一緒に食べよう

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「それじゃぁ、またね。バイバイ、実咲貴(みさき)ちゃん」


その言葉が、三坂貴史(みさかたかし)には最後通牒に聞こえた。
貴史は二十六歳で、八歳の娘、実咲貴の父親としては周囲より随分若かった。
大きな瞳にやや神経質そうな細い眉、身長だけは人並みにある。身体を鍛えてもいた。体躯に似合わぬ童顔を隠そうと眼鏡をかけたり髭を生やしたりしたこともあるが、似合わないのですぐにやめた。常に、周囲の目を気にしていた。
若く見える、実際若い父親だから……舐められたんじゃないかという思いが一瞬掠める。
「お世話に、なりました」
実咲貴の私物をナップザックに入れて貰い、職員から受け取りながらどうしても視線は地を這った。
今日が実咲貴の最後の学童保育の日だった。
学童保育は一般的には六年生まで使える筈だった。だが例年、二百人の定員を必ず越える。世間は厳しくまた平等であろうとする。内部のくじ引きで二百人を決めるという噂もある。六年間最後まで通える子もいる。全く利用できないままの子も当然いる。二年連続で在籍できた実咲貴はラッキーだったのかもしれない。
「お世話になりました!」
実咲貴が貴史を真似てペコリと頭を下げる。肩まである栗色がかった髪がさらりと揺れた。
実咲貴の母、つまり貴史の妻は2年前に他界した。交通事故だった。
なので、今はいわゆる父子家庭だ。勿論、貴史は仕事をしている。実咲貴を見てくれる親類縁者も近くにはいない。優先的に学童に通えるものだと信じこんでいた。
しかし三年目に差し掛かろうとしたこの春先に、突然「来年度からは通えません」と無情にも職員から言われたのだ。書面で通知もきた。
確かに実咲貴は手のかかる子じゃない。貴史自身も高校卒業以来勤めている会社で、残業を免除されるなど恵まれた環境にある。仕事も営業から内勤の事務へと転属させてもらえた。
それでもだ。
親ひとり子ひとりで……ぐっと拳を握りしめる。






「パパ、明日から学童ないの?」
学童をあとにして、家路につくと手を繋いだ実咲貴が不思議そうに聞いてきた。
学校からはそんなに遠くはない。小さな商店街を抜けて公園を通りすぎればマンションはすぐだ。子供の足でも十五分かからない。
「うん、そう。定員がいっぱいなんだって。明日からは、お家でお留守番な」
「ふうん」
実咲貴は分かったような分からないような返事をして、貴史から視線を逸らした。
最近は……いや、実咲の母である咲良(さくら)が死んでからずっとこうだ。実咲貴は貴史を見ない。視界に入れないようにしているかのようだ。
最初のうちは仕方ないと思っていた。母を失ったのだ、態度が変わっても仕方ないと。しかし、一年経っても、二年経っても……三年目に入っても、実咲貴の態度は変わらなかった。いつも心ここにあらずといった風で視線はすぅっと貴史の上を通りすぎる。
活発ではあるのだ。よく喋り、よく遊ぶ。学校でも問題行動など起こしたことはないらしい。だが、視線が合わない。
そして──。
「夕飯、何にしようか実咲貴。パパ今日は」
「ナゲットとポテトがいい」
そこだけははっきりと実咲貴は言った。繋いだ手をぷらぷらと揺らしながら目線はもう商店街の惣菜屋に向いている。
宥める声で貴史は言った。


「実咲貴、実咲貴。ナゲットとポテトは昨日も一昨日も、食べただろ? 今日はパパが作るから別のものに──」
「チキンナゲットとポテトが良いの!」
眉をしかめちらりと貴史を見上げると、実咲貴はするりと手をすり抜けて総菜屋へと走っていった。
貴史は思わずため息をついた。上手くいかないことばかりだ。
薄暗くなりかけの春の空は、雲が多くまだ肌寒かった。






結局いつものようにチキンナゲットとポテトフライを買って総菜屋をあとにした。
