「娘娘?」
李風に冷月霏は謝る。
「あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃってたわ」
過去のことを、ずいぶんと思い出してしまっていた。
「さあ、お昼ご飯を食べましょう?」
そう誘えば、李風はうなずく。正房の一室に入る。古びた卓に李風は料理を並べる。野菜の炒め物、粽、口水鶏、杏仁豆腐。
「いつもありがとう、李風」
「いえ、滅相もありません」
二人で席について、食事を味わう。
口水鶏を口に運ぶ。ピリ辛なたれとあわさって美味しい。李風が持ってくる食事はいつも、とても美味しいのだ。
「娘娘……実は……」
いいづらそうに李風は言う。一通り、食べ終わった後のことだ。これまた李風が持ってきてくれた茶に口をつけていた冷月霏の目に疑問の色が浮かぶ。
「何かしら?」
「高家はご存知でしょう?」
「もちろん。先帝の御代のころ、皇太子だった第二皇子殿下の母……高皇后娘娘の生家でしょう」
だが、その皇太子は病没した。
その母たる高皇后も、皇太子が死ぬ前に病死していた。冷月霏が十四になるかならないかというころだった。
そして、皇太子争いは混迷を極めた。高皇后の次の皇后はすでに立っていたが、彼女に子はいなかった。
先帝には九人の霊鳥の紋章をその身に宿す皇子がいた。
その一人たる皇太子は亡くなったので残りは八人。
江君嵐は、我関せずといった態度を貫いた。そもそも、翎娘とはいえ下級貴族の娘を正妻にした時点で『権力には興味なし』という態度を示していたと言えたのかもしれない。
残りの七人は、時に激しく時に静かに争った。
その合間に、先帝は崩御した。そして暗殺や政治的没落などが重なって、あっという間に七人は全員、死んでしまった。結果的に、江君嵐に皇位が転がり込んできた。
(今から考えれば……私と結婚したこと自体、『作戦』だったのかしら? 権力に興味ない、と示して首尾よく皇位を手に入れるための……)
皇太子は病弱なところが以前からあった。もしかしたら、早めに儚くなるかもしれないと江君嵐が考えたことがないとは言い切れない。
そして皇子たちは血の気が多い性格が多かった。そして野心家も。相打ちさせる、というのが一番いい作戦だったのではないだろうか。皇子たちは大人しく、死を与えられた周皇后の息子であり、しかも娶った妻は下級貴族の娘で後ろ盾がない江君嵐など目に入ってなかったはずだ。
自分は傍観者の立場で、ただ他の皇子たちに殺し合いをさせる。『作戦』に必要だった、けれど『作戦』が成功した今はもはや不要となった妻を顧みることなど、もう不要ということか。
そんなことを頭の中で考えつつ、李風の言葉を待つ。
「その高家から貴妃を迎えることになったのです」
カシャン、と何かが割れる音が聞こえた。それが自身が落とした茶杯が割れた音であると気づくのに少しばかり要した。
「娘娘、大丈夫ですか!?」
李風の声には驚きが滲んでいる。
「大丈夫よ、問題ないわ」
冷月霏はそう言うもののその声は少し震えていた。
「しかし……」
心配そうな李風のまなざし。まだ、冷月霏を気にかけてくれる人間がいる。その事実が胸に広がった。だんだんと気持ちも落ち着いてきて、冷静になっていく。
(まさか……まだ、こんなに動揺するなんてね……。私は、あの人に期待することをとっくに止めたはずだったのに……)
心の中で、どこか期待していたのだろうか。
夫が皇帝になって、後宮に入って数カ月は放っておかれていてもまだ期待していた。何か事情があるのかもしれないと。しかし、後宮に仕える人間に侮られ、一年、二年と経つうちに、『期待』というものは打ち消されたはずであったのに。
『ずっと、あなたを愛すると天地神明に、そして霊鳥に誓おう。私の妻はあなただけだ』
(愚かだわ……)
江君嵐の言葉を思い出す。
「本当に大丈夫よ……でも今日はもう帰ってくれる? 本当に皇帝に愛想がつきたわ! 大嫌いよ。後宮から今すぐ出ていきたい!」
「ですが……」
「お願い」
「茶杯の欠片を片したら去ります」
