澄は小さく「うん」と頷くと、手元でごそごそとスマートフォンを操作し始めた。何かを開いたらしく、表示画面をこちらに向け、そのまま俺に差し出してくる。
「久瀬怪異録……?」
画面に表示されていたのは、SNSのアカウントだった。ヘッダーには山並みと、たぶんこの夜宮神社の鳥居を下から見上げた写真。
まだ投稿はゼロ、フォロワーは十二人。
「役所と神社で立ち上げたアカウントやねん。じいちゃん、一応町内会長やし」
そう言いながら、澄は日本酒のグラスを握ったまま船を漕いでいるじいちゃんへ、ちらりと視線を向けた。
「これ、一緒にやってくれへん?」
「一緒……に……?」
俺はもう一度、スマートフォンの画面に目を落とす。プロフィール欄にはこう書かれていた。
――『怪異が息づく山あいの町・久瀬。静かな暮らしに、少しのスリルを。物語の中で、暮らしてみませんか』
「え……付き合ってって……こ、これ?」
ゆっくり顔を上げると、澄がきょとんと瞬きをした。
「そやで?」
首をかしげるその顔は、本気で何が引っかかっているのかわかっていない様子だ。
俺は思わず、はぁ、と息を吐いた。
なんだよ。
めちゃくちゃ勘違いしてたじゃないか。
急に顔が熱くなってくるのを誤魔化すために、俺は目の前のオレンジジュースを一気に飲み下した。
久瀬町は、都心から電車と車をいくつも乗り継いで、ようやく辿り着くような山あいの町だ。
若い人間は高校を出ればだいたい外へ出て、そのまま戻ってこない。残るのは年寄りと、家業を継いだ数少ない同級生くらいだと、母からも聞いている。
働き口は限られ、商店街もシャッターが下りたままの店が目立つ。
最近はリモートワークがどうとかで、空き家を改装して移住者を呼び込もうと役場が動いているらしい。
民泊の許可も取りやすくして、外国人観光客にも来てもらえたら、なんて話もあるそうだ。
自然はあるし、家賃も安い。ネットも一応つながる。
条件だけ並べれば悪くないはずなのに、これといった決め手がない。観光地と胸を張れるものもなければ、SNSでバズる名物もない。
「人が減れば氏子も減るからな。正直、神社もこのままやと立ち行かんようになるわ」
ぽつりとそう言いながら、澄の父親がビールグラスを傾ける。
澄の兄は東京の大学に通っていて、やりたい仕事があるらしい。だから継がせるのも気が引ける、と澄の父親は言う。
「自分の代で合祀(ごうし)にしてまうんも、ひとつの手やとは思うてる」
合祀。ほかの神社と一緒にして、ここを閉じる、ということだ。
「でもな、久瀬町は俺らの故郷やし、この夜宮は町のシンボルみたいなもんや」
そう言って北村さんが、澄の父親の肩をぽんと叩く。
二人は顔を見合わせて、小さく頷き合い、グラスをチンと鳴らした。酔って少し感情的になっているのか、北村さんはズビッと鼻を啜っている。
「ほいでな、どうにかこの町に名物つくろう思うてな。山菜フェスとか、夜宮ライトアップとか、空き家カフェ計画とか……いろいろ出とるんや。そのうちのひとつが、この怪異ってわけや」
どうやら発案者は北村さんらしい。
俺はもう一度、澄がよこしてきたスマートフォンに目を落とす。
久瀬怪異録――その文字を見ただけで、背筋がわずかにぞくっとした。
「で、でも……こんなの売りにしたら、逆に人来なくなるんじゃ?」
思わずそう言うと、北村さんは「ほら」と身を乗り出した。
「あるやろ? わざと事故物件に住んだり、お化け出るの逆に売りにしてるホテルとか」
「いや、ありますけど……」
嫌な予感しかしない。
つまり、この人たちは俺にホラー系YouTuberみたいなことをやれと言っているのか。見たことはないけど、富士の樹海だとか、曰く付きの病院だとか、そういう場所で動画を回して「出た!」とか叫ぶ、ああいうやつ。それをこの久瀬町でやって、俺のフォロワーを使って拡散し、町の知名度を上げようという魂胆らしい。
「つ、つまり……それって……」
自分の喉がごきゅっと唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
「あるんですか? 久瀬町に……その、心霊スポット的なのが……」
――しん……
突然、沈黙が落ちた。
さっきまで部屋の中を走り回っていた澄の弟も、どこの家の子か分からない小さな子も、ぴたりと動きを止める。箸の触れ合う音さえ止まった気がして、俺は思わず「ひっ」と息を吸い込んだ。
「……あるよ……」
低い声で呟いたのは北村さんだった。さっきまでの陽気さが嘘みたいに声色を落とし、わざとらしく視線を伏せる。その芝居がかった間に、俺の頬が引きつった。
――パシッ。
「ヒャアッ――!」
突然、右肩に軽い衝撃が走り、俺は反射的に肩を跳ね上げた。心臓が一瞬で喉元までせり上がる。
