俺は境内を離れ、もうすっかり勝手知ったる感じになった霧島家の方へ向かう。正月の参拝客対応で、家族総出で夜宮に出払っているから、家の中に人の気配はない。
石段の脇を抜けて、俺はそのまま留守の霧島邸に上がり込んだ。
冷えきっていた澄の部屋で暖房をつけて、さっき境内でもらった焼き餅を食べ、ペットボトルのお茶を飲む。それでもまだ少し寒くて、もぞもぞと澄のベッドに潜り込んでいるうちに、どうやらまた少しうとうとしてしまったらしい。
やけに近くに気配を感じて、俺はうっすら目を開けた。
すぐ目の前に黒い瞳があって、思わずびくっと体が跳ねる。
でも、すぐにわかった。澄だ。
ベッドの脇にしゃがみ込んで、縁に腕を乗せ、そこに顎を預けるみたいにして、じっと俺の顔を覗き込んでいる。
……ちょっと怖い。
「終わった?」
「うん。チュウしてええ?」
「……まあ、いいよ」
返事を待つ気があったのかなかったのか、澄の唇はほとんど間髪入れずに触れてきた。軽く、確認するみたいなキスだ。
「陽翔、眠いん? あんま寝てないとか?」
「いや、逆に寝過ぎて眠いってやつかも。ゲームするか――っ、と?」
起き上がろうとしたのに、そのまま澄がもそもそと布団の中に入り込んできた。
「ぬくいー」
そう言いながら、甘えるみたいにしがみついてくる。
もう和装は脱いで部屋着に着替えていて、その服はまだ体温が移っていないのか、抱き寄せると澄の体は少しひんやりしていた。胸元にぐりぐりと額を押しつけてくるので、俺は少し戸惑いながらも、温めるみたいにその背中をさすってやる。
「何時から手伝いしてたの?」
「五時くらい」
「うわ、きつ」
「やろ。労ってや」
「はいはい。よしよし、えらいえらい」
からかい半分でぽんぽんと背中を叩くと、胸元からふっと澄が顔を上げた。
来るな、と思った次の瞬間、またちゅっと唇が重なる。
こうして自然にキスするような関係になって、最初の頃はそのたびにやたら緊張していたのに、このところは、触れ合うたびにただ愛しさが増すようになっていた。
ただ、ひとつ、ここ最近ちょっと困っていることがある。
――ごそ、ごそ。
「……っ!」
啄むみたいなキスの合間に、澄の手が背中を滑っていく。服の上からだったそれが、いつの間にか腰に回り、当たり前みたいに裾の下へ入り込んできた。ひやりとした指先が、そのまま背中の皮膚をするりと撫でる。
「くすぐったいっての」
「だいじょうぶやて」
「いや、その“大丈夫”の意味がわかんねぇから」
「ええや……っんむっ!」
ごまかすみたいにキスしてこようとした澄の顎を、俺は手のひらで押さえた。少し強めだったのか、指先が頬に食い込んでいる。
「陽翔はいやなん?」
ちょっと間の抜けた響きだったけど、声の調子が妙に真面目で、俺は澄の顎からそっと手を離した。
「俺とえっちなことするの嫌なん?」
「えっ……ちっ……って……」
あまりにはっきり言われて、思わず言葉が詰まる。
その単語の意味と、今の距離の近さが一気に結びついて、顔に熱が上った。
ていうか、やっぱりそうだよな。
最近、澄の触り方が妙に思えていた。前から距離は近かったけど、それとは少し違う意図があるような気がしていたのだ。やっぱりそういうことだったのかと思うと、急に変な気まずさが込み上げてくる。
俺だって、健全な高校生男子だ。
もちろん、そういうことに興味がないわけじゃない。けれど、興味があることと、澄とその一線を越えられるかどうかは別だ。
女の子と付き合った経験があるわけでもない。だから比べようもないけど、相手が澄だからこそ戸惑う部分は確かにある。嫌というわけじゃない。ただ、なんというか、普通に恥ずかしすぎるのだ。同性だからどうこう、という想像より先に、澄とそうなることを考えるだけで頭がぐちゃぐちゃになる。
