◇
久瀬に戻ってきた途端、思い出したように蝉が鳴き始めた。
もちろん、蝉はこの夏ずっと鳴いていたはずだ。ただ最近の東京では、どういうわけか蝉の声を聞かなかった気がする。そんなことに、今さら気づいただけの話だ。
新幹線、電車、バスを乗り継ぎ、ひぐらしの声に追い立てられるみたいに、舗装の荒い道をガタガタとスーツケースを引きながら歩く。
家に辿り着くころには、夏の日は傾いていて、あたりをオレンジ色に照らしていた。
引き戸を開けて、敷居を跨ぐ。
なんだか落ち着く感じがして、いつの間にか自分がこの家の匂いに慣れていたんだな、と気づいた。
「ただいまぁ」
家の中に声をかけながら、ひとまずスーツケースを玄関に置き、靴を脱いでかまちを上がる。
汗でベタベタの体を早くシャワーで流したいところだけど、まずはスーツケースのタイヤを拭いて、荷物を開けて洗濯物を出さないといけない。母に言われそうなことを、先回りして考える。
「ねぇ、雑巾ある?」
ひょこりと居間に顔を出すと、少しいつもと違う空気を感じた。
エアコンの効いた室内。窓際に近い畳の上に、祖母と母が寄り添うように座っている。
二人ともこちらに背を向けていて、声をかけたというのに、なかなか振り返らなかった。
「……どうしたの?」
胸の奥に、じわりと緊張が落ちる。
母がはっとしたように鼻をすすり、目元を拭ってから振り返った。
「おかえり」
いつもと違う声音だった。目が赤い。泣いていたのだとすぐにわかる。
「陽翔、こっちおいで」
振り返らないままそう言ったばあちゃんの声は、しっかりしているのに、少しだけ沈んで聞こえた。
ゆっくりと二人に歩み寄る。
そして、二人が真ん中で包み込むようにして見下ろしていたその場所に目を向けた。
もうボロボロだけど、お気に入りで、変えると落ち着かないらしい。
ばあちゃんがそう言っていた橙色のクッションの上に、茶色い毛並みが横たわっていた。
「……小麦……?」
くたりと溶けるみたいに力の抜けた身体。
少し開いた口元から小さな牙がのぞいている。
糸のように閉じられた目は、安らかな曲線を描いていて、その小さな頭を、ばあちゃんのシミの浮いた皺だらけの手が何度も何度も撫でていた。
母に手を引かれ、三人で小麦を取り囲むような位置に腰を下ろす。
「優しい顔しとるし、苦しくはなかったみたいやわ。眠って……それでそのまま……かね」
ばあちゃんが、さっきから続いている会話の延長みたいにそう言った。
「死んでる……の……?」
「そうやで。触ってみ」
そう言われたけれど、俺はなかなか小麦に手を伸ばすことができなかった。
触れて仕舞えば、そこに呼吸がなく心拍がなく、生命の温度や、魂というものがないことが、決定づけられてしまうような気がして、怖くなった。
「陽翔、撫でてあげて」
そう母に促されて、ようやくゆっくりと手を伸ばした。
小さな頭から背中へ、指先でそっとなぞる。柔らかい毛並みは、触れればわずかに沈んで、指の形に沿って戻っていく。その感触自体は、これまでと何も変わらない。
けれど、顎の下に指を差し入れた瞬間、そこで初めて、違いに気づいた。
温かくない。
それはただ、それだけのことだ。温度がないという、単純な事実。けれどその事実が、急に現実味を帯びて喉の奥までせり上がってくる。
思わず手を引っ込めた。
「不思議やなぁ。まだ毛並みも、三角の耳も、ピンクの鼻も肉球も、全部ここに残っとるのに。この中に、もう小麦はおらんのかねぇ」
ばあちゃんが、ぽつりとそんなことを言う。