実咲貴は咲良が死んでからずっと、家ではほとんどこれしか食べない。たまにトーストや買ってきたハンバーガーを一齧りはするだろうか。
心配になり、家庭訪問や二者面談で先生に聞くと、給食はすっかりきれいに食べているという。男子に混じって牛乳二本目争いに参加することもあるほどだと。
学校ではきちんと食事を摂っているのだということが安堵にもなり不安でもあった。
外食すれば、食は細いながらも出されたものは口にする。
つまり、貴史が作ったものだけ食べない。
どれだけ材料や見映えに気を付けても、実咲貴は「いらない」「食べたくない」「変な匂いがする」などと言い、絶対に貴史の作った料理を口にしなかった。
公園を抜ける。
実咲貴は上機嫌で買ったばかりのナゲットが入った袋をブンブンと振り回していた。貴史は連日続くナゲット攻めに少しばかり胃が痛かった。
「実咲貴、食べ物をそんなに振り回すのは止めなさい」
「はーい。あっ!」
ナゲットの入った袋は実咲貴の緩んだ手からすぽんと抜けて、勢いよく弧を描くと随分と先の砂場へと落ちた。
「ああ! ほら!」
少し苛々した声を出してしまったかもしれない。いつもこうだ。優しく接しなければならないと思っているのに、マイナスの感情が溢れてしまう。
「ごめんなさい」と小さく呟く実貴の手を引いて貴史が砂場に向かおうとすると、先にそのビニール袋を拾い上げた手があった。
夕暮れの微かな日差しを横から受けて、その人物の笑顔は温かに見えた。
「よく飛んだね。大記録だ」
大柄な男だった。
標準的な身長を越える貴史が見上げるほどに背が高い。縦にも大きいが横にもがっしりとした肉体を感じられる体つき。黒く、少し長めの髪を首の後ろで結んでいる。口も目も大きく、鼻梁は高い。一瞬、体格も相まって海外の血が混じっているかと思うほど彫りが深い顔立ちだった。年齢は三十をいくつか過ぎたあたりだろうか。
けれど男は腰を折るようにして実咲貴に話しかけると、ついで貴史に目線をやってペコリと頭を下げた。
「しっかり紙袋に包んであったので、中身は汚れてはないようですよ」
ビニール袋についた砂を払いながら、男が実咲貴に袋を手渡そうとした。知らない男から実咲貴に直接ものを渡されるのを警戒して、貴史は先にさっと前へと出た。
「あ、ありがとうございます」
声も自然と固くなった。けれどそんな貴史の動きにも気を悪くした風でもなく、男は貴史の方へ袋を差し出しながらにこりと笑う。
「いえいえ。……拾っただけですから」
では、と男は貴史に袋を返して公園を先に立って去っていく。
同じ方向? と思いながらも貴史は実咲貴の手を握り直す。
「迷惑かけちゃっただろ、ほら」
「うん。でもおじさんが拾ってくれたよ?」
「……知らない人だから、優しくされても着いていったりしたら駄目だよ」
「はーい……」
小さい声で付け足すと、少し不服そうではあったが、実咲貴は少し口を尖らせただけで素直に頷いた。
目の前の男の後ろを数歩空けて二人で着いて歩く。公園を出て右に曲がり、すぐの横断歩道を渡って……貴史達のマンションだ。目の前の男は躊躇なくエレベーターに乗り込んだ。後ろにいた貴史達には気づいていたようで、男が、エレベーターを開けたまま待っていてくれる。
仕方なく貴史は実咲貴をつれて、小走りでエレベーターに乗った。
「はは、ご近所さんだったんですね。僕、こういう者です」
男が、尻ポケットから貴史に名刺を差し出した。同じく実咲貴へも小さな紙片を手渡す。
「ビストロ・ソワールの……いち……?」
「一修吾(にのまえしゅうご)、です。ちょっと変わった名前でしょ?」
男がはにかんだ笑顔を浮かべる。そうこうするうちに貴史達の部屋がある三階に着いた。
「よかったら、今度ご飯食べに来てください。店は駅前寄りの商店街の端っこですから」
貴史達がエレベーターを降りると、笑顔のまま手を振って男は、修吾は上の階へと上っていった。止まる階を眺めているとすぐ上の四階に住んでいるようだった。
ふと、実咲貴が嬉しそうに「ねぇねぇ」と貴史の手を引いた。
