澄は「そうかぁ」と言ったきり、その先を続けなかった。
いつもなら、こういう空白は少し気まずくて、なんとか埋めようとしてしまうのに。
どうしてか、このときは違った。
言葉が続かないことに、むしろほっとした。
変に励まされないことがありがたくて、胸の奥の力が少しだけ抜ける。
そのせいか、ぽつり、ぽつりと、言葉が勝手にこぼれた。
「なんかさぁ、俺、小麦とばあちゃんに悪いことしたなぁって思って」
そう言うと、澄は足元の砂利をいくつか拾い上げて、意味もなく指のあいだからざらざらと落としながら、「なんで?」と聞き返してきた。
「それがさぁ、なんでか、わかんないのよ」
わざと軽い調子でそう言って、後ろに手をつき、体重を預ける。
木の屋根越しに見える空は、まだ目を細めたくなるくらい明るい。境内のどこかでは、蝉がじりじりと鳴き続けていた。九月に入ったとはいえ、夏はまだ、しぶとく居座っているみたいだ。
「小麦のこと、載せたんだよね。SNSに」
そう口にすると、澄が砂利を落とす手を止めた。
「そうなん」
「で、コメントとか、いっぱい来て。長生きだったね、とか、幸せだったね、とか。みんな優しかったんだけど」
そこで言葉が切れる。
自分で話していても、何が引っかかっていたのか、まだうまく説明できない。
「なんか、違うよなって……」
澄はすぐには何も言わなかった。相変わらず少し先の地面を見たまま、指先で小石を転がしている。
「……違うって?」
「わかんねぇ。なんか、俺が言うことでもない気がして。みんなにそうやって言ってもらうことでもない気がして」
いったんそこで言葉を切る。声がつかえて、次が少し出にくかった。
「なのに、載せたのは俺で。なんか、小麦の死を嫌な感じで“消費”しちゃったんじゃないかって。そう思ったら、すっごい罪悪感みたいなの湧いて……」
喉の奥に、またあの苦い感じが戻ってくる。
「だから、小麦にもばあちゃんにも申し訳なくて」
「それで、投稿消したんか」
そこで初めて、澄が少しだけこっちを見た。
その言い方からして、澄も小麦の投稿を見ていたんだろう。
知られていた、と思うと、胸の奥がひやりとする。責められたわけでもないのに、自分の気まずさだけをそのまま見透かされたみたいで、俺はなんとなく視線を逸らした。
「あれやな」
澄はいったんそこで言葉を切ると、俺と同じように後ろへ手をついて座り直した。肩の位置がほとんど並ぶ。触れてはいないのに、すぐ隣に人の体温があるというだけで、妙に意識してしまう。
「うまく言えんけど。まだ、陽翔の中で整理できてなかったんちゃうかな」
「整理……小麦が……死んだこと?」
「うん」
澄は短く答えて、それから何か続きを探すみたいに、自分の耳のあたりを指でかいた。
蝉の声が、途切れず境内の上の方で鳴いている。木の屋根が落とす影の中だけが、少しだけ温度を忘れたみたいに静かだった。
「まだ整理ついてへんのに、先にみんなの言葉が来たら、変な感じするやん」
「そうなのかなぁ……」
自分で返しながら、心のどこかでは、ああ……そうなのかも、とも思う。
言われた瞬間に、完全に腑に落ちたわけじゃない。けど、少なくとも、あの薄っぺらい感じの正体には少し近づいた気がした。
「そうや。陽翔が悪いことしたとかやなくて、まだ人に渡せる話ちゃうかっただけやろ」
その言葉を、俺は黙って胸の中で反芻した。
身近な誰かが死ぬってことを、まだ自分のこととして経験したことがない。母方のじいちゃんは俺が生まれる前に亡くなっていたし、父親の方の祖父母は今も元気だ。ペットだって飼ったことがなかったから、小麦が初めてだった。
だから、あのとき感じたものが何なのか、自分でもよくわからなかったんだ。
悲しいのは確かなのに、触れた瞬間に先に来たのは怖さだった。母さんたちみたいに、泣きながらでも笑って、自然に小麦を抱き上げることもできなかった。
そういう全部が、うまく名前のつかないまま引っかかっていたのかもしれない。
「でもさぁ、俺だって、小麦のこと可愛かったんだよ」
息と一緒に漏れるみたいにそう言った途端、急に何かが込み上げてきて、自分でも少し戸惑った。
誤魔化すみたいに鼻をすすったけど、一度ぽろっと涙がこぼれたら、そこから先はうまく止められなくなった。
さっきまでどうにか喋れていたはずなのに、急に喉の奥が狭くなる。