「抱っこして、ええかな? 嫌がる子やったから、私なかなか抱っこできんかったんよぉ」
「おお、してやりしてやり」
一度涙を拭った母は、そんなふうにあっけらかんと言って、ばあちゃんもどこか軽い調子でうなずいた。
母はクッションごと小麦の体をそっと抱き上げる。
赤ん坊を抱くみたいに胸元へ引き寄せて、その顔を静かに覗き込んだ。
ばあちゃんも母の腕のあたりに手を伸ばして、小麦の頭を何度も何度も撫でている。
「今ごろほんとは、イヤイヤー!ってなっとるかもしれんな」
「死んどるから抵抗できへんな、小麦ちゃん。お詫びにチュールいっぱい持たせたるから、最後だけ勘弁してな」
二人はそんなことを言いながら、くすっと笑い合う。
その横で、俺は勝手に溢れてきた涙を、Tシャツの袖でこっそり拭った。
「寂しいなぁ、小麦……。おらんようになると、寂しいよぉ」
母が小麦をぎゅっと抱き寄せて、柔らかく額を押しつける。
「やなぁ。でもな、ほら、寂しいっていうのは、楽しかったってことやから」
「せやなぁ」
「ありがとうねぇ、小麦ちゃん。ありがとう。大好きやでぇ」
そう言いながら、ばあちゃんは皺だらけの手で自分の目元を拭った。
小麦の身体は、もう一晩だけこの家で眠った。
翌日、母が車を出して、ばあちゃんと一緒に隣町のペット専用の火葬場へ連れて行った。
戻ってきたとき、小麦は小さな、本当に小さな骨壺の中に収められていた。
ばあちゃんはそれを、しばらく胸に抱いていた。
「小麦より先には死なんのが目標やったからな。叶ったわ」
「お母さんはあと三十年は生きそうやね」
冗談めかして言うばあちゃんに、母が軽く言い返す。
そして小麦の骨は、俺が生まれるより前に亡くなったらしいじいちゃんの仏壇の横に置かれた。
線香と、猫缶と、おやつをたっぷり供えられて、骨になった小麦は、これで満足しているのだろうか。
部屋のベッドに寝転がりながら、スマートフォンの写真フォルダを見返す。
寝そべってばかりの猫だったけど、どうにか一番可愛い角度で撮ろうとしていた自分の工夫の痕跡が、いくつも残っていた。
猫は明るいところだと瞳孔が細くなるから、少し暗い部屋で撮った方が可愛い顔になる、とか。
ふてぶてしい顔でも、それはそれで愛嬌があって可愛い、とか。
そんなことを考えながら撮っていた写真が、フォルダの中に並んでいる。
俺はその中からいくつか選んで、SNSに投稿した。
『昨日、小麦が亡くなりました。
元々は野良だったそうなのですが、ばあちゃん曰く、19歳くらいだったそうです。
俺より歳上の先輩』
投稿してから数分もしないうちに、リアクションが返ってくる。
知らない人からの「いいね」と、短いコメントがいくつか並び始めた。
――「19歳すごいですね。小麦ちゃん、長生きでしたね」
――「可愛い猫さんですね。ご冥福をお祈りします」
――「きっと幸せな猫生でしたね」
――「うちの猫も17歳でした。寂しいですよね」
――「写真の顔がすごく穏やかで可愛いです」
画面の下に、ぽつぽつと通知が増えていく。
それを眺めながら、どうしてか、ああ、間違えたな、と思った。
どの言葉も、薄っぺらく感じてしまう。
でもそれは、コメントをくれた相手のせいじゃない。
たぶん、俺自身のせいだ。
小麦にもばあちゃんにも、なんだか自分がとても悪いことをしたような気分になって、苦いものが喉の奥に込み上げた。
画面に増えていく反応を、ただぼんやりと眺める。
そのまま一晩だけ、躊躇した。
そして翌朝。
夏休み最後の日。
俺は、小麦の死を報告したその投稿を、SNSから削除した。
