君ってちょっと怪異より不穏

なんか、ぼんやりしてんだよな、こいつ。
だから上級生にいいように揶揄われ――

いや、でも違う。
澄がぼんやりしてるのが悪いんじゃなくて、どう考えても、ちょっかい出してくるこの上級生らが良くないだろ。

――にしてもマジでこいつら……

散々振り回されたコーラのペットボトルが、「ほらよ」と澄の手に投げ戻される。
相変わらず、澄はぼっとしたままだ。二宮ら上級生のケラケラ笑う顔が視界に映る。

「いじめとか……ダサ……」

一瞬、場の空気が止まった。
視線が、こっちに集まっているのに気がついて、俺は「ん?」と顔を上げる。

あれ。今、俺、なんて言った?

「なんや、おまえ」

二宮の眉間に、ぎゅっと皺が寄る。
いけない。思っていたことが、つい口に出てしまっていたらしい。

「こいつ、あれやん。二年の、東京から来たっちゅう転校生」

横にいたひとりが、片足に体重をかけたまま太々しい態度で、顎で俺を指す。
 
「はぁ……なんやおまえ。イキってんの? 調子乗っとるんか?」

二宮が一歩、間合いを詰めてくる。顔を覗き込むみたいに近づかれて、俺は反射で半歩下がった。
すでに、さっきの発言を後悔してる。
喧嘩なんてしたことないし、別に正義感で澄を庇ったとか、そういう立派な話でもない。ただ、あの空気が気持ち悪くて、口が先に動いただけだ。

「あ、えっと……すみません。今の、つい口が滑ったっていうか……」

「ああ?」

次の瞬間、ぐっと胸ぐらを掴まれた。ブレザーの襟が引き上げられて、喉が詰まる。
やばい。普通に怖い。

もうすぐ午後の始業時間だからなのか、周囲に他の生徒もいなくて、誰も止めてくれない。
ここは思い切ってこの手を振り切って、教室までダッシュが正解だろうか。

そう考えたところで、二宮が右手を握り、肩の位置まで持ち上げる。威嚇するような仕草に、俺はぐっと肩を窄めた。
 
やばい、殴られる。

――プシュゥゥゥゥゥッ。

空気が抜ける音。直後、ぴたりと止まった二宮の頭部から、ぼたぼたと水滴がこぼれ落ちる。
既視感のある甘ったるい匂いがして、俺は思わず瞬いた。

「は?」

呆然とした様子で二宮が振り返る。
俺も同じようにそちらへ目を向けると、思った通りだった。
散々投げたり振ったりされていたコーラのペットボトルの蓋を、澄が二宮に向かって開けたところだった。

「わぁ、噴き出てもうたわ」

そう言った澄の声は、「わぁ」の部分にすら抑揚がない。
俺の襟を掴んだ二宮の手がわなわなと震えるのを感じて、俺はごくりと唾を飲み込んだ。

「てめぇ……このや――」

「おーい、おまえら、何やってんだ!」

不意に成熟した声が飛んできて、その場にいた全員が顔を向けた。昇降口の外からこちらに呼びかけてくるのは、ジャージ姿の体育教師だ。

「三年、次体育だろ。さっさと校庭出ろ」

距離があるせいか、先生はこっちの空気までは読めていないようだ。
けれど、このまま近づかれたら誤魔化しきれないと、思ったのだろう。二宮は一瞬だけ唇を歪めて、「チッ」と短く舌打ちをした。俺の襟を掴んでいた手が離れる。
濡れた前髪を雑にかき上げ、指先のべたつきを払い落とすみたいに手を振ると、二人を顎でしゃくった。
三人はまとまって昇降口を抜けていく。二宮のジャージの肩から背中ににかけて、コーラで濡れたシミがまだらに広がっていた。

下を見ると床も当然べたべたで、コーラの茶色い水たまりが点々と伸びている。

「あぁあ……」

と、小さい子供の失敗を諦め半分で眺める母親みたいな声が出た。
その後で顔を上げて澄を見る。手にしているコーラは三分の一くらいしか残ってなくて、澄はそれを俺に見せるようにして少しだけ口をへの字に曲げて肩をすくめた。