「嫌なん?」
「嫌……というか……」
最近、澄がこういう触り方をするせいで、せっかく少し慣れてきたはずの距離でも、二人きりの時に近づかれるたびに心拍が跳ね上がる。今だって、息苦しいくらいだ。どうにか視線を逸らそうとするのに、澄は無表情なまま、逃がす気なんてないみたいに俺の顔を覗き込んで、そのうえ胸元で両手首まで掴んでくる。
「俺は陽翔とえっちなことしたいなぁ……」
澄はこういうとき、良くも悪くも素直すぎる。
思っていることを、ほとんどそのまま口にするのだ。
恥ずかしさに耐えきれず顔を伏せると、その鼻先に合わせるみたいに、澄が鼻を擦り寄せてきた。
「陽翔のこと好きなんやもん。好き同士ですると、めっちゃ気持ちええんやって……」
言葉の合間に、ちゅっとまた唇が触れる。
「陽翔も俺のこと、好きやろ?」
澄は、甘えるのがうまい。
そう思う。
けど、だからって、ここでそのまま流されていいのかは全然わからない。腹が決まらないまま、いつもより少し深いキスを受けとっている。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
混乱したまま、体が勝手に強張る。そんな背中を、またするりと澄の手が撫でていく。思わずぎゅっと目を閉じて、身構えるみたいに肩をすぼめてしまった。
澄のことは好きだ。
でも、正直、まだこの先に進むのは怖い。
かといって、ここで断ったら、澄がまた傷つくんじゃないか。そう思うと、どっちも選べないまま行き詰まってしまう。
「陽翔」
ふいに、柔らかく名前を呼ばれる。恐る恐る目を開けると、今度は額にちゅっとキスが落ちてきた。
それをきっかけにしたみたいに、澄の纏う空気が少しだけ変わる。背中に入り込んでいた手が、するりと離れていくのがわかって、俺は咄嗟に「待って」と澄の手首を掴んでいた。
「ご、ごめん……俺……」
また澄が壁を作って、自分から離れてしまうんじゃないか。
咄嗟にそんなことを考えてしまった。答えは出せないくせに、離れていくのは怖くて、ただ必死に掴んでしまったのだ。
澄はたぶん、俺のその気持ちを察したんだと思う。
「だいじょぶや」
そう言って、緩やかに俺の手を握り返す。
「えっちしたいんはほんまやけど、陽翔が嫌なら、せんでもええよ」
「ご、ごめん……嫌とかではなくて、まだちょっと、怖いというか……」
「謝らんでよ」
澄はそう言って、少しだけ眉を下げたまま口元を緩めると、俺の手を引き寄せて、その甲に軽く唇を触れさせた。
「好きやから、全然待てるわ。陽翔が大人になるまで待ったるよ」
その、どこか余裕ぶった、少し冗談めいた言い方のおかげで、張りつめていた緊張が少しだけほどける。
「な……なんだ……それ」
ひとりで大人ぶりやがって、という気持ちをそのまま乗せるみたいにそう返すと、澄はふっと息を漏らすように笑った。
「はぁ……なんか、陽翔ぬくくて、めっちゃ眠くなってきた」
そう言いながら、澄は俺を抱き枕みたいに抱え込むと、胸のあたりに顔を寄せるようにして、ずるずると布団に沈んでいく。
「寝る?」
「んー、寝ぇへん……寝んように、なんか話して?」
「え、なんかって」
というか、布団から出ればいいのでは、と一瞬思う。けど、俺も俺でこの状況が妙に居心地よくて、その案は口にしないことにした。
部屋の中を見回してみても、特に話の種は見つからない。どうしようかと思って、そうだ、とポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出した。
「ほら、これ見て」
そう声をかけると、澄の頭がにょきっと布団から出てくる。
「俺やん」
「そ。さっき盗撮した」
