◇
教室の前まで来て、中の様子を軽く窺った。
朝のホームルーム前で、もう何人かは席についている。廊下にもまだ人の流れがあって、教室の内外のざわめきが混ざり合っていた。
その中に、澄の姿を探す。
窓際の列に視線を滑らせると、すぐにその姿が目に入った。
目が合う前に扉の影へ身を引き、背中を壁に貼り付ける。そこで一度、深く息を吸って、胸に手を当てた。
週明けの月曜日だ。
例のお泊まり会から、日曜日を挟んで二日。
俺はいまだに、あの夜のことをうまく処理できないままでいる。
あの時の、あの……唇がふにっと触れたやつ。あれは、どう考えても間違って当たったとかじゃなくて、意図的なものだった。
懐かれてるなという自覚はあったし、距離が近いなとは思っていたけど、まさかあんなことになるなんて。
また、ちらりと目元だけで教室の中を覗き込む。
澄は相変わらず、眠たげな目でどこともつかない一点をぼんやりと見つめていた。
なんとなく、こうしてみんなの中にいる澄を外から眺めるのは初めてかもしれない。
このクラスは温厚で、いいやつが多い。
それでも、こうして見ると澄はみんなの輪からほんの少しだけ外れている。
仲間外れにされているわけでも、避けられているわけでもない。
ただ、どこまで踏み込んでいいのか分からないみたいに、みんなが無意識に距離を測っている。
――みんなと対等じゃない気がする。
澄が言っていたあの違和感は、たぶんこういうことなんだろう。
そして、その一端は、澄自身にもある気がする。
澄のほうが先に、みんなとの違いを感じて一歩引く。だから、なんとなく周りも無意識に踏み込めないんじゃないだろうか。
そうして生まれたずれが整わないまま、このクラスの距離として定着している気がする。
そんな中で、唯一、事故前の澄を知らない俺だから、澄は距離を感じずに俺にだけ心を開いた。
でも、それってなんだ。友達として好感を持たれているのとは、少し違う気もする。
……いや、でも澄ってちょっと変なやつだし。
ちょっと浮かれて、妙な行動に出てしまっただけなのかもしれない。
たとえば、あいつも吊り橋効果で、単なる友情が変な方向にシフトしてしまって……だから、キ、キス……なんて……
「なにしてるん? 入らんの?」
「――ヒャッ!」
思わず甲高い悲鳴を漏らし、慌てて口元を押さえる。
振り返ると、登校してきたらしい和泉さんが、きょとんと首を傾げていた。
「あ、ご、ごめん。ここ邪魔だよね。入る入る」
慌てて取り繕って教室を向き直る。
変な汗をかきながら顔を上げると、窓際の澄が俺を見つけたようだった。
表情こそ大きくは動かないけれど、目を逸らさない。
なぜだか、俺を待ち構えているみたいな感じがする。
気まずさを抱えたまま、できるだけ平静を装って教室を進む。
俺の席は、澄のひとつ前だ。
「陽翔、おはよう」
「お、おう……」
ぎこちなく頷きながらカバンを置き、席に着く。
気まずい。
だって、俺とこいつは、つい二日前に、キ……キス……を。
「なぁ、なぁ」
肩越しに声をかけられて、びくっと肩が揺れる。
動揺しているのはどう見ても俺だけで、澄は相変わらずだ。
「な、なに……」
視線を泳がせながら返す。
「この前のことなんやけど」
「……へっ!?」
また肩が跳ねた。
さすがに俺の様子が妙なのか、澄が少し不思議そうに瞬く。
「こ、この前って?」
「ほら、うちに泊まりにきた時――んむっ!」
咄嗟に澄の口を手のひらで塞いだ。
こんなところで何言おうとしてんだ、こいつ。
男同士でキスした、なんて、クラスのやつに聞かれたらどうすんだ。
そんなことを考えていたら、手のひらに澄の唇が触れて、余計に心臓が跳ねる。
思わず手を引っ込め、声を落とした。
「今、その話はやめてくれ」
「……なんで?」
澄はまた瞬きながら首を傾げる。
「なんでって、おま、おまえ……」