隣で、澄がごそごそとズボンのポケットを探る気配がした。ハンカチでもあるのかと思ったけど、その手は途中でふっと止まる。
「ねぇのかよ」
「忘れたわ」
あまりにも締まらなくて、俺は泣きながらもつい笑ってしまう。
少しだけ迷ったような間があって、そのあと澄が手の甲で俺の目元を軽く拭った。
「あー、小麦、怒ってるかなぁ……」
ぐす、と鼻をすする。
「怒ってへんよ。だいじょぶやて」
「でもさ、俺のこの中途半端で、わけわかんない気持ち知ったら、きっと嫌になるよね。小麦はばあちゃんの小麦だし、俺が安易にあんな投稿するべきじゃなかった」
言葉にしているのに、うまく考えが全然まとまらない。ただ、あのとき感じた後悔だけが、いまだにそのまま残っている。
「最後、触ったときもさ。俺、怖いって思ったんだよ。小麦が死んじゃって、怖いって……」
そこまで言って、少し息を継いだ。
「あんなに可愛かったのに。毛もそのまま柔らかいし、顔もいつもとそんなに変わらないのに、もう動かなくて……」
自分で思い出した情景に、また喉が詰まる。
「そぉか」
澄はただ柔らかく相槌を返した。
「俺も……抱っこすればよかったなぁ。触ったときさぁ、毛は柔らかいままだったから」
「そうやなぁ」
ふっとまた、澄が少し先の足元あたりに視線を向ける。
そこでようやく気がつく。さっきから、ずっとそこばかり見ているのだ。
――ああ、何か見えてるのかな。
そう思ったのとほとんど同時に、澄が呟くみたいに口を開いた。
「抱っこは、嫌いやて」
はっとして、俺はすぐに澄の視線の先を追う。
「いる……の……?」
「うん、おるね。学校にいる時から付いてきとったから、何か言いたいことあるんかなって思ってた」
そこには何もない。
ただ、熱を含んだ空気が揺れて、砂利の輪郭をわずかに歪ませているだけだ。
でも澄には見えている。俺は疑いもせず確信していた。
「言いたいことって……」
何、と言う言葉を最後まで言えなかった。それは、小麦が俺のことをどんなふうに思ったのか、聞くのが少し怖かったのかもしれない。
「あんな、小麦、怒ってへんよ」
澄が最初にそう言ったのは、たぶん俺の気持ちを察したからだろう。
先に安心させるみたいにそれを告げて、それから続けた。
「ありがとうって言うてるよ」
「ありがとう……?」
なんで、わざわざ俺なんだろう。
いちばん一緒にいたばあちゃんじゃなくて。
「心配やったんやて。自分が死んだら、ばあちゃんひとりになるから。せやから、ばあちゃんのところに来てくれて、ありがとうって言うてる」
「あ……」
その瞬間、脳裏にまた茶色い毛並みが浮かんだ。
大事に大事に手入れされていたけど、かなり歳だったから、毛艶は少し落ちていた。
それでも充分ふかふかで、撫でさせてはくれるけど、しつこいとパンチしてくる。
お気に入りの橙色のクッションの上で昼寝していた姿。
ばあちゃんの足に体を押しつけていた姿。
台所の気配にだけ妙に敏感だったこと。
それから、小麦はいつも、ばあちゃんの膝の上で甘えていた。
あれは、すごく幸せそうだったと思う。
「小麦は……ばあちゃんのこと、大好きだったんだなぁ」
口にした途端、また涙がぐっと込み上げてきた。
溢れたそれが、頬を伝って首まで落ちていく。
「陽翔のことも、まあまあ好きやったって言っとる」
「なんだよそれ……」
笑うついでに、ぐすっと鼻をすする。
それから深く息を吐くと、不思議と、ずっと胸の底に沈んでいた重たいものが、少しずつ軽くなっていく気がした。
「もう少し、こっちおるって。でも、しばらくしたら多分行くって言うとる」
「そっか……」
俺に伝えたいことを伝えたから、残りの時間はばあちゃんのそばにいるのかな――そんなふうに想像する。
「澄さ……」
まだ滲んでいた涙を、制服のシャツの袖でぐいと拭った。
「ん」と澄が短く応える。
「猫語わかるの」
そう尋ねると、澄はふっと笑って座り直した。膝に腕を置いて、少し俯くみたいに首を落とす。
「言葉やないんよな。なんとなく、こう、伝わってくるというか」
「すげぇな、それ。めっちゃ不思議」
「たぶん、言いたいことがある相手やとわかるんやと思う。たまに、なにもわからん人もおるし」
「へぇ……」
ふいに、澄が顔を上げた。
