が指し示した旧診療所の建物脇に目を向ける。懐中電灯を向けてもなお暗いが、確かに雑草の生え方がそこだけ違って、脇道らしき気配がある。

いかにもな雰囲気の中、俺はスマートフォンの録画ボタンを押した。ポコン、と小さな機械音が鳴り、画面の上に録画時間を示す数字が表示される。

「なんか喋ったほうがええ? 解説とか」
「あ……いや、後でナレーション当てればいいから、自然な感じでいいと思う」

そんな言葉を交わしながら、暗がりへ足を踏み入れた。撮影しているふりをしつつ、さりげなく澄を前に出す。その背中を盾みたいにしながら、俺は後ろからついていった。

ザリ、と乾いた土を踏む音がやけに響き、サワサワと草が擦れる。どこかで枝が軽く弾けるような気配もした。遠くでは夜の虫が断続的に鳴いていて、一定じゃないそのリズムが、余計に神経に触る。

ふと背後で、がさり、と音がして、体が跳ねあがった。
振り返っても、闇しかない。

結局、前も後ろも、横も上も、全部怖い。
自分の息が浅くなっているのがわかる。喉の奥がまた乾いて、俺はもう一度、ゴクリと唾を飲み込んだ。