口は開くのに、言葉が出てこない。
前後の席という距離で、視線が合う。
そのまま、俺の目は澄の唇に吸い寄せられてしまった。
つい、思い出してしまう。
その瞬間、一気に熱くなって、俺は思わず両手で顔を覆い隠した。
ちょうどそのタイミングで担任が教室に入ってきた。
教室に広がっていた雑談が一斉に途切れ、みんなが席につき、俺と澄の会話も、そのままうやむやになった。
ダメだ。どう取り繕おうとしても普通にできない。
今も背中に感じる澄の気配に、やたらとドギマギしてしまう。
この動揺を、誰かに悟られているんじゃないか。そんな気がしてならない。
やましいことがばれているんじゃないかと、錯覚してしまう。あの感じだ。
やましいことって、なんだ。
澄とキスしてしまったこと。
……いや、そうじゃない。
それよりも、そのことに対して、今自分が抱いているこの感情。
それがうまく整理できない。
ただ、まっとうなものじゃない気がする。
「まっとうじゃない」というのは、人から見たら普通じゃないと思われてしまうような。
そんなふうに、くだぐだと考えを巡らせていると、前の席からプリントが回ってきた。
……しまった。全然先生の話を聞いていなかった。
内容をざっと見ると、夏休みの過ごし方だとか進路希望だとか、そういうやつだ。
万が一にも手が触れるのを避けたくて、俺は前を向いたまま、プリントの端をつまんだ。
そのまま肩越しに、後ろへ差し出す。
……わからん。
澄は、俺のことが好きってことなのか。
でも、別に告られたわけじゃないしな。
やっぱり、距離感を間違えたノリだったって処理するのが一番いい気がする。
けど、本当にそうなのか。
そうじゃない気がしてるから、俺はこんなに動揺してるんじゃないのか。
もしそうだとしたら、どう受け止めればいいんだろう。
……いや、無理だろ。受け止めるとか。
ただでさえこんな閉塞的な田舎で、変な噂でも立ったらどうすんだよ。
無理だ。
無理無理。
絶対に無理。
「やっぱり今日の陽翔めっちゃ変よね?」
のんびりとした声音が、悶々としていた思考を引き戻した。
隣にいるのは和泉さんだ。
授業を終えた放課後。
澄から逃げるように教室を出て、廊下の陰でしばらくやり過ごそうとしていたところに、和泉さんが声をかけてきた。
「変? そう? な、なにが?」
「うーん、なんか、今日、澄のこと避けてない?」
その通りだ。
俺は今日、教室移動も、昼休みも、そして放課後も、澄を徹底的に避けていた。
和泉さんが気づくくらいだから、澄本人だって気づいているかもしれない。
でも、どうしても普通にできない。
だって、もし澄が俺のことを好きなんだとしたら――
今まで通りに接していたら、なんか変なことになってしまうんじゃないかって気がする。
だったら、今のうちに距離を取ったほうがいい。
……でも、別に嫌いなわけじゃない。
そのへんの気持ちが自分でもうまく整理できなくて、結局、変な反応だけが先に出てしまった。
だけど、「避けてる」なんて和泉さんに言ったら、当然理由を聞かれるだろう。
だから俺は、「そんなことないよ」とだけ答えた。
「そうかなぁ。この前まで、ずっとイチャイチャしてたのに」
「い、イチャイチャなんて……!」
思わず大きくなった声を、一度息を吐いて押さえ込む。
「イチャイチャなんて、別にしてないよ」
「そう? でも抱きついたり、ご飯食べさせたりしてたやん?」
そこから、なんとなくの流れで和泉さんと一緒に昇降口へ向かう。
靴を履き替えながら、雑談が続いた。
「なんか、澄があんなふうに人に懐くの珍しいから、みんな『良かったねぇ』って言ってたんよ」
和泉さんの言い方は、悪気もないし、嫌な感じもしない。
でも、やっぱり、クラスのみんなの澄に対する見方は、どこか対等じゃないというか……保護対象みたいに感じられる。
