比翼連理 冷宮皇后は皇帝陛下の最愛

 (ガオ)貴妃が後宮に来てから一ヶ月。
 彼女は翡翠宮に、豆汁事件から顔を出していない。しかし。

「はあ、まったく」

 誰かの吐瀉物が時折、翡翠宮の入り口にまかれるようになったり、動物の死骸を置かれたり、冷月霏(ランユエフェイ)の悪口がびっしり書かれた紙が放り込まれたりするようになった。
 時折、すれ違う女官や宮女、宦官たちからの悪口も増えた気がしてならない。高貴妃の仕業だろう。
 今日は吐瀉物がまかれていた。
 それを李風(リーフォン)と片付けていた。
 李風が一人でやる、と主張したのだが、冷月霏は無理やり自分も片付けに参加したのだ。
 一通り、綺麗にした後で、李風が汲んできてくれた水で洗い流す。

(このくらい綺麗にすれば十分よね)
 
 そんなことを思っていると、男の声が突然聞こえた。

「皇后娘娘、高貴妃様を呪った罪で牢に入っていただきます」
「は?」

 声の方を見ると、掖庭(えきてい)獄の捕吏の宦官たちではないか。なぜ、ここに。

「呪った罪?」
「釘が打ち込まれた人形が発見されました。その人形には高貴妃様の名前が書かれていましてね。高貴妃様が皇后娘娘に呪ってやると言われたと仰っています」
「私じゃないわよ。それ、明らかに自作自演でしょ」
「とにかく牢にお連れします」

(冗談じゃないわよ!)

 そう思ったものの、複数人の男の力に敵うものでもなく牢へと連れて行かれてしまった。
 李風が、どんな顔をしていたのかは、よく見えなかった。

 人気のない牢に入れられた冷月霏は、怒りに燃えていた。

(高貴妃のどっからどう見ても自作自演でしょ? 私の話をろくにきかずに……牢にいれるなんて!)

 何でこのような目に合わなければならないのか。昔は、確かに幸せな結婚生活を送っていたというのに。

(私、死ぬのかしら……?)

 ろくに冷月霏の言い分も聞かず、牢に入れられたとは、つまり皇帝たる江君嵐(ジャンジュンラン)は冷月霏を死罪にするつもりではないだろうか。
 涙が溢れる。
 江君嵐の求婚を受けたことが、そもそもの間違いであったのか。

(愛していたのに……いえ)

 唐突に気づく。
 愛している。きっと、今も冷月霏は江君嵐を愛している。
 だから、こんな仕打ちを受けて、とても悲しいし悔しい。心の中では、本当は彼に愛されているのではないかといつも期待していたのだ。
 ぐすぐすと涙を零していると、ひどく聞き覚えのある声がした。

「娘娘」
「李風?」

 どうやって牢まで来たのか。牢屋の前に李風が佇んでいた。彼の姿に冷月霏は驚いて涙が引っ込む。

「鍵なんて、何で持っているの?」

 李風が鍵を手にしていたのだ。それを牢屋の鍵穴に差し込もうとした。
 
「……細かいことは後でお話します。逃げましょう、娘娘」
「……行かないわ」

 しかし冷月霏の言葉を聞いて李風は手を止めた。
 
「娘娘、このままでは死罪となります」
「かまわないわ! 私はここに残る!」

 きっぱりと宣言する。李風が目を見開く。

「なぜ……です?」
「私、君嵐様に会うわ。最後の最後くらい私に会いに来ると信じるわ。……そして、彼に文句を言ってやるのよ」
「……」
「そんな顔しないで、風。今までありがとう。……きっと、ここで逃げたらもう一生、君嵐様と会えないわ。私を『作戦』のために利用していただけなの? ほんの少しでも愛があった時はあった? 聞きたいことがたくさんあるの。それに最後に文句もたくさん言わなくちゃ」
「娘娘……後悔しませんか?」
「ええ」

 力強くうなずく。李風は深いため息をつく。

「娘娘……あなたは陛下を深く愛していらっしゃるのですね……はぁ、陛下は大馬鹿者ですね。そんなあなたを手放そうとなさるとは」
「大馬鹿者って」

 思わず冷月霏は笑う。皇帝に対してそんなことを言う人間なんて滅多にいない。
 李風は鍵穴に鍵を差し込んで、扉を開けた。

「え? 私、ここに残るわよ?」
「申し訳ありません、娘娘。ここは燃やす予定ですので、どちらにしろ移動をお願いします」
「も、燃やす?」

 物騒なことを言う。

「駄目よ。放火犯になるなんて……! この牢屋に来たことだってバレたらまずいでしょ? しかも鍵を手に入れたのも犯罪行為じゃないの? その上、放火なんて!」
「大丈夫です。牢を燃やせ、という命令は上の指示ですので。……この牢は実は長年使われてない牢なんですが……。だとしても……娘娘、おかしいと思いません? 監視の人間すらいないでしょう?」