隣を見れば、澄が何食わぬ顔で手を引っ込めている。どうやら俺の肩を軽く叩いただけらしい。それに気づいた途端、恐怖とは別の意味で顔が熱くなる。
「陽翔、肩触るとおもろい声出すよな。くすぐったいん?」
にやりともせず、淡々と言うのが腹立つ。
このやろう……。変な空気のタイミングで触るなよ。
そう言い返したいのをぐっと飲み込み、俺は膝の上で拳を握った。
「キッタン、あんまウチの子揶揄わんといて。この通り、めっちゃ怖がりなんやから」
母がケラケラ笑いながら、顔の前を手でぱたぱたとあおぐ。
子供や同級生のいる前で『怖がり』認定されて、俺は思わず母に向かって「そんなことねぇし」と、我ながらずいぶん子供っぽい反抗をしてしまった。
北村さんはまた表情を元に戻し、ヘラヘラと膝を叩きながら笑っている。
「まあ、あるっつっても、子供らの噂話レベルやねん。神無トンネルとか、ほら、旧診療所の裏手の井戸とか、そっち系や」
十分怖そうなんだが。
俺は眉をひそめながらも、余計なことは言わずに小さく頷く。
「創作みたいな感覚でええんやて。観てる人もそこはわかるやろし、要は町に興味持ってもらえたらええんや」
母が天ぷらを齧りながら、のんびり補足する。
「なあ、頼むわ、陽翔くん! 澄と一緒に久瀬町起こし、怪異担当やってくれへんか!」
北村さんが身を乗り出して、ペチンと両手を合わせる仕草をする。
「いや……」
思わず声が抜ける。
フォロワー六千人に対して、過度な期待をしすぎではないだろうか。
たしかに多いといえば多い。
でも、俺のアカウントを見ているのは、都心の高校生のダンス動画や、オシャレなカフェや、キラキラしたファッションに「いいね」してる層だ。山あいの町の怪談動画なんて、方向性が真逆すぎる。
それを説明しようと口を開きかけた瞬間、食卓の全員の視線がきれいに俺へ集まっているのに気づいて、思わず口籠ってしまう。
だいたいにして、母がさっき「怖がり」だの何だの言ったせいで、ここで断ったら単にビビって逃げたみたいになるのも、なんだか癪だ。
でも……
神無トンネル。診療所の裏手の井戸。怪異。
頭の中で単語がぐるぐる回る。
ちらりと隣を見ると、澄はまたどこかよくわからない方向に視線を向けて、ぼんやりしている。こいつのこの得体の知れない感じが、ある意味いちばん不気味だ。
「ちょ、ちょっと……考えさせてください」
とりあえず曖昧にそう言って、俺はグラスを持ち直した。
「久瀬怪異録……?」
画面に表示されていたのは、SNSのアカウントだった。ヘッダーには山並みと、たぶんこの夜宮神社の鳥居を下から見上げた写真。
まだ投稿はゼロ、フォロワーは十二人。
「役所と神社で立ち上げたアカウントやねん。じいちゃん、一応町内会長やし」
そう言いながら、澄は日本酒のグラスを握ったまま船を漕いでいるじいちゃんへ、ちらりと視線を向けた。
「これ、一緒にやってくれへん?」
「一緒……に……?」
俺はもう一度、スマートフォンの画面に目を落とす。プロフィール欄にはこう書かれていた。
――『怪異が息づく山あいの町・久瀬。静かな暮らしに、少しのスリルを。物語の中で、暮らしてみませんか』
「え……付き合ってって……こ、これ?」
ゆっくり顔を上げると、澄がきょとんと瞬きをした。
「そやで?」
首をかしげるその顔は、本気で何が引っかかっているのかわかっていない様子だ。
俺は思わず、はぁ、と息を吐いた。
なんだよ。
めちゃくちゃ勘違いしてたじゃないか。
急に顔が熱くなってくるのを誤魔化すために、俺は目の前のオレンジジュースを一気に飲み下した。
久瀬町は、都心から電車と車をいくつも乗り継いで、ようやく辿り着くような山あいの町だ。
若い人間は高校を出ればだいたい外へ出て、そのまま戻ってこない。残るのは年寄りと、家業を継いだ数少ない同級生くらいだと、母からも聞いている。
働き口は限られ、商店街もシャッターが下りたままの店が目立つ。
最近はリモートワークがどうとかで、空き家を改装して移住者を呼び込もうと役場が動いているらしい。
民泊の許可も取りやすくして、外国人観光客にも来てもらえたら、なんて話もあるそうだ。
自然はあるし、家賃も安い。ネットも一応つながる。
条件だけ並べれば悪くないはずなのに、これといった決め手がない。観光地と胸を張れるものもなければ、SNSでバズる名物もない。
「人が減れば氏子も減るからな。正直、神社もこのままやと立ち行かんようになるわ」
ぽつりとそう言いながら、澄の父親がビールグラスを傾ける。
澄の兄は東京の大学に通っていて、やりたい仕事があるらしい。だから継がせるのも気が引ける、と澄の父親は言う。
「自分の代で合祀(ごうし)にしてまうんも、ひとつの手やとは思うてる」