教室の前まで来て、中の様子を軽く窺った。
朝のホームルーム前で、もう何人かは席についている。廊下にもまだ人の流れがあって、教室の内外のざわめきが混ざり合っていた。
その中に、澄の姿を探す。
窓際の列に視線を滑らせると、すぐにその姿が目に入った。
目が合う前に扉の影へ身を引き、背中を壁に貼り付ける。そこで一度、深く息を吸って、胸に手を当てた。
週明けの月曜日だ。
例のお泊まり会から、日曜日を挟んで二日。
俺はいまだに、あの夜のことをうまく処理できないままでいる。
あの時の、あの……唇がふにっと触れたやつ。あれは、どう考えても間違って当たったとかじゃなくて、意図的なものだった。
懐かれてるなという自覚はあったし、距離が近いなとは思っていたけど、まさかあんなことになるなんて。
また、ちらりと目元だけで教室の中を覗き込む。
澄は相変わらず、眠たげな目でどこともつかない一点をぼんやりと見つめていた。
なんとなく、こうしてみんなの中にいる澄を外から眺めるのは初めてかもしれない。
このクラスは温厚で、いいやつが多い。
それでも、こうして見ると澄はみんなの輪からほんの少しだけ外れている。
仲間外れにされているわけでも、避けられているわけでもない。
ただ、どこまで踏み込んでいいのか分からないみたいに、みんなが無意識に距離を測っている。
――みんなと対等じゃない気がする。
澄が言っていたあの違和感は、たぶんこういうことなんだろう。
そして、その一端は、澄自身にもある気がする。
澄のほうが先に、みんなとの違いを感じて一歩引く。だから、なんとなく周りも無意識に踏み込めないんじゃないだろうか。
そうして生まれたずれが整わないまま、このクラスの距離として定着している気がする。
そんな中で、唯一、事故前の澄を知らない俺だから、澄は距離を感じずに俺にだけ心を開いた。
でも、それってなんだ。友達として好感を持たれているのとは、少し違う気もする。
……いや、でも澄ってちょっと変なやつだし。
ちょっと浮かれて、妙な行動に出てしまっただけなのかもしれない。
たとえば、あいつも吊り橋効果で、単なる友情が変な方向にシフトしてしまって……だから、キ、キス……なんて……
「なにしてるん? 入らんの?」
「――ヒャッ!」
思わず甲高い悲鳴を漏らし、慌てて口元を押さえる。
振り返ると、登校してきたらしい和泉さんが、きょとんと首を傾げていた。
「あ、ご、ごめん。ここ邪魔だよね。入る入る」
慌てて取り繕って教室を向き直る。
変な汗をかきながら顔を上げると、窓際の澄が俺を見つけたようだった。
表情こそ大きくは動かないけれど、目を逸らさない。
なぜだか、俺を待ち構えているみたいな感じがする。
気まずさを抱えたまま、できるだけ平静を装って教室を進む。
俺の席は、澄のひとつ前だ。
「陽翔、おはよう」
「お、おう……」
ぎこちなく頷きながらカバンを置き、席に着く。
気まずい。
だって、俺とこいつは、つい二日前に、キ……キス……を。
「なぁ、なぁ」
肩越しに声をかけられて、びくっと肩が揺れる。
動揺しているのはどう見ても俺だけで、澄は相変わらずだ。
「な、なに……」
視線を泳がせながら返す。
「この前のことなんやけど」
「……へっ!?」
また肩が跳ねた。
さすがに俺の様子が妙なのか、澄が少し不思議そうに瞬く。
「こ、この前って?」
「ほら、うちに泊まりにきた時――んむっ!」
咄嗟に澄の口を手のひらで塞いだ。
こんなところで何言おうとしてんだ、こいつ。
男同士でキスした、なんて、クラスのやつに聞かれたらどうすんだ。
そんなことを考えていたら、手のひらに澄の唇が触れて、余計に心臓が跳ねる。
思わず手を引っ込め、声を落とした。
「今、その話はやめてくれ」
「……なんで?」
澄はまた瞬きながら首を傾げる。
「なんでって、おま、おまえ……」
