冷月霏と江君嵐が華燭の典を挙げたのは四年前、まだ二人とも十六歳だった時の話だ。
冷月霏は貴族といえど下級の下級、かろうじて貴族の位に引っかかっているような家の出身。
暮らしぶりは庶民とたいして変わらず。
使用人もいなかったため、家事は自分たちでやっていた。そのおかげで、オンボロ宮暮らしの皇后になってもどうにかやっていけているのかもしれないが。
ある日、下級役人を務めていた父が慌てふためいた様子で帰ってきたのだ。
「どうしたの? お父様?」
母と一緒に刺繍の内職をしていた手を止めて、不安になりながらも冷月霏は訊ねた。まさか役人の仕事を首になったのか。
母も同じことを思ったのだろう。
「……まさか仕事を首に?」
とつぶやいた。
「違う! 違う! 悪いことというわけでは……! いや、考えようによっては悪いのか……?」
父は首を左右に振って否定した。
「実はだな……」
悪いことではないと父は言った。しかし、考えようによっては悪いとも。意味がわからない。
黙って父の次の言葉を待った。
「月霏の嫁ぎ先が決まったかもしれない」
「えっ!?」
思わず驚愕の声を冷月霏は上げた。
「はい? と、嫁ぎ先? 月霏には婿をとらせるはずでは?」
母もびっくりした顔をしていた。冷月霏は一人っ子である。そのため、婿を迎える予定だった。
「どういうことですか、お父様?」
「私にもよくわからないのだ」
「はい? わからないとか決まったかもしれないとか適当すぎませんか!? 娘の結婚話というのに!?」
そう言ったのは母だ。父につかみかかるような勢いだったので、冷月霏が母を止める。
「まあまあ、お母様。とりあえずお父様のお話を聞きましょう」
父がほっとしたような表情を浮かべる。
「ですが、わからないとはいったい……?」
父は困り果てたような顔をした。
「お前、江君嵐様をご存知だろう」
「ええ。第五皇子殿下ですよね?」
数年前に最後に見た美麗な顔を思い出す。
こてんと冷月霏は首をかしげる。彼がどうかしたのか。ぽりぽりと父は頬をかく。
「君嵐様がお前と結婚したいのだと。側室でもなく正妻としてだ」
「はあ!? ど、どういうことですか!?」
思わず、父につかみかかり冷月霏は揺さぶってしまう。母はポカンと口をしばらく開けていたが、今度は母が冷月霏を止めに入る。
「まあまあ、月霏。……私もびっくりだけれどお父様が苦しそうよ」
ハッとして冷月霏は父を離した。
「ご、ごめんなさい、お父様! それにしても何で皇子殿下が私と結婚など……?」
ゴホゴホと少し咳をしてから父は口を開いた。
「月霏、お前は何度か皇宮で君嵐様とお会いしただろう?」
「ええ……といっても二度しか会ったことありませんけど」
「その時に惚れたらしい……」
「ええ!?」
二度しか会ったことがないのだから惚れるとしたら容姿だろう。
(一目惚れ? でも一目惚れされるほど美人じゃないと思うんだけど……はっ!? もしかして客観的に見たら美人だったりするのかしら?)