画面に映っているのは、夜宮の境内での澄だ。外国人の女の人に声をかけられて、並んで写真を撮っているところ。無表情のままピースしてるのが、なんとも澄らしくてちょっとおもしろい。
「なんや、言うてくれたら、ちゃんと撮ったのに」
「いや、忙しそうだったからさぁ」
澄に肩越しから覗き込まれながら、俺は写真を少しトリミングして、光の具合をいじる。澄がちゃんと真ん中にくるようにして、最後にお気に入りマークをつけて保存した。
「そんなに袴好きなん?」
と、澄が聞いてくる。
「うん、澄、和装似合うと思う」
「そーなん? かっこよかった?」
「え? ま、まあ」
「好き?」
あまりにもそのまま聞いてくるから、思わず吹き出してしまう。
「ああ、うん。好き好き」
笑いながらそう返した途端、澄ががばっと起き上がった。布団がめくれて、急に冷たい空気が入り込んでくる。
「どうした?」
「もっかい、袴着てくるわ」
「はっ?」
「袴着たら……陽翔、その気になるんかなって」
「アホか!」
ちょっと方言に引っ張られたみたいなツッコミが出る。俺はそのまま、澄の背中をぺしりと叩いた。
「そういう問題じゃねぇから」
「わかっとるわ」
そう言いながらも、少し不満げな顔で、澄はまたもぞもぞと布団の中へ戻ってくる。
「それ、SNS上げるん?」
「え、澄、顔出していいの?」
「んー、目んとこ黒い棒線入れといてや」
「それ、なんかやらかしたやつじゃん」
俺が声を立てて笑うと、澄も肩を揺らした。
布団の中で二人してくっついたまま、しばらくそんなふうに笑っていたけれど、ふとした拍子に、前から頭の片隅に引っかかっていたことが口をついて出た。
「てかさ、俺……SNS、やめようかなって思ってんだよね」
なんでもないことみたいな調子を装って言ったけど、その考え自体は、前からぼんやりあった。最初は、本当にただの思いつきみたいなものだった。そういうのもありかな、くらいの、輪郭の曖昧な考え。それがここしばらくで、少しずつ形を持ちはじめていた。
「そぉなん? なんで?」
俺の腕のあたりに顎を乗せたまま、澄が少しだけ首を傾げる。
「フォロワーが多いのって、まあ、いろいろいいこともあるんだけど。反応が返ってくると、ちゃんと誰かに見てもらえてる感じがしたし、救われてた時期もあったし」
澄は、余計な相槌を挟まずに聞いていた。じっとこっちを見ているわけでもなく、でも聞き流している感じでもない。そういう、妙に静かな聞き方をする。
「でも、小麦のことがあってから思ったんだよね。俺にとって大事なのって、画面の向こうの六千人の誰かより、近くにいる一人の言葉なんだなって」
そこまで言って、少しだけ言葉を探す。
うまく説明できるかはわからない。でも、今の自分が感じていることに、なるべく近い形では話したかった。
「このままSNSに固執してると、俺の場合、たぶん表面だけ整えるようになっていく気がするんだよ。どう見えるかばっかり気にして、肝心の中身のほうが置いていかれるっていうか。そういうの、なんか嫌だなって」
「ほな、アカウント消すん?」
「……いや、それはもうちょい残しとく」
「消さへんのかい」
「でも、投稿に振り回されるのはやめようかなってこと」
「ふぅん」
どうにも納得しきっていない感じの返事に、俺は眉をひそめた。
「……なんだよ。ほんとにできるんかって思ってる?」
「ちょっとな」
「思ってんのかよ」
思わずつっこむと、澄がくくっと喉の奥で笑う。つられて俺も笑った。
「したら、怪異録はどうするん」
「あー、それも考えてたんだけどさ。三年になったら、さすがに受験始まるだろ。だから、春までに後輩に引き継ぐのはありかなって」