合祀。ほかの神社と一緒にして、ここを閉じる、ということだ。
「でもな、久瀬町は俺らの故郷やし、この夜宮は町のシンボルみたいなもんや」
そう言って北村さんが、澄の父親の肩をぽんと叩く。
二人は顔を見合わせて、小さく頷き合い、グラスをチンと鳴らした。酔って少し感情的になっているのか、北村さんはズビッと鼻を啜っている。
「ほいでな、どうにかこの町に名物つくろう思うてな。山菜フェスとか、夜宮ライトアップとか、空き家カフェ計画とか……いろいろ出とるんや。そのうちのひとつが、この怪異ってわけや」
どうやら発案者は北村さんらしい。
俺はもう一度、澄がよこしてきたスマートフォンに目を落とす。
久瀬怪異録――その文字を見ただけで、背筋がわずかにぞくっとした。
「で、でも……こんなの売りにしたら、逆に人来なくなるんじゃ?」
思わずそう言うと、北村さんは「ほら」と身を乗り出した。
「あるやろ? わざと事故物件に住んだり、お化け出るの逆に売りにしてるホテルとか」
「いや、ありますけど……」
嫌な予感しかしない。
つまり、この人たちは俺にホラー系YouTuberみたいなことをやれと言っているのか。見たことはないけど、富士の樹海だとか、曰く付きの病院だとか、そういう場所で動画を回して「出た!」とか叫ぶ、ああいうやつ。それをこの久瀬町でやって、俺のフォロワーを使って拡散し、町の知名度を上げようという魂胆らしい。
「つ、つまり……それって……」
自分の喉がごきゅっと唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
「あるんですか? 久瀬町に……その、心霊スポット的なのが……」
――しん……
突然、沈黙が落ちた。
さっきまで部屋の中を走り回っていた澄の弟も、どこの家の子か分からない小さな子も、ぴたりと動きを止める。箸の触れ合う音さえ止まった気がして、俺は思わず「ひっ」と息を吸い込んだ。
「……あるよ……」
低い声で呟いたのは北村さんだった。さっきまでの陽気さが嘘みたいに声色を落とし、わざとらしく視線を伏せる。その芝居がかった間に、俺の頬が引きつった。
――パシッ。
「ヒャアッ――!」
突然、右肩に軽い衝撃が走り、俺は反射的に肩を跳ね上げた。心臓が一瞬で喉元までせり上がる。
隣を見れば、澄が何食わぬ顔で手を引っ込めている。どうやら俺の肩を軽く叩いただけらしい。それに気づいた途端、恐怖とは別の意味で顔が熱くなる。
「陽翔、肩触るとおもろい声出すよな。くすぐったいん?」
にやりともせず、淡々と言うのが腹立つ。
このやろう……。変な空気のタイミングで触るなよ。
そう言い返したいのをぐっと飲み込み、俺は膝の上で拳を握った。
「キッタン、あんまウチの子揶揄わんといて。この通り、めっちゃ怖がりなんやから」
母がケラケラ笑いながら、顔の前を手でぱたぱたとあおぐ。
子供や同級生のいる前で『怖がり』認定されて、俺は思わず母に向かって「そんなことねぇし」と、我ながらずいぶん子供っぽい反抗をしてしまった。
北村さんはまた表情を元に戻し、ヘラヘラと膝を叩きながら笑っている。
「まあ、あるっつっても、子供らの噂話レベルやねん。神無トンネルとか、ほら、旧診療所の裏手の井戸とか、そっち系や」
十分怖そうなんだが。
俺は眉をひそめながらも、余計なことは言わずに小さく頷く。
「創作みたいな感覚でええんやて。観てる人もそこはわかるやろし、要は町に興味持ってもらえたらええんや」
母が天ぷらを齧りながら、のんびり補足する。
「なあ、頼むわ、陽翔くん! 澄と一緒に久瀬町起こし、怪異担当やってくれへんか!」
北村さんが身を乗り出して、ペチンと両手を合わせる仕草をする。
「いや……」
思わず声が抜ける。
フォロワー六千人に対して、過度な期待をしすぎではないだろうか。
たしかに多いといえば多い。
でも、俺のアカウントを見ているのは、都心の高校生のダンス動画や、オシャレなカフェや、キラキラしたファッションに「いいね」してる層だ。山あいの町の怪談動画なんて、方向性が真逆すぎる。
それを説明しようと口を開きかけた瞬間、食卓の全員の視線がきれいに俺へ集まっているのに気づいて、思わず口籠ってしまう。
だいたいにして、母がさっき「怖がり」だの何だの言ったせいで、ここで断ったら単にビビって逃げたみたいになるのも、なんだか癪だ。
でも……
神無トンネル。診療所の裏手の井戸。怪異。
頭の中で単語がぐるぐる回る。
ちらりと隣を見ると、澄はまたどこかよくわからない方向に視線を向けて、ぼんやりしている。こいつのこの得体の知れない感じが、ある意味いちばん不気味だ。
「ちょ、ちょっと……考えさせてください」
とりあえず曖昧にそう言って、俺はグラスを持ち直した。