父に湧いてきた疑問をぶつけてみた。
「今まで自分のことは平凡な顔立ちと認識していましたが……もしかして……私ってかなりの美人だったりします?」
「いや、平凡だ」
きっぱりと父は言った。
「うっ……やっぱり」
「い、いや! もちろん可愛い娘とは思っているぞ」
「そうよ、世界で一番可愛いわよ」
父母は慌てたように、そう言うが、現実はわかっている。つまり、客観的に見たら平凡な容姿であるのだ。
「……ありがとうございます。……ですが、第五皇子殿下が私に惚れたという話が謎過ぎます。まさか政治的婚姻というわけでもないでしょう?」
父が力強くうなずく。
「断言する。君嵐様が冷家と姻戚関係になっても利益などまったくない! 我が家は下級の中の下級貴族だからな」
下級の中の下級貴族、という言葉を父はとくに強く言って胸を張る。胸を張ることではないだろうが。
「だから、月霏に惚れたという話は事実だろう」
「私に惚れる要素あります? 二回しかお会いしことありませんよ?」
「一目惚れしたんじゃないかしら?」
母の言葉に冷月霏は首を横に振る。
「それは私も考えましたが……うーん、やっぱり一目惚れされる顔してませんよ」
「客観的に美人じゃなくても、とある人物から見たら絶世の美女、なんてこともあるだろう」
(それ、やっぱり暗に私が美人じゃないって言ってるわよね)
冷月霏はそう考えつつ、気になったことを訊く。
「……でもですよ。仮に一目惚れされたのだとしても、なぜわざわざ正妻に? 普通、正妻は権勢を誇る貴族の娘。側室は私みたいな力がない家の娘にしませんか?」
「月霏も知っているだろう。君嵐様はもう跡目になられることはないだろうよ。せめて妻だけでも好きな人を選びたかったんじゃないか」
「……君嵐様はもう皇太子の座は狙っていないというの、あなた?」
母が口を挟む。
「そもそも、君嵐様が皇太子……ゆくゆくは皇帝になりたかったのかもわからないしなぁ」
父は話を続ける。
「周皇后娘娘のお産みになった君嵐様こと第五皇子殿下と高貴妃様のお産みになった第二皇子殿下のどちらを皇太子にするか争ってた時、第五皇子殿下は十にも満たなかったろう? 自分の意思なんて関係ないさ。乞巧奠の宴をおぼえているだろう。まだお前も殿下も九歳で……あれからすぐ高貴妃様を呪った罪で周皇后娘娘は死を賜った」
「それから、ほどなく新皇后高氏が冊立され第二皇子殿下が皇太子になられましたよね。でも高皇后娘娘は病死して新皇后が冊立された。周皇后娘娘の前の皇后娘娘も死罪。今まで三人も皇后が亡くなった。……皇帝陛下は次々皇后を変える。娘を皇后にしたい家は多いけれどその気持ちは私にはわからないわ」
母が言う。
冷月霏は、しばし思案した。何だか、自分の意思に関わらず人生が決まっていく皇子たちに何とも言えない感傷を覚えた。誰しも自分の意思だけで人生が決まるなんてあり得ないことではあるのだけど。
父母が真剣な顔で言う。
「別にこの結婚話を断ってもいいのだぞ。だいたい、お前はおてんばなところがあるからな。色々と心配だ」
「そうよ、いやなら断っていいのよ。そもそも嫁入りさせるつもりはずっとなかったのだし……」
両親はそう言うものの、ふと、脳裏に二度だけ会った江君嵐の笑みがよみがえった。
「私、このお話をお受けします」
気づけば、そう答えていた。
そうして、あれよあれよと言う間に輿入れの日を迎えた。
真紅の花嫁衣装をまとって、冷月霏は家の中で江君嵐が訪れるのを待っていた。うろうろと落ち着きなく部屋の中を入ったり来たりするのは母であった。
しばらくすると、外から待ち人の訪れを知らせる声がした。
「君嵐様がお越しになった」
外で待機していた父の声だ。
「幸せになるのよ」
母がそっと冷月霏を抱きしめた。大粒の涙を母は流していた。
「はい、もちろんです」
と冷月霏は微笑む。
(まるで、今生の別れみたいだわ。式には両親も参加するのに。式が終わって殿下の御屋敷で暮らすようになったとしても、ずっと会えないわけでもないのに)