怪異録のアカウント自体は、もうわりと育ってきている。俺の個人アカウントをわざわざ絡めなくても、あれだけで続いていく土台はできてきた気がしていた。
「はぁ、そっかぁ……受験かぁ、いややなぁ」
「澄、勉強そのものは嫌いじゃないって言ってたじゃん」
「ちゃうくて、陽翔と離れるんが嫌や」
言い方があまりにも真っ直ぐで、嬉しいのと、少し心配になるのとで、俺は曖昧に苦笑した。
「あと一年以内に、澄のひとり立ち訓練だな」
「ええよぉ、ひとり立ちせん。ずっとくっついとる」
そう言って、澄がまたぎゅうっとしがみついてくる。
「ちょ、こら、苦しいっての」
押し返しながら文句を言っても、澄はどこ吹く風だ。結局そのまま、二人で意味のないやり取りを続けながら笑っていた。
すると、不意に居間のほうから澄の母さんの声が飛んできた。ドアの向こうから届く、よく通る明るい声だ。
「澄ー、陽翔くん、夕飯食べおいでー。すき焼きやでー。ちかちゃんがめっちゃええ肉持ってきてくれたよぉ」
その声に重なるみたいに、甘辛い匂いがふわっと流れ込んでくる。腹はさっきから減っていたけど、すき焼きと聞いた途端、急にそれがはっきり自覚できるものになった。
「母さん来てるのか」
「そうみたいやな」
「すき焼きだって。早く行こ。俺、腹減ったわ」
そう言って俺は先に起き上がり、ベッドに座ったままの澄の腕を引いた。素直に立つのかと思ったら、澄はそのままこちらに体重を預けてきて、立ち上がる流れのまま、俺を包み込むみたいにぎゅっと抱きしめた。
「俺も腹減ったぁ」
間の抜けたことを言っているくせに、腕の力はそこそこ強い。
「腹減ってんなら行くぞって」
呆れながら背中を軽く叩くと、澄は「今行く」と俺の肩口に顔を寄せたまま答えた。口ではそう言うのに、すぐには離れない。しばらくそのまま、くっついていること自体を目的にしているみたいに体温を預けていて、それからようやく腕の力を抜いた。
部屋の外からは、大人たちの話し声に、鍋の蓋が触れ合うような小さな音が混じって聞こえてくる。正月の夜らしい、気の抜けた賑やかさだった。
「ほら」
もう一度促すと、澄は今度こそ俺から体を離した。
二人で部屋を出る。廊下は相変わらず少し冷えていたけれど、居間に近づくにつれて、すき焼きの匂いと人の声が濃くなっていった。
襖を開けると、鍋の湯気と一緒に「あ、来た来た」という声が飛んでくる。
俺は適当に返事をしながら、そのまま座卓のほうへ向かった。
「陽翔くん、そこ座りぃ」
澄の母さんにそう促されて、湯気の立つ鍋の前に腰を下ろす。隣には、さも当然みたいな顔で澄も座った。
卓を囲んでいる顔ぶれは、思っていたよりずっと多い。
うちの母さんと、一緒に来ていたらしいばあちゃん、それから澄の父親、じいちゃん、弟。さらに、正月で東京から戻ってきている澄のお兄さんまでいた。お兄さんは顔立ちは澄と似ているのに、よく笑うので、愛想のいい澄を見ているみたいで不思議な感じだ。
鍋の湯気の向こうで、肉を入れすぎるなだの、春菊を残すなだの、好き勝手な声が飛び交っている。箸の音、笑い声、鍋の煮える音。人の多い食卓特有の、少し騒がしくて、でも妙に落ち着く空気だった。
こうして大人数でひとつの卓を囲んでいると、ふと、最初にここで久瀬怪異録の話を持ちかけられたときのことを思い出す。あのときも似たように人がいて、俺はこの町にも、この家にも、まだどこか借り物みたいな顔で座っていた。
久瀬に来たばかりの頃は、山しかない町だとうんざりしていた。
けど今は、その山に囲まれた家の座卓で、すき焼きの湯気に目を細めながら、最初は不気味だとすら思っていた澄と、肩が触れそうな距離で鍋をつついている。
人生、ほんとに何がどう転ぶかわからないものだ。