「私がやるわ」
「いえ、私がやりますから。娘娘はお休みに」
そう強く言われ、冷月霏は李風の言葉を素直に受け入れることにした。
精神的に衝撃があったから、というのもある。
その日、寝台に横たわりながらも冷月霏は一晩、眠れなかった。
そして、十日ほど経って。
高貴妃が後宮にやって来た。
きらびやかな絹の襦裙を身にまとう女は、唐突に翡翠宮へと現れた。
いつものように、李風と洗濯ものを干していた時のこと。
「皇后娘娘にご挨拶申し上げますわ。私は本日から貴妃となった高思妤です」
優雅に女官や宦官をぞろぞろと引き連れて訪れた高貴妃は優雅に一礼した。
「私は冷月霏よ、よろしくね」
洗濯ものを干す手を止めて、名乗る。
(この人が高貴妃……わざわざ挨拶に来るなんて意外ね)
オンボロ宮の冷宮皇后に挨拶しにくるとは。
(きっと礼儀正しくて、優しい方なのね)
そう冷月霏が思ったのも束の間。高貴妃が、指甲套が光る手を口に当てて、くすりと笑った。
「皇后娘娘、お可哀想ですわ。皇后であらせられるというのに下女みたいですもの。衣装も粗末ですわ。私、皇后娘娘の贈り物として、襦裙を持ってきましたのよ?」
高貴妃がそう言うと女官が箱を持ってきた。高貴妃が箱を開けると絹の襦裙が現れた。
「まだ贈り物はありますのよ?」
今度は宦官が食盒を持ってくる。食盒の中身を宦官に出すように高貴妃は指示する。豆汁入りの器を宦官は取り出した。辺りに独特な匂いが漂う。高貴妃はそれを宦官から受け取ると、箱に入った絹の襦裙を豆汁で濡らした。
そして目の前の冷月霏にぶっかけようとした。
「娘娘、大丈夫ですか!」
が、とっさに李風が割って入り彼の服が濡れる結果となった。
「私は大丈夫よ、風。それよりあなたは大丈夫なの!?」
「大丈夫です、この豆汁、冷たいですし。匂いは……あれですけど」
「あら、ごめんなさい。わざとではなくてよ」
明らかに侮辱が滲んだ声音。目には愉快そうな色を宿している。
「でも、この襦裙も受け取ってくださるわよね? 匂いがしみついて取れないかもしれないけれど。そのお粗末な下女の服よりましですわ。……それに、まだ豆汁も残っていますわね。私の誠意ですわよ? 飲んでくださいますよね?」
まだ豆汁は、半分近く残っていた。
ニヤニヤと笑う高貴妃。
「高貴妃様――」
「李風、大丈夫だから」
何かを言おうとする李風の言葉を冷月霏は遮る。そして冷月霏は、器を引っ掴んで、豆汁を飲んだ。それに、高貴妃は目を丸くした。
「なっ……!? 頭、おかしいんですの!?」
「あなたが飲めと言ったのよ? ……それに豆汁がもったいないわ」
変な生き物を見るような目で高貴妃は冷月霏を見やった。
冷月霏は女官が持っていた箱をひったくり、襦裙を取り出し、高貴妃に押し付けた。
「きゃっ!! 何するんですの! 豆汁の匂いが取れなくなったら……!」
「この襦裙は私には、もったいないくらいだわ。高貴妃にこそ、ふさわしいわよ。……次から食べ物を粗末にしないことね!」
「お、おかしな女! あなたみたいな女なんて、すぐに陛下から死を賜りますわ!」
そう捨て台詞を吐いて、高貴妃は側仕えをぞろぞろ引き連れ、帰っていった。
(ああ、波乱の予感しかないわ)
「娘娘、大丈夫ですか? 申し訳ありません、私が不甲斐ないばかりに」
「風のせいじゃないでしょ」
「……とにかく、着替えてまいりますね」
「ええ」
それにしても、と冷月霏は思う。
(陛下から死を賜わうか。……太祖の決まりのせいで、翎娘を一度、妻にしたら……妻を変えるにはそれしかないのよね)
はあっとため息をつく。今のところ、江君嵐から死ぬように言われたことはない。
しかし、愛するのは冷月霏だけと言ったのに側室を入れた。いや、前々から放置されていたのだ。とっくに冷月霏への気持ちは冷めていただろう。
死を命じられることがあってもおかしくないのかもしれない、と冷月霏は思った。
きっと、江君嵐はあの美しい高貴妃を気に入っているのだろう。
新しい皇后にするつもりかもしれない。