それから、ゆっくりと俺に視線を向けてくる。
いつもなら、こういう空白は少し気まずくて、なんとか埋めようとしてしまうのに。
どうしてか、このときは違った。
言葉が続かないことに、むしろほっとした。
変に励まされないことがありがたくて、胸の奥の力が少しだけ抜ける。
そのせいか、ぽつり、ぽつりと、言葉が勝手にこぼれた。
「なんかさぁ、俺、小麦とばあちゃんに悪いことしたなぁって思って」
そう言うと、澄は足元の砂利をいくつか拾い上げて、意味もなく指のあいだからざらざらと落としながら、「なんで?」と聞き返してきた。
「それがさぁ、なんでか、わかんないのよ」
わざと軽い調子でそう言って、後ろに手をつき、体重を預ける。
木の屋根越しに見える空は、まだ目を細めたくなるくらい明るい。境内のどこかでは、蝉がじりじりと鳴き続けていた。九月に入ったとはいえ、夏はまだ、しぶとく居座っているみたいだ。
「小麦のこと、載せたんだよね。SNSに」
そう口にすると、澄が砂利を落とす手を止めた。
「そうなん」
「で、コメントとか、いっぱい来て。長生きだったね、とか、幸せだったね、とか。みんな優しかったんだけど」
そこで言葉が切れる。
自分で話していても、何が引っかかっていたのか、まだうまく説明できない。
「なんか、違うよなって……」
澄はすぐには何も言わなかった。相変わらず少し先の地面を見たまま、指先で小石を転がしている。
「……違うって?」
「わかんねぇ。なんか、俺が言うことでもない気がして。みんなにそうやって言ってもらうことでもない気がして」
いったんそこで言葉を切る。声がつかえて、次が少し出にくかった。
「なのに、載せたのは俺で。なんか、小麦の死を嫌な感じで“消費”しちゃったんじゃないかって。そう思ったら、すっごい罪悪感みたいなの湧いて……」
喉の奥に、またあの苦い感じが戻ってくる。
「だから、小麦にもばあちゃんにも申し訳なくて」
「それで、投稿消したんか」
そこで初めて、澄が少しだけこっちを見た。
その言い方からして、澄も小麦の投稿を見ていたんだろう。
知られていた、と思うと、胸の奥がひやりとする。責められたわけでもないのに、自分の気まずさだけをそのまま見透かされたみたいで、俺はなんとなく視線を逸らした。
「あれやな」
澄はいったんそこで言葉を切ると、俺と同じように後ろへ手をついて座り直した。肩の位置がほとんど並ぶ。触れてはいないのに、すぐ隣に人の体温があるというだけで、妙に意識してしまう。
「うまく言えんけど。まだ、陽翔の中で整理できてなかったんちゃうかな」
「整理……小麦が……死んだこと?」
「うん」
澄は短く答えて、それから何か続きを探すみたいに、自分の耳のあたりを指でかいた。
蝉の声が、途切れず境内の上の方で鳴いている。木の屋根が落とす影の中だけが、少しだけ温度を忘れたみたいに静かだった。
「まだ整理ついてへんのに、先にみんなの言葉が来たら、変な感じするやん」
「そうなのかなぁ……」
自分で返しながら、心のどこかでは、ああ……そうなのかも、とも思う。
言われた瞬間に、完全に腑に落ちたわけじゃない。けど、少なくとも、あの薄っぺらい感じの正体には少し近づいた気がした。
「そうや。陽翔が悪いことしたとかやなくて、まだ人に渡せる話ちゃうかっただけやろ」
その言葉を、俺は黙って胸の中で反芻した。
身近な誰かが死ぬってことを、まだ自分のこととして経験したことがない。母方のじいちゃんは俺が生まれる前に亡くなっていたし、父親の方の祖父母は今も元気だ。ペットだって飼ったことがなかったから、小麦が初めてだった。
だから、あのとき感じたものが何なのか、自分でもよくわからなかったんだ。
悲しいのは確かなのに、触れた瞬間に先に来たのは怖さだった。母さんたちみたいに、泣きながらでも笑って、自然に小麦を抱き上げることもできなかった。
そういう全部が、うまく名前のつかないまま引っかかっていたのかもしれない。
「でもさぁ、俺だって、小麦のこと可愛かったんだよ」
息と一緒に漏れるみたいにそう言った途端、急に何かが込み上げてきて、自分でも少し戸惑った。
誤魔化すみたいに鼻をすすったけど、一度ぽろっと涙がこぼれたら、そこから先はうまく止められなくなった。
さっきまでどうにか喋れていたはずなのに、急に喉の奥が狭くなる。