その夜、俺が見た初夢が、袴姿の澄とベッドの上でいちゃつくという、なんとも気まずい内容だったことは……たぶん、墓場まで持っていく。
おわり
石段の脇を抜けて、俺はそのまま留守の霧島邸に上がり込んだ。
冷えきっていた澄の部屋で暖房をつけて、さっき境内でもらった焼き餅を食べ、ペットボトルのお茶を飲む。それでもまだ少し寒くて、もぞもぞと澄のベッドに潜り込んでいるうちに、どうやらまた少しうとうとしてしまったらしい。
やけに近くに気配を感じて、俺はうっすら目を開けた。
すぐ目の前に黒い瞳があって、思わずびくっと体が跳ねる。
でも、すぐにわかった。澄だ。
ベッドの脇にしゃがみ込んで、縁に腕を乗せ、そこに顎を預けるみたいにして、じっと俺の顔を覗き込んでいる。
……ちょっと怖い。
「終わった?」
「うん。チュウしてええ?」
「……まあ、いいよ」
返事を待つ気があったのかなかったのか、澄の唇はほとんど間髪入れずに触れてきた。軽く、確認するみたいなキスだ。
「陽翔、眠いん? あんま寝てないとか?」
「いや、逆に寝過ぎて眠いってやつかも。ゲームするか――っ、と?」
起き上がろうとしたのに、そのまま澄がもそもそと布団の中に入り込んできた。
「ぬくいー」
そう言いながら、甘えるみたいにしがみついてくる。
もう和装は脱いで部屋着に着替えていて、その服はまだ体温が移っていないのか、抱き寄せると澄の体は少しひんやりしていた。胸元にぐりぐりと額を押しつけてくるので、俺は少し戸惑いながらも、温めるみたいにその背中をさすってやる。
「何時から手伝いしてたの?」
「五時くらい」
「うわ、きつ」
「やろ。労ってや」
「はいはい。よしよし、えらいえらい」
からかい半分でぽんぽんと背中を叩くと、胸元からふっと澄が顔を上げた。
来るな、と思った次の瞬間、またちゅっと唇が重なる。
こうして自然にキスするような関係になって、最初の頃はそのたびにやたら緊張していたのに、このところは、触れ合うたびにただ愛しさが増すようになっていた。
ただ、ひとつ、ここ最近ちょっと困っていることがある。
――ごそ、ごそ。
「……っ!」
啄むみたいなキスの合間に、澄の手が背中を滑っていく。服の上からだったそれが、いつの間にか腰に回り、当たり前みたいに裾の下へ入り込んできた。ひやりとした指先が、そのまま背中の皮膚をするりと撫でる。
「くすぐったいっての」
「だいじょうぶやて」
「いや、その“大丈夫”の意味がわかんねぇから」
「ええや……っんむっ!」
ごまかすみたいにキスしてこようとした澄の顎を、俺は手のひらで押さえた。少し強めだったのか、指先が頬に食い込んでいる。
「陽翔はいやなん?」
ちょっと間の抜けた響きだったけど、声の調子が妙に真面目で、俺は澄の顎からそっと手を離した。
「俺とえっちなことするの嫌なん?」
「えっ……ちっ……って……」
あまりにはっきり言われて、思わず言葉が詰まる。
その単語の意味と、今の距離の近さが一気に結びついて、顔に熱が上った。
ていうか、やっぱりそうだよな。
最近、澄の触り方が妙に思えていた。前から距離は近かったけど、それとは少し違う意図があるような気がしていたのだ。やっぱりそういうことだったのかと思うと、急に変な気まずさが込み上げてくる。
俺だって、健全な高校生男子だ。
もちろん、そういうことに興味がないわけじゃない。けれど、興味があることと、澄とその一線を越えられるかどうかは別だ。
女の子と付き合った経験があるわけでもない。だから比べようもないけど、相手が澄だからこそ戸惑う部分は確かにある。嫌というわけじゃない。ただ、なんというか、普通に恥ずかしすぎるのだ。同性だからどうこう、という想像より先に、澄とそうなることを考えるだけで頭がぐちゃぐちゃになる。
「嫌なん?」
「嫌……というか……」
