君ってちょっと怪異より不穏

死んだ、って。
もし目の前の澄が幽霊だとしたら、俺以外にもこの町の誰もがこいつを認識しているのは変だ。それはさすがに、俺の知っている幽霊とは違う。

念のため、しがみつく澄を引き剥がし、その頬を軽くつまんでみる。ちゃんとした感触が指に伝わった。

「生きてんじゃん」

「うん……」

つねられたまま、澄は小さく頷く。

「でも、死んだのは事実やねん。おれ、小五の時、夜宮の石段から落ちて、一回死んだんよ」

「そ、それって……例えば心肺停止的なのから、生き返ったってこと? そのぉ、ほら、心臓マッサージとかで?」

こくり、と澄が頷く。

それでようやく腑に落ちた。つまり、死の淵まで行って、一時は心臓が止まったけど、結局助かったということだ。母が言っていた事故というのは、その話なのだろう。

ただ、ひとつ引っかかる。確かに大きな出来事ではある。でも、母の言い方にはもう少し含みがあった気がする。
だいたい、話し方は重かったけど、それだけでなんで澄は俺が怖がると思ったのだろう。
この話、まだ続きがあるのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。

「それでな、俺、死にかけたから、意識なくしてるやん?」

「う、うん……」

「でも、俺の感覚だとそんなに時間経ってないんよ。石段から落ちて、あ、やべってなって、めっちゃ痛くて、兄貴とかが大騒ぎしてるのがなんとなく聞こえて、それで……」

「そ、それで……?」

先が読めなくて、俺は思わず息を止めた。

「目、覚ましたん。病院で」

「お、おう……」

「そしたらな、めっちゃ怖いで」

「なんだよ、早く言えよ」

もったいぶるなと、また布団の中で軽く足を蹴る。

「二年、経ってたん」

「……うん。……うん?」

一瞬意味がつかめず、俺は眉を上げる。

「めっちゃ怖いやろ? 俺、石段から落ちて二年後にタイムスリップしたん」

「いや……それって……」

澄の感覚からすれば、そうなるのかもしれない。けれど実際は、石段から落ちて死の淵をさまよったあと、二年間も目を覚まさなかったということらしい。

……確かに、それは怖い。本人にとっても、家族にとっても。今はこうして話せているけど、当時は生きた心地がしなかっただろう。

でもやっぱり、疑問だ。

「なんで、それで俺が澄のこと怖がると思ったの?」

そう尋ねると、澄は「うん……」と小さく頷いてから、少しだけためらいがちに口を開いた。
 
「みんな言うん、目を覚ました後の俺と話した人が……」

「な、なんて?」

「……なんか、別の人みたいやって、怖いって言う人もおった」

「え……」

「あまりにも色んな人に言われて。同級生らも悪気はなかったんやろうけど、別人が乗り移ったんやろってからかってきたりして」

それで、だんだん自分が本当に自分なのか分からなくなって、精神的にも不安定になっていったのだと澄は言う。
 
「そんで、しかもさ。ついこの前まで小学生やったはずやのに、なんやみんな制服着とるし、なんなら声ちょっと低かったり、ヒゲ生えかけてるやつもおるやろ? もうわけわからんくて。そんで、一時期うまく学校行かれへんかったり、誰ともちゃんと話せへんかったりしてん」

ああ、なるほど。だから澄の母親は、俺と親しくなったことをあんなにも大袈裟に喜んでたのか。 

「二年間のブランクってさ、この年やと大きいやん? だから、なんとなくみんなと俺、対等じゃない気がするんよ。それは今もそうで。そんでな、それが本当に二年遅れてるからなんか、それとも俺が俺じゃないからなんか、わからんくて」

同級生たちの態度を思い出した。
澄の話を聞いてからだと妙に腑に落ちる。揶揄っているわけでも、露骨に避けているわけでもない。けれど、どこかで気を遣いながら、一定の距離を保っているような空気がある。腫れ物扱いというほどではないが、そのわずかな違和感は、確かに俺も感じていた。

「それってさ……今も?」

「ん?」

「今も、澄は自分が自分なのかわかんねぇの?」

そう尋ねると、澄は少し視線を外し、天井のほうを見た。
何と言おうか考えているのだろう。その仕草を見て、ふと思い出す。澄が『何か』を見ているように見えることには、かなり最初から気づいていた。もしかして、それも事故がきっかけなのだろうか。だから人が変わったように見えたとか。そう考えると、辻褄が合う。

聞いてみたら、澄は答えるだろうか。前に聞いたときは見えないと言っていたけど、あれは嘘な気がする。

「どうやろな?」

声だけでは、冗談なのか本気なのか、判別がつかない。

「でもな、俺、すごいことに気づいてん」

「なに?」

少し澄の声の調子が明るくなる。
相槌を返しながら、なんとなく子どもの一日の報告を聞く母親みたいな気分になった。

「陽翔はちゃうねん」

「……ん?」

「だって、陽翔は事故の前の俺のこと知らんやろ?」

「まぁ」

「やからな。陽翔の前におる俺は、これが最初で最後やねん。比べるもんがないやろ?」

少し間を置いて、澄は続ける。

「やから、陽翔の前の俺は、絶対に俺やねん。間違いなく俺なんよ。意味わかる?」

ああ、それでか。
澄がやたら俺に懐いた理由はそれだ。俺の前では、自分が揺らぐ不安がない。事故前を知っている誰かと違って、俺は比較しない。だから、俺といると余計な緊張をせずに済むのだろう。