「どーすんだよ、これ」
 
「拭かな怒られるわ」

そう言って澄は、壁際の水道の脇に置いてあったモップを手に取り、適当に床を拭き始めた。
袖がコーラで濡れてる。気がつくと、俺の制服のシャツもちょっと汚れてた。
まあ、一番被害を被ったのはあの二宮とかいう三年生だけど。それにしても、頭からコーラを被せられた瞬間の表情を思い出すと……

――フッ……

水道で手を洗いながら、俺はついつい笑いをこぼしてしまった。

「どしたん」
 
「いや、おまえ、やられっぱなしなのかと思ったら、急にあんなことするからさ……」

笑いが止まらなくなってしまって、俺はついでに水道で顔を洗う。
顔を上げると、澄は少しきょとんとした顔で、隣の掃除用の流しで汚れたモップをすすいだ。

「そら、友達が殴られそうになったら、止めるやろ。ふだんは適当に流しとるよ」

急に友達、なんていうから、俺は思わず「んっ」と空気を飲んだ。嫌だったんじゃなくて、なんとなく照れ臭かったのだ。

「流してるって……ちょっとは止めろとか言った方がいいんじゃないの? おまえが抵抗しないから、やつら調子にのるのでは?」

そう指摘すると、澄は今度自分の手を洗いながら、「んー」と言葉を探すように、またいつものよくわからない場所に視線を向けている。
 
何か反抗しない理由があるのだろうか。
そういえば、二宮は「誰かさんのせいで」なんて言ってたが、その誰かさんが澄なのかな。

「まあ、だいじょぶや」

ようやく澄が言葉を発した。濡れた手をぱっぱと振って水を飛ばしている。

「数年後に今日のこと思い出して、恥ずかしくて風呂に入りながら突然『うわあああ!』ってなるんはあいつらやし」
 
「……なにそれ」
 
「北村さんが言うとった」

大人たちも把握してるのに放置なのかな、とちょっと気になってしまう。
でも、当の澄がこんな調子だから、周りも大丈夫だとか思ってしまうのかもしれない。
 
本当に大丈夫なのかな? そう思ってつい無意識に顔を覗き込むと、不意に間近で目があってしまった。

無表情の目に見られると、一瞬思考が止まる。何を考えてるのか分かりにくいから、何を考えてるのかなって、探ってしまうのかもしれない。
 
そんな風にしてたら、不意に澄の口角が持ち上がった。

「陽翔、さっき、ありがとう」
 
「な、な、なにが」

こいつの表情が明確に動いたのを見たのが初めてで、心臓が跳ねたのはそのせいだ。つい動揺して声が上擦ってしまったから、俺は慌てて視線を逸らした。

「助けてくれたやろ」
 
「いや、別にそういうのではないし」
 
本当に澄を助けるとか、そんなつもりじゃなかった。ただ、ああいうのが嫌いなだけで、勝手に口からこぼれただけだ。

「つーか、あれだな。田舎って、暇すぎてやることないからイジメとかすんのかな」

「なんやそれ、偏見エグ」

澄が、ハハッと笑いをこぼす。
 
また笑ったな、と思った瞬間、胸のあたりに変な感覚が浮かんだ。
既視感がある。
……何だっけ、と探って、引っ越してきてから初めて小麦が撫でさせてくれた時の、それに近い気がした。

「あ、てか、授業はじまってもうてるやん」

その一言で我に返って、壁の時計を見上げる。
確かに、時間が過ぎていた。久瀬高は、終わりのチャイムは鳴るくせに、始まりのチャイムは鳴らない方針らしい。地味に嫌な仕様だ。

「やば。早く行かないと」

俺は慌ててズボンのポケットに手を突っ込んでハンカチを探す。シャツの汚れは気になるけど、着替えてる時間はない。
指先が布を掴んだ、その勢いで、いっしょに入れてたスマホが床に転がり落ちた。

「げ」

「落ち着き。もう遅刻は遅刻やし、焦ってもしゃあないで」

言いながら、澄がしゃがんでスマホを拾い上げ、俺に差し出してくれる。

「……そうだけど」

転校早々、先生に変な印象つけたくない、っていうのが正直なところだ。受け取って画面を確かめる。割れてない。よかった。
 
無意識に電源ボタンを押して画面を点けた瞬間、俺は「え」と声が漏れる。

固まった俺に気づいたのか、澄も「どしたん」と、こちらの画面を覗き込んだ。