最近、澄がこういう触り方をするせいで、せっかく少し慣れてきたはずの距離でも、二人きりの時に近づかれるたびに心拍が跳ね上がる。今だって、息苦しいくらいだ。どうにか視線を逸らそうとするのに、澄は無表情なまま、逃がす気なんてないみたいに俺の顔を覗き込んで、そのうえ胸元で両手首まで掴んでくる。
「俺は陽翔とえっちなことしたいなぁ……」
澄はこういうとき、良くも悪くも素直すぎる。
思っていることを、ほとんどそのまま口にするのだ。
恥ずかしさに耐えきれず顔を伏せると、その鼻先に合わせるみたいに、澄が鼻を擦り寄せてきた。
「陽翔のこと好きなんやもん。好き同士ですると、めっちゃ気持ちええんやって……」
言葉の合間に、ちゅっとまた唇が触れる。
「陽翔も俺のこと、好きやろ?」
澄は、甘えるのがうまい。
そう思う。
けど、だからって、ここでそのまま流されていいのかは全然わからない。腹が決まらないまま、いつもより少し深いキスを受けとっている。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
混乱したまま、体が勝手に強張る。そんな背中を、またするりと澄の手が撫でていく。思わずぎゅっと目を閉じて、身構えるみたいに肩をすぼめてしまった。
澄のことは好きだ。
でも、正直、まだこの先に進むのは怖い。
かといって、ここで断ったら、澄がまた傷つくんじゃないか。そう思うと、どっちも選べないまま行き詰まってしまう。
「陽翔」
ふいに、柔らかく名前を呼ばれる。恐る恐る目を開けると、今度は額にちゅっとキスが落ちてきた。
それをきっかけにしたみたいに、澄の纏う空気が少しだけ変わる。背中に入り込んでいた手が、するりと離れていくのがわかって、俺は咄嗟に「待って」と澄の手首を掴んでいた。
「ご、ごめん……俺……」
また澄が壁を作って、自分から離れてしまうんじゃないか。
咄嗟にそんなことを考えてしまった。答えは出せないくせに、離れていくのは怖くて、ただ必死に掴んでしまったのだ。
澄はたぶん、俺のその気持ちを察したんだと思う。
「だいじょぶや」
そう言って、緩やかに俺の手を握り返す。
「えっちしたいんはほんまやけど、陽翔が嫌なら、せんでもええよ」
「ご、ごめん……嫌とかではなくて、まだちょっと、怖いというか……」
「謝らんでよ」
澄はそう言って、少しだけ眉を下げたまま口元を緩めると、俺の手を引き寄せて、その甲に軽く唇を触れさせた。
「好きやから、全然待てるわ。陽翔が大人になるまで待ったるよ」
その、どこか余裕ぶった、少し冗談めいた言い方のおかげで、張りつめていた緊張が少しだけほどける。
「な……なんだ……それ」
ひとりで大人ぶりやがって、という気持ちをそのまま乗せるみたいにそう返すと、澄はふっと息を漏らすように笑った。
「はぁ……なんか、陽翔ぬくくて、めっちゃ眠くなってきた」
そう言いながら、澄は俺を抱き枕みたいに抱え込むと、胸のあたりに顔を寄せるようにして、ずるずると布団に沈んでいく。
「寝る?」
「んー、寝ぇへん……寝んように、なんか話して?」
「え、なんかって」
というか、布団から出ればいいのでは、と一瞬思う。けど、俺も俺でこの状況が妙に居心地よくて、その案は口にしないことにした。
部屋の中を見回してみても、特に話の種は見つからない。どうしようかと思って、そうだ、とポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出した。
「ほら、これ見て」
そう声をかけると、澄の頭がにょきっと布団から出てくる。
「俺やん」
「そ。さっき盗撮した」