 そういえば、と冷月霏は思う。冷月霏一人の静かな牢なのだ。

「そうね……おかしいわ」
「……行きましょう」

 李風に彼がふところから取り出した布を渡される。

「とりあえず、これで顔をお隠しに」
「ええ」

 釈然としないながらも、布を巻いて顔を隠しつつ、李風に従って牢を出た。
 李風は牢に何の躊躇いもなく火をつける。

 そして翡翠宮へと二人は戻ってきた。

「ところで、どうして牢屋を燃やしたの?」
「それは明日になればすべてわかりますよ」

 どうやらまだ明かす気は李風にはないらしい。
 どうせ明日になれば、すべてわかるというのだ。それなら、いいかと冷月霏は思う。
 李風は冷月霏に眠るように勧めたが、冷月霏は断った。
 眠る気分にはとうていなれなかった。
 夜通し、李風とたわいもない話をした。今回の件の話はあえてしない。
 
 そして、窓から朝日が差し込むころ。
 にわかに外が騒がしくなっているのに冷月霏は気づいた。

「ん? 何かしら?」
「あー、始まりましたね。やっぱ、皆、驚くか」
「始まった? 牢屋を燃やしたことに皆、驚いているのかしら?」
「それもありますが、それだけではありません。行きましょう、娘娘。顔は隠してください」

 布を巻いて、顔を隠す。そして、翡翠宮の外へと出た。

「こちらです」

 李風の後を追って、後宮を抜け出す。李風は人に見つからないで抜け出す方法を持っていたようだ。後宮の木の陰に隠れた場所にある壁。そこにひっそりと扉があった。ふところから鍵を取り出して、扉を開ける。
 なぜそんな鍵なんて持っているのか。疑問はつきないが、彼についていく。 
 たどり着いた場所は琥珀殿であった。
 
「ここって……政の場よね?」

 隣の李風がうなずく。ほんの少し、戸が開いているところがあって、そこから中が覗けた。

「……えっ?」

 中を覗けば、中央に高貴妃がひざまずいて、(こうべ)を垂れているのが見えた。
 周りには多くの臣下たちが見えた。文武百官が勢ぞろいしているではないか。

「なにあれ?」
「悪事を働きましたからね」

 高貴妃の身体は震えていた。
 
「高貴妃に仕える女官と宦官が吐いたぞ。高貴妃が皇后を貶めるために巫蠱事件の自作自演をしたと」
 
 その声にハッとする。
 皇帝――江君嵐がいる。思わず、飛び出しそうになるが李風に腕を取られて止められる。

「まだ駄目です、もう少し、耐えてください」

 李風の眼差しは強くて、冷月霏は、

「わ、わかったわ」

 と答えた。とりあえず、事態を見守ることにする。
 
「お許し下さいませ……! わ、私は……。た、確かにあの呪いの人形は私の仕業ですわ……でも少し嫌がらせしようとしただけなのです……!」

 高貴妃が声を上げる。
 
「翡翠宮に吐瀉物や死骸、罵詈雑言が書かれた紙を投げ込んだのも、あなたの仕業だろう?」 
「申し訳ありません、ですが……陛下を想ってのこと! どうせ、あんな女のことなど気にかけてはいなかったではありませんか! それに、あの女は焼死したというではありませんか。どうか私を皇后にしてくださいませ」
「冷皇后の件だが……それは朕が間違っていたのだ。亡くなった冷皇后には悪いことをした」

 江君嵐の言葉に冷月霏は衝撃を受けた。冷月霏が死んだと思った彼は多少なりとも反省したらしい。しかし怒りも湧く。

(反省するくらいなら……最初から冷たい態度をとらないでよ!)
 
「高一族の反逆の証拠も揃っている。すでに、彼らは捕らえた。……そして、あなたは冷宮行きだ。その後の処分は改めて伝えよう」
「え!? は、反逆ですか!? そ、そんな」

 高貴妃の顔から表情が抜け落ちる。

「高貴妃を冷宮へ」
 
 江君嵐が言えば、宦官たちが高貴妃を琥珀殿の外へと引きずるように連れて行く。

「そんな……そんな……」

 とうわ言のように高貴妃は繰り返していた。

「ねえ、風」

 冷月霏は李風に呼びかける。
 
「はい」
「私、そろそろ出てもいいわよね?」
「ええ」

 冷月霏は、バンと戸を開けた。一斉に視線が冷月霏に向く。それに動じず、真っ直ぐに冷月霏は江君嵐を見据え、彼の元へ歩いて行く。

「月霏さん……!? なぜ、ここに!?」

 江君嵐の声には皇帝の威厳など、どこにもなかった。ただ、驚きがこもっている。

「冷皇后娘娘!?」
「牢で焼死されたとのことだったが、生きておられたのか!?」
「おお、霊鳥様のおかげではないか?」
「冷皇后娘娘には霊鳥様がついておられるにちがいない!」
「霊鳥様は、比翼の鳥! 皇帝陛下と皇后娘娘の夫婦愛が霊鳥様に届いたのではないか?」

 臣下たちが口々に言う。
 
 冷月霏は江君嵐の前に来ると、にっこり笑って優雅に一礼してみせた。

「陛下。私、生きていますわ。……後々、色々とお話ししましょうね?」

 江君嵐は、あっけに取られたような顔をしていた。そして、これだけ言った。

「わかった……」