久瀬に戻ってきた途端、思い出したように蝉が鳴き始めた。
もちろん、蝉はこの夏ずっと鳴いていたはずだ。ただ最近の東京では、どういうわけか蝉の声を聞かなかった気がする。そんなことに、今さら気づいただけの話だ。
新幹線、電車、バスを乗り継ぎ、ひぐらしの声に追い立てられるみたいに、舗装の荒い道をガタガタとスーツケースを引きながら歩く。
家に辿り着くころには、夏の日は傾いていて、あたりをオレンジ色に照らしていた。
引き戸を開けて、敷居を跨ぐ。
なんだか落ち着く感じがして、いつの間にか自分がこの家の匂いに慣れていたんだな、と気づいた。
「ただいまぁ」
家の中に声をかけながら、ひとまずスーツケースを玄関に置き、靴を脱いでかまちを上がる。
汗でベタベタの体を早くシャワーで流したいところだけど、まずはスーツケースのタイヤを拭いて、荷物を開けて洗濯物を出さないといけない。母に言われそうなことを、先回りして考える。
「ねぇ、雑巾ある?」
ひょこりと居間に顔を出すと、少しいつもと違う空気を感じた。
エアコンの効いた室内。窓際に近い畳の上に、祖母と母が寄り添うように座っている。
二人ともこちらに背を向けていて、声をかけたというのに、なかなか振り返らなかった。
「……どうしたの?」
胸の奥に、じわりと緊張が落ちる。
母がはっとしたように鼻をすすり、目元を拭ってから振り返った。
「おかえり」
いつもと違う声音だった。目が赤い。泣いていたのだとすぐにわかる。
「陽翔、こっちおいで」
振り返らないままそう言ったばあちゃんの声は、しっかりしているのに、少しだけ沈んで聞こえた。
ゆっくりと二人に歩み寄る。
そして、二人が真ん中で包み込むようにして見下ろしていたその場所に目を向けた。
もうボロボロだけど、お気に入りで、変えると落ち着かないらしい。
ばあちゃんがそう言っていた橙色のクッションの上に、茶色い毛並みが横たわっていた。
「……小麦……?」
くたりと溶けるみたいに力の抜けた身体。
少し開いた口元から小さな牙がのぞいている。
糸のように閉じられた目は、安らかな曲線を描いていて、その小さな頭を、ばあちゃんのシミの浮いた皺だらけの手が何度も何度も撫でていた。
母に手を引かれ、三人で小麦を取り囲むような位置に腰を下ろす。
「優しい顔しとるし、苦しくはなかったみたいやわ。眠って……それでそのまま……かね」
ばあちゃんが、さっきから続いている会話の延長みたいにそう言った。
「死んでる……の……?」
「そうやで。触ってみ」
そう言われたけれど、俺はなかなか小麦に手を伸ばすことができなかった。
触れて仕舞えば、そこに呼吸がなく心拍がなく、生命の温度や、魂というものがないことが、決定づけられてしまうような気がして、怖くなった。
「陽翔、撫でてあげて」
そう母に促されて、ようやくゆっくりと手を伸ばした。
小さな頭から背中へ、指先でそっとなぞる。柔らかい毛並みは、触れればわずかに沈んで、指の形に沿って戻っていく。その感触自体は、これまでと何も変わらない。
けれど、顎の下に指を差し入れた瞬間、そこで初めて、違いに気づいた。
温かくない。
それはただ、それだけのことだ。温度がないという、単純な事実。けれどその事実が、急に現実味を帯びて喉の奥までせり上がってくる。
思わず手を引っ込めた。
「不思議やなぁ。まだ毛並みも、三角の耳も、ピンクの鼻も肉球も、全部ここに残っとるのに。この中に、もう小麦はおらんのかねぇ」
ばあちゃんが、ぽつりとそんなことを言う。