ずいぶん繊細なやつだな、とも思う。でも、ここまでの経緯を聞けば、それも無理はない気がする。

「だからな、俺……陽翔が久瀬に来てくれたん、めっちゃ嬉しい」 

眠たげな目元が細まり、澄がわずかに口角を上げる。真正面で向かい合ったままそんなことを言われたら、照れるなというほうが無理だ。

けれど、このやたら息苦しい鼓動の速さが、単に恥ずかしさのせいだけなのかは、よく分からない。ここは暗くて、しかも怖い。相変わらず俺の脳はどこか誤作動を起こしている気がする。

不意に、澄の手のひらが頬へ伸びてきた。思わずビクッと体が揺れる。
少しだけためらう気配があって、それでも結局、澄は俺の頬に手を置いた。

なんだこれ。
鳩尾の奥が妙に落ち着かない。
同級生の友達に、しかも男相手に、抱いてはいけない種類の感覚のような気がする。

踏み越えてくるな、と思う。でも、澄はやたらと素直で、妙に純粋だ。もしかしたらその辺は小学五年生で止まっているのかもしれない。そんな無理やりな理屈をこじつけて、俺はその手の温度を受け入れていた。

「これ、なんやろ」
 
やたらと抑えた声で言うから、なんだかどぎまぎしてしまう。俺は、必死に動揺を押し隠しながら「何が」
と小さく尋ねた。

「俺な、陽翔みてると、胸のこの辺むずがゆくなるんよ。そんでな、くっつくやろ? そうすると、安心するのに落ち着かなくなる」

もう一方の手が布団の中で俺の手を掴む。そのまま引き寄せられ、澄は俺の手を自分の胸元に当てた。
 
すごい、生きてる。
信じられないくらい明確に鼓動が感じ取れた。

「この気持ちなんやと思う?」

それは……恋なのでは。
そう、口走りそうになり、俺は喉奥で言葉を止める。

「サナコの時もさ、めっちゃ心臓鳴ったんよ。手繋いだり、抱きついてきたりしたやろ? あん時、すごかった」

そう言って、澄がわずかに首を傾げながら、覗き込むように顔を寄せてくる。

いやいや、だめだろ。近すぎる。もう少しで鼻が触れそうだ。

「いや……あれは吊り橋効果だろ」

どうにか絞り出した声は、わずかに上ずってしまった。

「吊り橋?」

「そ、そう……恐怖とか緊張で心拍数が上がるだろ? それを脳が相手への好意だと勘違いする、みたいなやつ」

「へぇ」

澄が少し視線を落とす。その目線が俺の唇のあたりを追っている気がして、思わず顎を引いた。

「陽翔もなってる?」

「へ……」

「今、怖いん?」

そう聞かれて、俺は首を横に振る。怖がらないでほしいと言われたばかりだし、それにこれは違う。恐怖とは、はっきり別物だ。

「ほんまに? 怖くない?」

頬に置かれていた澄の手が、ゆっくりと俺の胸元へ落ちる。

ああ、だめだ。気づかれる。

「じゃあ、なんで、めっちゃドキドキしてるん?」

言い訳ができない。

夜の暗さに溶け込むほど黒いのに、なぜか澄の瞳がはっきりと俺を捉えているのがわかる。近いからだ、と気づいた瞬間、ふに、と柔らかい感触が唇に触れた。
 
「な、なん……」

声にならないまま、体が固まる。

「言うたやろ。約束破ったらチュウやで」
 
「は……」
 
「怖がったら、チュウ」
 
「なに……」
 
「吊り橋効果なんやろ? これ?」
 
するっと澄の手が俺の胸元、心臓のあたりを撫でた。思わず、またビクッと体が跳ねる。
 
「ほんまに怖がりやなぁ」と澄が笑った。 

「ああ、でも俺、吊り橋効果好きかもしれん」

そう言って、ぎゅっとと両腕で抱き寄せられた。澄は俺の心臓の音を聞こうとするみたいに、その場所に耳を押し当てている。
 
「めっちゃ胸のとこムズムズして気持ちええわ」

なんだよそれ。と、俺は言葉にできないまま自分の目元に手のひらを当てた。
 
くっつかれたまま、心拍は一向に落ち着かない。
それなのに澄は、その音を聞きながら瞼を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えはじめる。
こいつ、このまま寝る気だ。
 
僅かな抵抗で少し襟のところを引っ張ってみたけど意味がなかった。
何よりも、俺自身がこの状況を、嫌だと思っていないから困る。

「どうすんだよ……これ……」
 
澄の呼吸はどんどん深くなるのに、俺だけが取り残されたみたいに落ち着かない。
小さく呟いた声は、参集殿のしんとした夜に吸い込まれていった。