比翼連理 冷宮皇后は皇帝陛下の最愛

「洗濯もの終わりっと!」

 晴天の空の下、千年以上続く(ヨン)国の皇后は声を上げた。目の前の干された洗濯ものは一国の皇后が着るとは思えぬもの。絹布などではない。麻布が使われている。しかもほつれたところは自分で縫い直すありさま。
 皇后――冷月霏(ランユエフェイ)は、ぐっと天に向かって腕を伸ばして身体をほぐす。
 冷月霏の黒髪は簡素に一つに縛られ、まとう衣服は麻布で出来た下女が着るようなもの。その額には翎娘(リンニャン)の証したる、霊鳥の紋章があった。

 季節は夏に向かっている。そう時間はかからずに乾くことだろう。

「はあ、あの野郎をぶん殴ってやるのに絶好のお天気だわ」
「それ、雨の日でも曇りの日でも雪の日でも言ってますよね、娘娘(ニャンニャン)?」

 背後からかけられた声に反応して冷月霏はくるりと振り返る。やはり、そこには鼠色の古びた宦官服を着た青年、李風(リーフォン)がいた。
 まるで武官のように精悍な顔立ちを李風はしていた。彼の手には食盒(おかもち)。昼餉を持ってきてくれたらしい。

「お帰りなさい、風」

 皇后に仕えるものはこの李風のみ。彼は、他所では『無能』の烙印を押されたらしい。そのため居場所がないので仕えさせてほしいと、後宮に冷月霏が来たばかりのころ、頼み込んできた宦官だ。
 
「はい、戻りました、娘娘……というか、洗濯ものは私がやりますと言っていますのに」
「いいのよ。だって、このオンボロ宮には二人しかいないし。手分けした方がいいわよ」

 吹けば飛ぶのではないか、と思うようなオンボロ宮こと翡翠宮は冷月霏が住まうまで数十年、放ったらかしであったという。

「ですが……皇后娘娘でいらっしゃいますよ? こういったことは私の役目ですから」
「皇后、なんて名ばかりよ」

 門を指差した。掲げられた扁額は、くてんと傾いている。次に正房を指さす。以前は、頻繁に雨漏りしていたオンボロな建物だ。これでも出来る限り李風が修繕してくれたので、ずいぶんとマシになったのだが。

「皇后の宮とは思えないわよ。冷宮かと思うほどよ」

 冷宮、とは罪を犯した妃嬪が行き着く場所だ。
 特に罪を犯してもおらず、本当に冷宮住まいというわけでもないのにこのザマだ。

「本当にあの野郎を殴ってやりたい」
「もし会う機会がありましたら、そうしてくださいませ……どうせあの人、怒らないだろうし」

 最後の方は、ぼそりと冷月霏に消えないくらいの小声であった。
 
「あはは、風もなかなか言うわね。絶対、会ったらあの野郎をぶん殴ってやるわよ。……あと風、最後の方、聞こえなかったんだけど何て言ったの?」
「いえ、何でもありません」

 あの野郎というのは永国の今上帝たる江君嵐(ジャンジュンラン)のことである。つまり皇后である冷月霏の夫だ。江君嵐は妻の冷月霏を絶賛、放置中である。
 冷月霏に与えられた宮はオンボロな翡翠宮。衣服も最初は尚服(しょうふく)局からきちんとしたものを支給されてもらっていたのだが、皇帝が冷月霏に興味がなさそうだと認識されたら下女のような服を寄越された。
 冷月霏は、皇后の襦裙より動きやすそうだからこれはこれで使えると判断して着ているわけだが。
 また食事もそうだ。尚食(しょうしょく)局からろくなものが支給されない。だから、李風がこうして御前房から持ってきてくれる。その御前房は皇帝の厨なのだが、李風はそこに友人がいるそうで、その友人が料理を分けてくれるらしい。
 ぜひその友人に直接、お礼を言いたいと言ったが李風に、『彼は恥ずかしがりやなので』と断られてしまった。

 冷月霏は眉間にシワを寄せる。冷月霏は軽んじられていることに対して何も思っていないわけではない。
 江君嵐は即位以来、冷月霏に会いに来ない。
 冷月霏は今や『冷宮皇后』なんて呼ばれている。冷宮暮らしのような生活だということと苗字が冷であることが重なってあっという間にその不名誉な渾名は広まってしまった。
 ついこの間も言われた。門の下で掃き掃除をしていた時のことだ。

「見て見て、あれが『冷宮皇后』よ。冷宮住まいの冷氏」
「服装も宮もぼろぼろだわ。本当に冷宮に入れられたみたい」
「皇后だって言うのに汚い格好」
「ああはなりたくないものね」
 
 とクスクス笑う声が聞こえてきたのだ。

(無視無視)

 そう思いつつ掃き掃除を続けたが。
 こんなことが日常茶飯時であり、二年も続いているので腹の底に溜まるものはもちろんあった。
 そして決めたのだ。
 皇帝に会ったら一発、いや、十発くらい殴ろうと。
 冷月霏の家族は数年前に流行病で亡くなっている。つまり、皇帝を殴ったとして連座されるような相手はいない。
 ふうっと冷月霏はため息をつく。

「まあ、二年も会ってないんだもの。もしかしたら、もう一生会わないかもしれないわね。……今頃どうしているのやら」
「今は休憩時間でしょうから……。碁でも指していらっしゃるのかと。ここ二年ほどは趣味として碁をしていらっしゃるらしいですよ? 神がかり的に強い時とやたら弱い時があるとかなんとか。最近はお強いらしいですけど」
「碁ねぇ……」

 江君嵐が皇位を手に入れてからはや二年。
 ずっと顔すら見ていない。このまま一生会わないつもりなのだろうか。
 そもそも、なぜこんなことになったのか。
 冷月霏は昔のことを思い出したのだった。