画面に映っているのは、夜宮の境内での澄だ。外国人の女の人に声をかけられて、並んで写真を撮っているところ。無表情のままピースしてるのが、なんとも澄らしくてちょっとおもしろい。
「なんや、言うてくれたら、ちゃんと撮ったのに」
「いや、忙しそうだったからさぁ」
澄に肩越しから覗き込まれながら、俺は写真を少しトリミングして、光の具合をいじる。澄がちゃんと真ん中にくるようにして、最後にお気に入りマークをつけて保存した。
「そんなに袴好きなん?」
と、澄が聞いてくる。
「うん、澄、和装似合うと思う」
「そーなん? かっこよかった?」
「え? ま、まあ」
「好き?」
あまりにもそのまま聞いてくるから、思わず吹き出してしまう。
「ああ、うん。好き好き」
笑いながらそう返した途端、澄ががばっと起き上がった。布団がめくれて、急に冷たい空気が入り込んでくる。
「どうした?」
「もっかい、袴着てくるわ」
「はっ?」
「袴着たら……陽翔、その気になるんかなって」
「アホか!」
ちょっと方言に引っ張られたみたいなツッコミが出る。俺はそのまま、澄の背中をぺしりと叩いた。
「そういう問題じゃねぇから」
「わかっとるわ」
そう言いながらも、少し不満げな顔で、澄はまたもぞもぞと布団の中へ戻ってくる。
「それ、SNS上げるん?」
「え、澄、顔出していいの?」
「んー、目んとこ黒い棒線入れといてや」
「それ、なんかやらかしたやつじゃん」
俺が声を立てて笑うと、澄も肩を揺らした。
布団の中で二人してくっついたまま、しばらくそんなふうに笑っていたけれど、ふとした拍子に、前から頭の片隅に引っかかっていたことが口をついて出た。
「てかさ、俺……SNS、やめようかなって思ってんだよね」
なんでもないことみたいな調子を装って言ったけど、その考え自体は、前からぼんやりあった。最初は、本当にただの思いつきみたいなものだった。そういうのもありかな、くらいの、輪郭の曖昧な考え。それがここしばらくで、少しずつ形を持ちはじめていた。
「そぉなん? なんで?」
俺の腕のあたりに顎を乗せたまま、澄が少しだけ首を傾げる。
「フォロワーが多いのって、まあ、いろいろいいこともあるんだけど。反応が返ってくると、ちゃんと誰かに見てもらえてる感じがしたし、救われてた時期もあったし」
澄は、余計な相槌を挟まずに聞いていた。じっとこっちを見ているわけでもなく、でも聞き流している感じでもない。そういう、妙に静かな聞き方をする。
「でも、小麦のことがあってから思ったんだよね。俺にとって大事なのって、画面の向こうの六千人の誰かより、近くにいる一人の言葉なんだなって」
そこまで言って、少しだけ言葉を探す。
うまく説明できるかはわからない。でも、今の自分が感じていることに、なるべく近い形では話したかった。
「このままSNSに固執してると、俺の場合、たぶん表面だけ整えるようになっていく気がするんだよ。どう見えるかばっかり気にして、肝心の中身のほうが置いていかれるっていうか。そういうの、なんか嫌だなって」
「ほな、アカウント消すん?」
「……いや、それはもうちょい残しとく」
「消さへんのかい」
「でも、投稿に振り回されるのはやめようかなってこと」
「ふぅん」
どうにも納得しきっていない感じの返事に、俺は眉をひそめた。
「……なんだよ。ほんとにできるんかって思ってる?」
「ちょっとな」
「思ってんのかよ」
思わずつっこむと、澄がくくっと喉の奥で笑う。つられて俺も笑った。
「したら、怪異録はどうするん」
「あー、それも考えてたんだけどさ。三年になったら、さすがに受験始まるだろ。だから、春までに後輩に引き継ぐのはありかなって」
怪異録のアカウント自体は、もうわりと育ってきている。俺の個人アカウントをわざわざ絡めなくても、あれだけで続いていく土台はできてきた気がしていた。