「抱っこして、ええかな? 嫌がる子やったから、私なかなか抱っこできんかったんよぉ」
「おお、してやりしてやり」
一度涙を拭った母は、そんなふうにあっけらかんと言って、ばあちゃんもどこか軽い調子でうなずいた。
母はクッションごと小麦の体をそっと抱き上げる。
赤ん坊を抱くみたいに胸元へ引き寄せて、その顔を静かに覗き込んだ。
ばあちゃんも母の腕のあたりに手を伸ばして、小麦の頭を何度も何度も撫でている。
「今ごろほんとは、イヤイヤー!ってなっとるかもしれんな」
「死んどるから抵抗できへんな、小麦ちゃん。お詫びにチュールいっぱい持たせたるから、最後だけ勘弁してな」
二人はそんなことを言いながら、くすっと笑い合う。
その横で、俺は勝手に溢れてきた涙を、Tシャツの袖でこっそり拭った。
「寂しいなぁ、小麦……。おらんようになると、寂しいよぉ」
母が小麦をぎゅっと抱き寄せて、柔らかく額を押しつける。
「やなぁ。でもな、ほら、寂しいっていうのは、楽しかったってことやから」
「せやなぁ」
「ありがとうねぇ、小麦ちゃん。ありがとう。大好きやでぇ」
そう言いながら、ばあちゃんは皺だらけの手で自分の目元を拭った。
小麦の身体は、もう一晩だけこの家で眠った。
翌日、母が車を出して、ばあちゃんと一緒に隣町のペット専用の火葬場へ連れて行った。
戻ってきたとき、小麦は小さな、本当に小さな骨壺の中に収められていた。
ばあちゃんはそれを、しばらく胸に抱いていた。
「小麦より先には死なんのが目標やったからな。叶ったわ」
「お母さんはあと三十年は生きそうやね」
冗談めかして言うばあちゃんに、母が軽く言い返す。
そして小麦の骨は、俺が生まれるより前に亡くなったらしいじいちゃんの仏壇の横に置かれた。
線香と、猫缶と、おやつをたっぷり供えられて、骨になった小麦は、これで満足しているのだろうか。
部屋のベッドに寝転がりながら、スマートフォンの写真フォルダを見返す。
寝そべってばかりの猫だったけど、どうにか一番可愛い角度で撮ろうとしていた自分の工夫の痕跡が、いくつも残っていた。
猫は明るいところだと瞳孔が細くなるから、少し暗い部屋で撮った方が可愛い顔になる、とか。
ふてぶてしい顔でも、それはそれで愛嬌があって可愛い、とか。
そんなことを考えながら撮っていた写真が、フォルダの中に並んでいる。
俺はその中からいくつか選んで、SNSに投稿した。
『昨日、小麦が亡くなりました。
元々は野良だったそうなのですが、ばあちゃん曰く、19歳くらいだったそうです。
俺より歳上の先輩』
投稿してから数分もしないうちに、リアクションが返ってくる。
知らない人からの「いいね」と、短いコメントがいくつか並び始めた。
――「19歳すごいですね。小麦ちゃん、長生きでしたね」
――「可愛い猫さんですね。ご冥福をお祈りします」
――「きっと幸せな猫生でしたね」
――「うちの猫も17歳でした。寂しいですよね」
――「写真の顔がすごく穏やかで可愛いです」
画面の下に、ぽつぽつと通知が増えていく。
それを眺めながら、どうしてか、ああ、間違えたな、と思った。
どの言葉も、薄っぺらく感じてしまう。
でもそれは、コメントをくれた相手のせいじゃない。
たぶん、俺自身のせいだ。
小麦にもばあちゃんにも、なんだか自分がとても悪いことをしたような気分になって、苦いものが喉の奥に込み上げた。
画面に増えていく反応を、ただぼんやりと眺める。
そのまま一晩だけ、躊躇した。
そして翌朝。
夏休み最後の日。
俺は、小麦の死を報告したその投稿を、SNSから削除した。