隣で、澄がごそごそとズボンのポケットを探る気配がした。ハンカチでもあるのかと思ったけど、その手は途中でふっと止まる。
「ねぇのかよ」
「忘れたわ」
あまりにも締まらなくて、俺は泣きながらもつい笑ってしまう。
少しだけ迷ったような間があって、そのあと澄が手の甲で俺の目元を軽く拭った。
「あー、小麦、怒ってるかなぁ……」
ぐす、と鼻をすする。
「怒ってへんよ。だいじょぶやて」
「でもさ、俺のこの中途半端で、わけわかんない気持ち知ったら、きっと嫌になるよね。小麦はばあちゃんの小麦だし、俺が安易にあんな投稿するべきじゃなかった」
言葉にしているのに、うまく考えが全然まとまらない。ただ、あのとき感じた後悔だけが、いまだにそのまま残っている。
「最後、触ったときもさ。俺、怖いって思ったんだよ。小麦が死んじゃって、怖いって……」
そこまで言って、少し息を継いだ。
「あんなに可愛かったのに。毛もそのまま柔らかいし、顔もいつもとそんなに変わらないのに、もう動かなくて……」
自分で思い出した情景に、また喉が詰まる。
「そぉか」
澄はただ柔らかく相槌を返した。
「俺も……抱っこすればよかったなぁ。触ったときさぁ、毛は柔らかいままだったから」
「そうやなぁ」
ふっとまた、澄が少し先の足元あたりに視線を向ける。
そこでようやく気がつく。さっきから、ずっとそこばかり見ているのだ。
――ああ、何か見えてるのかな。
そう思ったのとほとんど同時に、澄が呟くみたいに口を開いた。
「抱っこは、嫌いやて」
はっとして、俺はすぐに澄の視線の先を追う。
「いる……の……?」
「うん、おるね。学校にいる時から付いてきとったから、何か言いたいことあるんかなって思ってた」
そこには何もない。
ただ、熱を含んだ空気が揺れて、砂利の輪郭をわずかに歪ませているだけだ。
でも澄には見えている。俺は疑いもせず確信していた。
「言いたいことって……」
何、と言う言葉を最後まで言えなかった。それは、小麦が俺のことをどんなふうに思ったのか、聞くのが少し怖かったのかもしれない。
「あんな、小麦、怒ってへんよ」
澄が最初にそう言ったのは、たぶん俺の気持ちを察したからだろう。
先に安心させるみたいにそれを告げて、それから続けた。
「ありがとうって言うてるよ」
「ありがとう……?」
なんで、わざわざ俺なんだろう。
いちばん一緒にいたばあちゃんじゃなくて。
「心配やったんやて。自分が死んだら、ばあちゃんひとりになるから。せやから、ばあちゃんのところに来てくれて、ありがとうって言うてる」
「あ……」
その瞬間、脳裏にまた茶色い毛並みが浮かんだ。
大事に大事に手入れされていたけど、かなり歳だったから、毛艶は少し落ちていた。
それでも充分ふかふかで、撫でさせてはくれるけど、しつこいとパンチしてくる。
お気に入りの橙色のクッションの上で昼寝していた姿。
ばあちゃんの足に体を押しつけていた姿。
台所の気配にだけ妙に敏感だったこと。
それから、小麦はいつも、ばあちゃんの膝の上で甘えていた。
あれは、すごく幸せそうだったと思う。
「小麦は……ばあちゃんのこと、大好きだったんだなぁ」
口にした途端、また涙がぐっと込み上げてきた。
溢れたそれが、頬を伝って首まで落ちていく。
「陽翔のことも、まあまあ好きやったって言っとる」
「なんだよそれ……」
笑うついでに、ぐすっと鼻をすする。
それから深く息を吐くと、不思議と、ずっと胸の底に沈んでいた重たいものが、少しずつ軽くなっていく気がした。
「もう少し、こっちおるって。でも、しばらくしたら多分行くって言うとる」
「そっか……」
俺に伝えたいことを伝えたから、残りの時間はばあちゃんのそばにいるのかな――そんなふうに想像する。
「澄さ……」
まだ滲んでいた涙を、制服のシャツの袖でぐいと拭った。
「ん」と澄が短く応える。
「猫語わかるの」
そう尋ねると、澄はふっと笑って座り直した。膝に腕を置いて、少し俯くみたいに首を落とす。
「言葉やないんよな。なんとなく、こう、伝わってくるというか」
「すげぇな、それ。めっちゃ不思議」
「たぶん、言いたいことがある相手やとわかるんやと思う。たまに、なにもわからん人もおるし」
「へぇ……」
ふいに、澄が顔を上げた。
それから、ゆっくりと俺に視線を向けてくる。