「ねぇ、これ読めるよ実咲貴! 一(いち)! さっきのおじさんは、じゃぁ……いっちゃん!?」
「……知らない人に勝手にあだ名をつけちゃ駄目だよ」
「知らない人じゃないもーん。いっちゃんだもーん」
実咲貴はすっかり修吾のことが気に入ったようだった。わかったわかったと生返事をしながら、「ああ、こちらの名刺を渡すのを忘れたな」とふと貴史は思った。




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迎えた春休みは想像以上に大変だった。
去年までは学童に預かってもらえていた。しかし、今年はそれが出来ないので、実咲貴は基本一人で一日中家にいる。仕事を休もうかとまで、一時は考えた。それほど実咲貴のことが心配だった。
「もう三年生になるんだから一人で大丈夫よ」
「女の子でしょ? きっとおとなしく過ごしてくれるわよ」
数少ないママ友は相談しても呑気なものだった。そう気楽に考えられるほど、自分は実咲貴とコミュニケーションを取れていない、とは言い出しづらかった。
仕方ないので、一人で勝手に外出しないこと、ご飯(またもやナゲットだが)はテーブルの上にあること、玄関チャイムが鳴っても決して出ないことなどを「お約束」として冷蔵庫にでかでかと貼っておいた。
それでも子供は何をするかわからない。ことに実咲貴は最近反抗期なのか成長したのか、貴史との「お約束」を破ってしまうことが増えつつあった。
不安で不安で、仕事にならなかった。五時十五分の終業の合図で急いで会社を飛び出す。
何事もなかったら良いが……。
マンションまでたどり着くと、ちょうど下りてきたエレベーターに飛び乗ろうとして、はっと気付いた。先客だ。
「あれ、昨日の……お父さん?」
おっとりとした声と大きな影がエレベーターから下りてきた。
昨日会った修吾だった。
修吾は襟の立った白いシャツに黒のパンツ、ロングの黒いチェスターコートを身に纏っていた。巨躯で濃い顔立ちのモデルのような修吾にはそのシックなコートが良く似合っていて、一瞬、貴史は目を奪われる。
返事のない貴史のことを不思議そうに見つめ返して、修吾が首をかしげた。
「あの……?」
「あー……あ、一さん、でしたっけ」
どうにか答えながらも不躾な眼差しだったと、瞬間、貴史の体温が上がった。思わず下を向いてしまう。
修吾がほっとしたように笑みを深めると、眉尻が優しげに下がった。
「そうです。僕、今から出勤なんですよ。店が六時からで。えと、お父さん……はお仕事終わりですよね、お疲れさまです」
修吾はさりげなく貴史に道を譲った。貴史は慌てて上着のポケットを探り名刺入れを取り出し、慣れた手際で名刺を差し出す。
「昨日はうっかりしていて、ご挨拶が遅れました。三坂と申します」
「これはご丁寧に。三坂、貴史さんとおっしゃるんですね。娘さんもいらっしゃるから、貴史さんとお呼びしても?」
「それは、ええ。……あ、今からご出勤なんですよね。お引き留めしてすみませんでした」
「全然構いませんよ。良ければ本当にいつでも、ご家族で食事をしに来てください」
「それは……はい、分かりました。ぜひ寄らせてください」
家族という言葉に貴史の笑顔が一瞬ひきつった。だが、すぐにもとの外行きの笑顔に戻して修吾に別れを告げた。
妻と娘と自分と……三人家族だと思われただろうか。いや、今はそんなことどうでも良い。実咲貴はきちんと留守番できただろうか。何事もなければ良いが……。
しかしそんな貴史の願いは見事に裏切られたのだった。






「ただいまー。実咲貴、良い子にしてた、か……」
鍵が開いていた。
真っ青になって貴史は部屋へと思わず土足で踏み込んだ。
「濡れ……?」
すぐに異常事態なのが分かった。
まず玄関へ入ってすぐのところに、宅急便らしき包みが置かれていた。中身は開けられ、梱包材の発泡スチロールが周囲へ飛び出し、そして何故か「要冷凍」の中身──蟹鍋のセットは、上がり框に置きっぱなしで半分以上溶けかけていた。