それでも家から出ていくというのは特別に思えることなのかもしれない。
冷月霏はそっと部屋から出た。すると、すらりと背の高い男がいた。江君嵐だろう。一礼した。
「久しぶりだね、月霏さん」
久々に聞いたその声はすっかり低くなっている。
「お久しぶりです、殿下」
紅蓋頭を被っているために、鮮明には江君嵐の顔は見えなかった。頭の中で、どのような容貌にあの少年が成長したか想像してみたが上手く像が結ばなかった。
「……本当に嬉しいよ。結婚を承諾してくれてありがとう」
その声音は本気で言っているように聞こえた。
冷月霏は、それに若干、戸惑いつつも返事を少し迷ってから、
「はい」
とだけ返した。
そして、色とりどりの花で飾られた真紅の輿に乗り込み、江君嵐の屋敷へと向かった。
花嫁行列は江君嵐が先導している。
結婚が嫌だとかそういうわけでは決してない。
ただ戸惑いだけはあった。
(殿下と初めてお会いしたのは九歳の頃だったわね。その頃はまだ殿下のお母様もご存命でいらして……皇太子も誰だか決まってなかったわ)
輿に揺られつつ、昔のことを思い出した。
冷月霏は貴族といえど下級の下級、かろうじて貴族の位に引っかかっているような家の出身。
暮らしぶりは庶民とたいして変わらず。
使用人もいなかったため、家事は自分たちでやっていた。そのおかげで、オンボロ宮暮らしの皇后になってもどうにかやっていけているのかもしれないが。
ある日、下級役人を務めていた父が慌てふためいた様子で帰ってきたのだ。
「どうしたの? お父様?」
母と一緒に刺繍の内職をしていた手を止めて、不安になりながらも冷月霏は訊ねた。まさか役人の仕事を首になったのか。
母も同じことを思ったのだろう。
「……まさか仕事を首に?」
とつぶやいた。
「違う! 違う! 悪いことというわけでは……! いや、考えようによっては悪いのか……?」
父は首を左右に振って否定した。
「実はだな……」
悪いことではないと父は言った。しかし、考えようによっては悪いとも。意味がわからない。
黙って父の次の言葉を待った。
「月霏の嫁ぎ先が決まったかもしれない」
「えっ!?」
思わず驚愕の声を冷月霏は上げた。
「はい? と、嫁ぎ先? 月霏には婿をとらせるはずでは?」
母もびっくりした顔をしていた。冷月霏は一人っ子である。そのため、婿を迎える予定だった。
「どういうことですか、お父様?」
「私にもよくわからないのだ」
「はい? わからないとか決まったかもしれないとか適当すぎませんか!? 娘の結婚話というのに!?」
そう言ったのは母だ。父につかみかかるような勢いだったので、冷月霏が母を止める。
「まあまあ、お母様。とりあえずお父様のお話を聞きましょう」
父がほっとしたような表情を浮かべる。
「ですが、わからないとはいったい……?」
父は困り果てたような顔をした。
「お前、江君嵐様をご存知だろう」
「ええ。第五皇子殿下ですよね?」
数年前に最後に見た美麗な顔を思い出す。
こてんと冷月霏は首をかしげる。彼がどうかしたのか。ぽりぽりと父は頬をかく。
「君嵐様がお前と結婚したいのだと。側室でもなく正妻としてだ」
「はあ!? ど、どういうことですか!?」
思わず、父につかみかかり冷月霏は揺さぶってしまう。母はポカンと口をしばらく開けていたが、今度は母が冷月霏を止めに入る。
「まあまあ、月霏。……私もびっくりだけれどお父様が苦しそうよ」
ハッとして冷月霏は父を離した。
「ご、ごめんなさい、お父様! それにしても何で皇子殿下が私と結婚など……?」
ゴホゴホと少し咳をしてから父は口を開いた。
「月霏、お前は何度か皇宮で君嵐様とお会いしただろう?」
「ええ……といっても二度しか会ったことありませんけど」
「その時に惚れたらしい……」
「ええ!?」
二度しか会ったことがないのだから惚れるとしたら容姿だろう。
(一目惚れ? でも一目惚れされるほど美人じゃないと思うんだけど……はっ!? もしかして客観的に見たら美人だったりするのかしら?)