「はぁ、そっかぁ……受験かぁ、いややなぁ」
「澄、勉強そのものは嫌いじゃないって言ってたじゃん」
「ちゃうくて、陽翔と離れるんが嫌や」
言い方があまりにも真っ直ぐで、嬉しいのと、少し心配になるのとで、俺は曖昧に苦笑した。
「あと一年以内に、澄のひとり立ち訓練だな」
「ええよぉ、ひとり立ちせん。ずっとくっついとる」
そう言って、澄がまたぎゅうっとしがみついてくる。
「ちょ、こら、苦しいっての」
押し返しながら文句を言っても、澄はどこ吹く風だ。結局そのまま、二人で意味のないやり取りを続けながら笑っていた。
すると、不意に居間のほうから澄の母さんの声が飛んできた。ドアの向こうから届く、よく通る明るい声だ。
「澄ー、陽翔くん、夕飯食べおいでー。すき焼きやでー。ちかちゃんがめっちゃええ肉持ってきてくれたよぉ」
その声に重なるみたいに、甘辛い匂いがふわっと流れ込んでくる。腹はさっきから減っていたけど、すき焼きと聞いた途端、急にそれがはっきり自覚できるものになった。
「母さん来てるのか」
「そうみたいやな」
「すき焼きだって。早く行こ。俺、腹減ったわ」
そう言って俺は先に起き上がり、ベッドに座ったままの澄の腕を引いた。素直に立つのかと思ったら、澄はそのままこちらに体重を預けてきて、立ち上がる流れのまま、俺を包み込むみたいにぎゅっと抱きしめた。
「俺も腹減ったぁ」
間の抜けたことを言っているくせに、腕の力はそこそこ強い。
「腹減ってんなら行くぞって」
呆れながら背中を軽く叩くと、澄は「今行く」と俺の肩口に顔を寄せたまま答えた。口ではそう言うのに、すぐには離れない。しばらくそのまま、くっついていること自体を目的にしているみたいに体温を預けていて、それからようやく腕の力を抜いた。
部屋の外からは、大人たちの話し声に、鍋の蓋が触れ合うような小さな音が混じって聞こえてくる。正月の夜らしい、気の抜けた賑やかさだった。
「ほら」
もう一度促すと、澄は今度こそ俺から体を離した。
二人で部屋を出る。廊下は相変わらず少し冷えていたけれど、居間に近づくにつれて、すき焼きの匂いと人の声が濃くなっていった。
襖を開けると、鍋の湯気と一緒に「あ、来た来た」という声が飛んでくる。
俺は適当に返事をしながら、そのまま座卓のほうへ向かった。
「陽翔くん、そこ座りぃ」
澄の母さんにそう促されて、湯気の立つ鍋の前に腰を下ろす。隣には、さも当然みたいな顔で澄も座った。
卓を囲んでいる顔ぶれは、思っていたよりずっと多い。
うちの母さんと、一緒に来ていたらしいばあちゃん、それから澄の父親、じいちゃん、弟。さらに、正月で東京から戻ってきている澄のお兄さんまでいた。お兄さんは顔立ちは澄と似ているのに、よく笑うので、愛想のいい澄を見ているみたいで不思議な感じだ。
鍋の湯気の向こうで、肉を入れすぎるなだの、春菊を残すなだの、好き勝手な声が飛び交っている。箸の音、笑い声、鍋の煮える音。人の多い食卓特有の、少し騒がしくて、でも妙に落ち着く空気だった。
こうして大人数でひとつの卓を囲んでいると、ふと、最初にここで久瀬怪異録の話を持ちかけられたときのことを思い出す。あのときも似たように人がいて、俺はこの町にも、この家にも、まだどこか借り物みたいな顔で座っていた。
久瀬に来たばかりの頃は、山しかない町だとうんざりしていた。
けど今は、その山に囲まれた家の座卓で、すき焼きの湯気に目を細めながら、最初は不気味だとすら思っていた澄と、肩が触れそうな距離で鍋をつついている。
人生、ほんとに何がどう転ぶかわからないものだ。
その夜、俺が見た初夢が、袴姿の澄とベッドの上でいちゃつくという、なんとも気まずい内容だったことは……たぶん、墓場まで持っていく。
おわり