動転していた貴史はびしょ濡れの蟹パックを手に廊下を進む。
「実咲貴、実咲貴ー!?」
開けっぱなしのリビングダイニングまで来た。
貴史は嫌な予感がしつつ、中を覗き込んだ。
何故かダイニングテーブルの上に椅子が置いてあった。
そして、ティッシュだろうか……細かくちぎられた紙片が何かの儀式さながらにテーブルを中心に沢山ばらまかれていた。
目を転じれば、キッチンも燦々たる状態だ。鍋がひっくり返り、中のうどんが付属の出汁とともに床やシンクへ飛び散っている。
当の実咲貴は──いた。ベランダに近い部屋の角でタブレットを見つめている。無事だ。
「実咲貴! 大丈夫だったか!?」
思わず駆け寄り、抱き締めていた。
タブレットには実咲貴のお気に入りの魔法少女のアニメが流れていた。
「……カニが、冷凍してくださいって、ばぁばから」
ぼそっと実咲貴が呟いた。目はタブレットに向けられたままだ。
「お義母さんから!?」
義理の実家は、確かに東北だった。けれど十一月も早々に蟹が届くなんて思ってもみなかった。何となく状況を察して、貴史は蟹を床に置いた。どうやら事件ではないらしい。
「うん、だから部屋の鍵を開けたの。宅急便のおじちゃんが、溶けちゃうよって……けど、開けたら冷蔵庫に入んなくて……」
「だから、置きっぱなしに……?」
「ん……」
「ティッシュは……?」
「テレビで、お山が初雪ですって……だから、真似してお部屋を真っ白にしようと思って」
「……なんで、チキンナゲット食べなかったんだい? うどんが良かった?」
「だって、実咲貴も……お料理できるも、ん……」
貴史は出来るだけ優しく静かに尋ねていたはずだった。けれど実咲貴はとうとう泣き出してしまった。うえええん、としゃくりあげて大粒の涙をこぼしながらすがり付いてくる。その手は蟹とうどんの出汁の匂いと、あとはともかくよく分からない臭いがして、貴史はぎゅっと実咲貴を抱き締め返した。
「怪我がなくて、良かった……」
「っ実咲貴、一人でっ、できる、もんっ……」
「分かったよ。……頑張ったな」
頭を撫でると余計にしがみついてくる我が子が愛おしくまた哀しかった。一人で留守番を頑張ろうとした我が子を嬉しく感じたし、また明日からもこうなのかと辛くも思った。そしてやはり実咲貴を一人にしておいてはいけないと強く心に念じた。
ひとしきり泣くと、実咲貴は下を向きながらおずおずと付け加えた。
「……おトイレ、詰まちゃった……」
貴史はもう笑うしかなかった。




翌日から一週間。貴史は残りの有給を全部取り、実咲貴と一緒に過ごすことに決めた。
「……パパ、お仕事は?」
有給初日、少し遅めに実咲貴を起こしに部屋へと行くと実咲貴は眠たげな眼をぱちぱちと瞬かせて不思議そうに聞いた。貴史が普段着のままだったからだろう。普通ならとっくにスーツに着替えているところだ。
「仕事はお休みだよ。……実咲貴が頑張ったご褒美だ」
「ほんとう?」
眠そうだった実咲貴の目がぱっと香月き、笑顔になってすぐに走り寄ってきた。抱き上げ洗面に向かうと、機嫌良く鼻歌を歌っている。やはりいきなり一人は寂しかったかとしみじみ頬ずりしてやる。
顔を洗いご機嫌なまま歯磨きをする実咲貴は足元がやはり楽しげにステップを踏んでいる。それを見て小さく笑いながら貴史は一応と聞いてみた。
「実咲貴、朝ご飯なにが食べたい?」
「おうどん!」
「え、」
驚いた。ナゲットやポテト以外のリクエストはこの二年間で初めてだった。
「……なんのうどんが良いんだ?」
「玉子! お月見の!」
実咲貴が歯ブラシを握りしめ、飛び跳ねるように言った。
合点がいった。それは生前、妻の咲良がよく作っていたうどんだった。咲良は料理が上手とはお世辞にも言えなかった。だが、市販の出汁と冷凍うどんで作るうどんは手軽だからとよく作っていた。
貴史は懐かしく思いながら、昨日、実咲貴がどんな思いで台所に立ったかと思いを馳せた。