父に湧いてきた疑問をぶつけてみた。
「今まで自分のことは平凡な顔立ちと認識していましたが……もしかして……私ってかなりの美人だったりします?」
「いや、平凡だ」
きっぱりと父は言った。
「うっ……やっぱり」
「い、いや! もちろん可愛い娘とは思っているぞ」
「そうよ、世界で一番可愛いわよ」
父母は慌てたように、そう言うが、現実はわかっている。つまり、客観的に見たら平凡な容姿であるのだ。
「……ありがとうございます。……ですが、第五皇子殿下が私に惚れたという話が謎過ぎます。まさか政治的婚姻というわけでもないでしょう?」
父が力強くうなずく。
「断言する。君嵐様が冷家と姻戚関係になっても利益などまったくない! 我が家は下級の中の下級貴族だからな」
下級の中の下級貴族、という言葉を父はとくに強く言って胸を張る。胸を張ることではないだろうが。
「だから、月霏に惚れたという話は事実だろう」
「私に惚れる要素あります? 二回しかお会いしことありませんよ?」
「一目惚れしたんじゃないかしら?」
母の言葉に冷月霏は首を横に振る。
「それは私も考えましたが……うーん、やっぱり一目惚れされる顔してませんよ」
「客観的に美人じゃなくても、とある人物から見たら絶世の美女、なんてこともあるだろう」
(それ、やっぱり暗に私が美人じゃないって言ってるわよね)
冷月霏はそう考えつつ、気になったことを訊く。
「……でもですよ。仮に一目惚れされたのだとしても、なぜわざわざ正妻に? 普通、正妻は権勢を誇る貴族の娘。側室は私みたいな力がない家の娘にしませんか?」
「月霏も知っているだろう。君嵐様はもう跡目になられることはないだろうよ。せめて妻だけでも好きな人を選びたかったんじゃないか」
「……君嵐様はもう皇太子の座は狙っていないというの、あなた?」
母が口を挟む。
「そもそも、君嵐様が皇太子……ゆくゆくは皇帝になりたかったのかもわからないしなぁ」
父は話を続ける。
「周皇后娘娘のお産みになった君嵐様こと第五皇子殿下と高貴妃様のお産みになった第二皇子殿下のどちらを皇太子にするか争ってた時、第五皇子殿下は十にも満たなかったろう? 自分の意思なんて関係ないさ。乞巧奠の宴をおぼえているだろう。まだお前も殿下も九歳で……あれからすぐ高貴妃様を呪った罪で周皇后娘娘は死を賜った」
「それから、ほどなく新皇后高氏が冊立され第二皇子殿下が皇太子になられましたよね。でも高皇后娘娘は病死して新皇后が冊立された。周皇后娘娘の前の皇后娘娘も死罪。今まで三人も皇后が亡くなった。……皇帝陛下は次々皇后を変える。娘を皇后にしたい家は多いけれどその気持ちは私にはわからないわ」
母が言う。
冷月霏は、しばし思案した。何だか、自分の意思に関わらず人生が決まっていく皇子たちに何とも言えない感傷を覚えた。誰しも自分の意思だけで人生が決まるなんてあり得ないことではあるのだけど。
父母が真剣な顔で言う。
「別にこの結婚話を断ってもいいのだぞ。だいたい、お前はおてんばなところがあるからな。色々と心配だ」
「そうよ、いやなら断っていいのよ。そもそも嫁入りさせるつもりはずっとなかったのだし……」
両親はそう言うものの、ふと、脳裏に二度だけ会った江君嵐の笑みがよみがえった。
「私、このお話をお受けします」
気づけば、そう答えていた。
そうして、あれよあれよと言う間に輿入れの日を迎えた。
真紅の花嫁衣装をまとって、冷月霏は家の中で江君嵐が訪れるのを待っていた。うろうろと落ち着きなく部屋の中を入ったり来たりするのは母であった。
しばらくすると、外から待ち人の訪れを知らせる声がした。
「君嵐様がお越しになった」
外で待機していた父の声だ。
「幸せになるのよ」
母がそっと冷月霏を抱きしめた。大粒の涙を母は流していた。
「はい、もちろんです」
と冷月霏は微笑む。
(まるで、今生の別れみたいだわ。式には両親も参加するのに。式が終わって殿下の御屋敷で暮らすようになったとしても、ずっと会えないわけでもないのに)
それでも家から出ていくというのは特別に思えることなのかもしれない。
冷月霏はそっと部屋から出た。すると、すらりと背の高い男がいた。江君嵐だろう。一礼した。
「久しぶりだね、月霏さん」
久々に聞いたその声はすっかり低くなっている。
「お久しぶりです、殿下」
紅蓋頭を被っているために、鮮明には江君嵐の顔は見えなかった。頭の中で、どのような容貌にあの少年が成長したか想像してみたが上手く像が結ばなかった。
「……本当に嬉しいよ。結婚を承諾してくれてありがとう」
その声音は本気で言っているように聞こえた。
冷月霏は、それに若干、戸惑いつつも返事を少し迷ってから、
「はい」
とだけ返した。
そして、色とりどりの花で飾られた真紅の輿に乗り込み、江君嵐の屋敷へと向かった。
花嫁行列は江君嵐が先導している。
結婚が嫌だとかそういうわけでは決してない。
ただ戸惑いだけはあった。
(殿下と初めてお会いしたのは九歳の頃だったわね。その頃はまだ殿下のお母様もご存命でいらして……皇太子も誰だか決まってなかったわ)
輿に揺られつつ、昔のことを思い出した。