李風に冷月霏は謝る。
「あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃってたわ」
過去のことを、ずいぶんと思い出してしまっていた。
「さあ、お昼ご飯を食べましょう?」
そう誘えば、李風はうなずく。正房の一室に入る。古びた卓に李風は料理を並べる。野菜の炒め物、粽、口水鶏、杏仁豆腐。
「いつもありがとう、李風」
「いえ、滅相もありません」
二人で席について、食事を味わう。
口水鶏を口に運ぶ。ピリ辛なたれとあわさって美味しい。李風が持ってくる食事はいつも、とても美味しいのだ。
「娘娘……実は……」
いいづらそうに李風は言う。一通り、食べ終わった後のことだ。これまた李風が持ってきてくれた茶に口をつけていた冷月霏の目に疑問の色が浮かぶ。
「何かしら?」
「高家はご存知でしょう?」
「もちろん。先帝の御代のころ、皇太子だった第二皇子殿下の母……高皇后娘娘の生家でしょう」
だが、その皇太子は病没した。
その母たる高皇后も、皇太子が死ぬ前に病死していた。冷月霏が十四になるかならないかというころだった。
そして、皇太子争いは混迷を極めた。高皇后の次の皇后はすでに立っていたが、彼女に子はいなかった。
先帝には九人の霊鳥の紋章をその身に宿す皇子がいた。
その一人たる皇太子は亡くなったので残りは八人。
江君嵐は、我関せずといった態度を貫いた。そもそも、翎娘とはいえ下級貴族の娘を正妻にした時点で『権力には興味なし』という態度を示していたと言えたのかもしれない。
残りの七人は、時に激しく時に静かに争った。
その合間に、先帝は崩御した。そして暗殺や政治的没落などが重なって、あっという間に七人は全員、死んでしまった。結果的に、江君嵐に皇位が転がり込んできた。
(今から考えれば……私と結婚したこと自体、『作戦』だったのかしら? 権力に興味ない、と示して首尾よく皇位を手に入れるための……)
皇太子は病弱なところが以前からあった。もしかしたら、早めに儚くなるかもしれないと江君嵐が考えたことがないとは言い切れない。
そして皇子たちは血の気が多い性格が多かった。そして野心家も。相打ちさせる、というのが一番いい作戦だったのではないだろうか。皇子たちは大人しく、死を与えられた周皇后の息子であり、しかも娶った妻は下級貴族の娘で後ろ盾がない江君嵐など目に入ってなかったはずだ。
自分は傍観者の立場で、ただ他の皇子たちに殺し合いをさせる。『作戦』に必要だった、けれど『作戦』が成功した今はもはや不要となった妻を顧みることなど、もう不要ということか。
そんなことを頭の中で考えつつ、李風の言葉を待つ。
「その高家から貴妃を迎えることになったのです」
カシャン、と何かが割れる音が聞こえた。それが自身が落とした茶杯が割れた音であると気づくのに少しばかり要した。
「娘娘、大丈夫ですか!?」
李風の声には驚きが滲んでいる。
「大丈夫よ、問題ないわ」
冷月霏はそう言うもののその声は少し震えていた。
「しかし……」
心配そうな李風のまなざし。まだ、冷月霏を気にかけてくれる人間がいる。その事実が胸に広がった。だんだんと気持ちも落ち着いてきて、冷静になっていく。
(まさか……まだ、こんなに動揺するなんてね……。私は、あの人に期待することをとっくに止めたはずだったのに……)
心の中で、どこか期待していたのだろうか。
夫が皇帝になって、後宮に入って数カ月は放っておかれていてもまだ期待していた。何か事情があるのかもしれないと。しかし、後宮に仕える人間に侮られ、一年、二年と経つうちに、『期待』というものは打ち消されたはずであったのに。
『ずっと、あなたを愛すると天地神明に、そして霊鳥に誓おう。私の妻はあなただけだ』
(愚かだわ……)
江君嵐の言葉を思い出す。
「本当に大丈夫よ……でも今日はもう帰ってくれる? 本当に皇帝に愛想がつきたわ! 大嫌いよ。後宮から今すぐ出ていきたい!」
「ですが……」
「お願い」
「茶杯の欠片を片したら去ります」