「分かった。月見うどんだな」
「うん!」
髪をくしゃりと撫でてやってから貴史は洗面所を離れた。
(市販の出汁にみりんを少し入れるの。お出汁が少し甘くなって美味しいのよ)
咲良の声がふいによみがえった。
(覚えてるよ……)
リビングの端の小さな仏壇に目を向ける。位牌と遺影、焼香用の小さな鉢が置かれているだけの空間。そこからさりげなく目線を逸らして、貴史はキッチンへと立った。




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一週間はあっという間に過ぎた。
春休みはあと数日、けれどそれをなんとか乗り越えたところで学校が始まってしまう。学校は早い日で三時過ぎ、遅い日で四時過ぎに終わる。六時前には帰る貴史を考えると、実質ほんの一、二時間のお留守番だ。
ベビーシッターや家政婦の利用を考えてもみた。けれどどれも毎日利用するには高額で、貴史の給与では手が出せないものばかりだった。
(明日からまた仕事か……)
実咲貴には「今度こそ」という約束で、貴史がいない間は外には出ない、インターホンが鳴っても近づかない、お昼は貴史が用意したものを食べる、と改めて言い聞かせておいた。
が、初日がああだっただけに心配の種はつきない。実咲貴を大事に思うのはもちろん、事件や事故にでもあったら……咲良に申し訳が立たないと貴史は常に考えていた。
それに、貴史自身ももう限界が近かった。
この度の有給も快く応じてくれた会社だが、それだけにこれ以上会社に甘えるのにもひどい心苦しさがあった。そもそも真面目な性格だ。自分の時間を削り、会社に頭を下げて、実咲貴の前では笑顔でい続ける。
(もう、無理かもしれない)
ぼんやりと座り込んだまま、ふと気づけば十時を少しを過ぎていた。
もうとっくに実咲貴は寝てしまっている。
ふいに強い焦燥が込み上げた。
猛烈に外へ出たくなった。どこでも良い、何も考えなくて良い所へ。
そう思うともう堪らなくなって、部屋着のまま厚手のカーディガンを掴んで部屋を飛び出していた。エレベーターがもどかしくて、階段を使ってマンションを飛び出す。マンション前の公園を早足で通りすぎて、何も考えずにいつもの道を、商店街へ抜ける道をひたすらに足早で歩いた。
古い商店街は、ほとんどの商店がシャッターを閉めている時間で、行き交う人もまばらだった。そこをサンダル履きのままずんずんと進む。ほとんど地を見つめたままだった。
何も聞きたくない、もう何もできない。苛立ちとも悲しみともつかない気持ちで胸がいっぱいになる。叫び出したかった。
そんな気持ちをぶつけるように、ほの暗い商店街というトンネルをただひたすらに歩いているときだった。前方に、ぼうっと暖かな光が見えた。
光に吸い寄せられるように、歩みは自然とそちらへ向かった。
外まで聞こえるほどの、男女の談笑の声が、朗らかな笑いが中から聞こえた。
「いらっしゃいませ! って、あれ……貴史さん?」
名前を呼ばれても一瞬誰だかわからなかった。


「来てくれたんですね。嬉しいです。奥のカウンターでよろしいですか?」
カウンターからでてきた人物が自分に近づき、見上げるような男の影が自分の上に落ちてきて、貴史は自分が店のドアを開いて中へ突っ立っているのだと、やっと気づいた。キョロキョロと辺りを見渡す。
店内は古き良き洋食屋、といった雰囲気だった。
煉瓦風の壁紙にランプを中心にした間接照明。カウンターの上部にはワイングラスが吊るされて、本日のお勧めメニューが黒板にカウンター奥の壁に掲げられている。
店は奥行きが深く、縱に四人掛けのテーブルが三つ、真ん中の通路を挟んで平行するようにカウンターが六、七席。テーブルには白地に赤と青のチェックのテーブルクロスが掛けられ、そちらは席が満席だった。
「さあ、どうぞどうぞ」
「貴方は……」
一番奥のカウンター席へと通される。
一修吾。やっと名前を思い出せた。