口は開くのに、言葉が出てこない。
前後の席という距離で、視線が合う。
そのまま、俺の目は澄の唇に吸い寄せられてしまった。
つい、思い出してしまう。
その瞬間、一気に熱くなって、俺は思わず両手で顔を覆い隠した。
ちょうどそのタイミングで担任が教室に入ってきた。
教室に広がっていた雑談が一斉に途切れ、みんなが席につき、俺と澄の会話も、そのままうやむやになった。
ダメだ。どう取り繕おうとしても普通にできない。
今も背中に感じる澄の気配に、やたらとドギマギしてしまう。
この動揺を、誰かに悟られているんじゃないか。そんな気がしてならない。
やましいことがばれているんじゃないかと、錯覚してしまう。あの感じだ。
やましいことって、なんだ。
澄とキスしてしまったこと。
……いや、そうじゃない。
それよりも、そのことに対して、今自分が抱いているこの感情。
それがうまく整理できない。
ただ、まっとうなものじゃない気がする。
「まっとうじゃない」というのは、人から見たら普通じゃないと思われてしまうような。
そんなふうに、くだぐだと考えを巡らせていると、前の席からプリントが回ってきた。
……しまった。全然先生の話を聞いていなかった。
内容をざっと見ると、夏休みの過ごし方だとか進路希望だとか、そういうやつだ。
万が一にも手が触れるのを避けたくて、俺は前を向いたまま、プリントの端をつまんだ。
そのまま肩越しに、後ろへ差し出す。
……わからん。
澄は、俺のことが好きってことなのか。
でも、別に告られたわけじゃないしな。
やっぱり、距離感を間違えたノリだったって処理するのが一番いい気がする。
けど、本当にそうなのか。
そうじゃない気がしてるから、俺はこんなに動揺してるんじゃないのか。
もしそうだとしたら、どう受け止めればいいんだろう。
……いや、無理だろ。受け止めるとか。
ただでさえこんな閉塞的な田舎で、変な噂でも立ったらどうすんだよ。
無理だ。
無理無理。
絶対に無理。
「やっぱり今日の陽翔めっちゃ変よね?」
のんびりとした声音が、悶々としていた思考を引き戻した。
隣にいるのは和泉さんだ。
授業を終えた放課後。
澄から逃げるように教室を出て、廊下の陰でしばらくやり過ごそうとしていたところに、和泉さんが声をかけてきた。
「変? そう? な、なにが?」
「うーん、なんか、今日、澄のこと避けてない?」
その通りだ。
俺は今日、教室移動も、昼休みも、そして放課後も、澄を徹底的に避けていた。
和泉さんが気づくくらいだから、澄本人だって気づいているかもしれない。
でも、どうしても普通にできない。
だって、もし澄が俺のことを好きなんだとしたら――
今まで通りに接していたら、なんか変なことになってしまうんじゃないかって気がする。
だったら、今のうちに距離を取ったほうがいい。
……でも、別に嫌いなわけじゃない。
そのへんの気持ちが自分でもうまく整理できなくて、結局、変な反応だけが先に出てしまった。
だけど、「避けてる」なんて和泉さんに言ったら、当然理由を聞かれるだろう。
だから俺は、「そんなことないよ」とだけ答えた。
「そうかなぁ。この前まで、ずっとイチャイチャしてたのに」
「い、イチャイチャなんて……!」
思わず大きくなった声を、一度息を吐いて押さえ込む。
「イチャイチャなんて、別にしてないよ」
「そう? でも抱きついたり、ご飯食べさせたりしてたやん?」
そこから、なんとなくの流れで和泉さんと一緒に昇降口へ向かう。
靴を履き替えながら、雑談が続いた。
「なんか、澄があんなふうに人に懐くの珍しいから、みんな『良かったねぇ』って言ってたんよ」
和泉さんの言い方は、悪気もないし、嫌な感じもしない。
でも、やっぱり、クラスのみんなの澄に対する見方は、どこか対等じゃないというか……保護対象みたいに感じられる。