「私がやるわ」
「いえ、私がやりますから。娘娘はお休みに」
そう強く言われ、冷月霏は李風の言葉を素直に受け入れることにした。
精神的に衝撃があったから、というのもある。
その日、寝台に横たわりながらも冷月霏は一晩、眠れなかった。
そして、十日ほど経って。
高貴妃が後宮にやって来た。
きらびやかな絹の襦裙を身にまとう女は、唐突に翡翠宮へと現れた。
いつものように、李風と洗濯ものを干していた時のこと。
「皇后娘娘にご挨拶申し上げますわ。私は本日から貴妃となった高思妤です」
優雅に女官や宦官をぞろぞろと引き連れて訪れた高貴妃は優雅に一礼した。
「私は冷月霏よ、よろしくね」
洗濯ものを干す手を止めて、名乗る。
(この人が高貴妃……わざわざ挨拶に来るなんて意外ね)
オンボロ宮の冷宮皇后に挨拶しにくるとは。
(きっと礼儀正しくて、優しい方なのね)
そう冷月霏が思ったのも束の間。高貴妃が、指甲套が光る手を口に当てて、くすりと笑った。
「皇后娘娘、お可哀想ですわ。皇后であらせられるというのに下女みたいですもの。衣装も粗末ですわ。私、皇后娘娘の贈り物として、襦裙を持ってきましたのよ?」
高貴妃がそう言うと女官が箱を持ってきた。高貴妃が箱を開けると絹の襦裙が現れた。
「まだ贈り物はありますのよ?」
今度は宦官が食盒を持ってくる。食盒の中身を宦官に出すように高貴妃は指示する。豆汁入りの器を宦官は取り出した。辺りに独特な匂いが漂う。高貴妃はそれを宦官から受け取ると、箱に入った絹の襦裙を豆汁で濡らした。
そして目の前の冷月霏にぶっかけようとした。
「娘娘、大丈夫ですか!」
が、とっさに李風が割って入り彼の服が濡れる結果となった。
「私は大丈夫よ、風。それよりあなたは大丈夫なの!?」
「大丈夫です、この豆汁、冷たいですし。匂いは……あれですけど」
「あら、ごめんなさい。わざとではなくてよ」
明らかに侮辱が滲んだ声音。目には愉快そうな色を宿している。
「でも、この襦裙も受け取ってくださるわよね? 匂いがしみついて取れないかもしれないけれど。そのお粗末な下女の服よりましですわ。……それに、まだ豆汁も残っていますわね。私の誠意ですわよ? 飲んでくださいますよね?」
まだ豆汁は、半分近く残っていた。
ニヤニヤと笑う高貴妃。
「高貴妃様――」
「李風、大丈夫だから」
何かを言おうとする李風の言葉を冷月霏は遮る。そして冷月霏は、器を引っ掴んで、豆汁を飲んだ。それに、高貴妃は目を丸くした。
「なっ……!? 頭、おかしいんですの!?」
「あなたが飲めと言ったのよ? ……それに豆汁がもったいないわ」
変な生き物を見るような目で高貴妃は冷月霏を見やった。
冷月霏は女官が持っていた箱をひったくり、襦裙を取り出し、高貴妃に押し付けた。
「きゃっ!! 何するんですの! 豆汁の匂いが取れなくなったら……!」
「この襦裙は私には、もったいないくらいだわ。高貴妃にこそ、ふさわしいわよ。……次から食べ物を粗末にしないことね!」
「お、おかしな女! あなたみたいな女なんて、すぐに陛下から死を賜りますわ!」
そう捨て台詞を吐いて、高貴妃は側仕えをぞろぞろ引き連れ、帰っていった。
(ああ、波乱の予感しかないわ)
「娘娘、大丈夫ですか? 申し訳ありません、私が不甲斐ないばかりに」
「風のせいじゃないでしょ」
「……とにかく、着替えてまいりますね」
「ええ」
それにしても、と冷月霏は思う。
(陛下から死を賜わうか。……太祖の決まりのせいで、翎娘を一度、妻にしたら……妻を変えるにはそれしかないのよね)
はあっとため息をつく。今のところ、江君嵐から死ぬように言われたことはない。
しかし、愛するのは冷月霏だけと言ったのに側室を入れた。いや、前々から放置されていたのだ。とっくに冷月霏への気持ちは冷めていただろう。
死を命じられることがあってもおかしくないのかもしれない、と冷月霏は思った。
きっと、江君嵐はあの美しい高貴妃を気に入っているのだろう。
新しい皇后にするつもりかもしれない。