そうか、彼の店だったのかと思考が繋がる。
満面の笑顔の彼に席へと案内してもらい、椅子まで引いて貰いながらだんだんと頭がクリアになってきた。そうだ、商店街の端でビストロをやってるって言っていた。
確か実咲貴は「いっちゃん」って……
「いっちゃん、さん……?」
「えっ?」
言ってしまってからではもう遅い。メニューを差し出していた修吾がキョトンとした顔をする。
「あ、あ……も、申し訳ない! 娘が、名刺を見て、そう呼んでいたので、つい……っ」
貴史は首筋から顔まで、瞬時に血が上るのが自分でも分かった。そんな貴史を見て、修吾は「ははっ!」と楽しげに笑う。
「良いですよ。呼びにくいでしょう、「にのまえ」は。いっちゃんでも修吾でも好きに呼んでください。ただし、店ではマスターで通ってますけどね」
おおらかな笑みに繋げて、メニューを貴史の前に置くとカウンターへと修吾は戻っていった。
優吾はシャツの袖をまくり、黒いパンツに真っ白い丈の長いギャルソンエプロンを腰でぎゅっと閉めていた。注文は次々と入る。子羊のロースト、ミートフライドポテト、田舎風パテ、サーモンのブルスケッタ等々。そんな中、修吾は狭い厨房で時に頭を下げたり、身をかわしたりしながら他の従業員に指示を出している。
客達は皆楽しそうで、大いに食い、飲んで、機嫌良く笑い合っている。
「お決まりですか?」
ぼんやりとそんな様子を見ていた貴史はカウンターの中から修吾に声を掛けられてはっとした。店の雰囲気や修吾の動きを自然と目で追ってしまって、まだメニューを見てもいなかった。
そんな様子を察知していたかのように、修吾は穏やかに首をかしげた。
「それではこちらのお任せで……。そうですね、今日のオススメからカブと白子のソテーにさつまいもとカリフラワーのポタージュなんかどうです?」
「あ……それで、お願い……します」
どんな料理なのか、どんな味なのかも想像もできなかったが、貴史は頷いた。自分では決められそうになかった。
「お飲み物は?」
「それじゃ……ビールで」
「承知いたしました」
笑顔でメニューを下げる修吾を見送った後、はっと気づいた。財布を持ってきていない。
しかも部屋着の上にカーディガンを引っ掻けただけのサンダル姿。
貴史は一瞬で現実に引き戻された。
「あ、あの!」
「はい、なんでしょう?」
振り替える修吾の笑顔は眩しい。返す貴史の顔は真っ青だった。
「すみません。財布を、財布を忘れてしまって……だから注文は」
「ああ、そうなんですね」
何事かと思った、と朗らかに笑って、修吾は下がっているワイングラスを避けてカウンターから身を乗り出してきた。やや声を潜めて笑う。
「ご近所さんの誼ということで。今日はこちらに持たせてください」
その申し出に、貴史は思わずカウンターに手をついて立ち上がる。
「いや、いやいやそんな!」
「良いんですよ。良かったらこれを機会に通ってください」
「けど!」
「しーっ! 他のお客さんに聞こえちゃいますから」
腕を伸ばしてきた修吾が、貴史の肩をとんとんと軽く叩いて去っていった。
皆が和やかに楽しく過ごしているこの場で目立ちたくなくて、仕方なく貴史は椅子に腰を落とした。
しばらくしてやってきた料理は、両方とも白い陶器の皿に行儀良く収まっていた。
「お待たせしました。こちらがカブと白子、こちらがさつまいものスープです。温かい内にお召し上がりください」
貴史の目の前に湯気が立つ二皿が置かれた。脇にはキンキンに冷えたビールも。
とたんに、腹が空いていたことを思い出す。
「いただき、ます」
スプーンを持って、まずスープを一口、口に運んだ。
最初に、こっくりと甘いさつまいもの味がした。それからクリームの滑らかな感触とわずかな塩味、奥の方にふんわりと鼻に抜けるカリフラワーの風味。
喉がじんわりと暖まるこの感触は生姜だろうか。
ほんの一匙に様々な味が混じり合い解け合って、複雑な味がした。それがとても味わい深い。
もう一口。
さらにもう一口。
飲めば飲むほど、喉の奥に凝り固まっていた感情を圧し殺すことができなくなっていった。もう我慢できなかった。
俯くと、ぽたりと涙が落ちた。一粒落ちるともう後は止めることなどできなかった。
涙が頬を伝い次から次へとこぼれ落ちていく。
この二年。
自分のためだけに食事をしたことがなかった。
実咲貴の偏食が心配で、その偏食に付き合っている内に食事は単なる栄養補給に過ぎなくなった。朝晩は実咲貴と一緒にナゲットとポテトを食べて、昼御飯はコンビニでおにぎり二つとサラダ。
必要だから食べていた。倒れないようにただ食べていた。倒れたらなにもかも終わりだと思っていた。
素直に美味しいと思える、食事は久しぶりだった。
「っ……」


泣きながらもう一皿にも手を伸ばした。
カブはほっこりと優しい味わいで、白子は濃厚でクリーミーだった。少しの焦げ目が香ばしい。
食べている内に、ずんと腹の奥が温かくなった。冷えていた手足に感覚が戻ってくる。
泣いていたことには気づいていただろうに、修吾は貴史が食べ終えるまで何も言わず放っておいてくれた。






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十一時も過ぎた頃、修吾は客を帰し始めた。
貴史が後で聞いたところによると、六時に開店すること以外は特に店にルールはなく、閉店も客が少なければ十時頃、多ければ十二時過ぎてまでも営業するとのことだった。
それでも客の動きから、今日は賑わっている方だと貴史でさえ分かっていた。
それをさりげなく誘導して、修吾はぴたりと十一時半に客を帰し追えた。貴史を除いて。
二人きりの空間に居心地の悪さを感じつつも、無銭飲食な上ずっと泣きっぱなしだった。貴史は落ち着いてからも修吾に申し訳なく、「帰る」の一言が言えないでいた。
それを見越したかのように、修吾がエプロンを外しつつカウンターから出てきた。貴史に近づき隣の席のスツールを引くと少し距離を開けてそこへ腰かける。
「カブと白子のソテーは僕も気に入ってるんですが、お味はいかがだったでしょうか?」
物腰の柔らかい、低く静かな心地の良い声だった。食事と同様、荒れた気持ちを穏やかにしてくれるような。強ばっていた貴史の体から力が抜けていく。自然と口元に笑みが浮かんだ。
「とても、美味しかったです。料理に詳しくないので、どう、形容して良いか分からないんですが……とても優しい味でした。料理で感動したのは初めてです」
貴史は噛み締めるように答えた。その言葉に嘘はない。久しぶりの美味しい食事。ただ単に久しぶりだからではなく、この店の雰囲気や暖かさ。客の談笑に修吾の作る料理そのもの、全てに感動したのだ。
自然と「実咲貴にも食べさせたいな……」と小さく口にしていた。
すると、修吾がその巨躯を少し曲げるようにしてカウンターへと肘をつき、貴史の目をまっすぐ見つめ真摯な声で返した。
「ありがとうございます。えっと……実咲貴さん? ……あのお嬢さんのお名前ですか?あ、それとも奥さまの……?」
「いえ……娘の名前です」
その言葉に修吾は目元を細めて笑み、それから「ワインはいかがですか」と貴史の答えを聞く前に立ち上がった。
「もう店は閉まっているので、僕の晩酌相手になっていただけますか。……僕は良い話し相手になると思いますよ」
「はは、私の話しなんて……」
「商売がら愚痴も惚気も別れ話も聞いてきました。吐き出して楽になるなら、是非話してみてください」
ワイングラスを二つ手にした修吾は再びカウンターの貴史の隣に座り、飲みましょうと言うようにそれを差し出した。
貴史は黙ってグラスを受け取ると、まだどこか言い淀みつつも、ポツリと言葉を口にした。
「娘が、心配なんです」
「実咲貴ちゃんが? ちょっと拝見しただけですけど、可愛らしくてとても元気そうに見えましたが……」
「そう、元気には見えるんです。けれど、妻が……咲良が亡くなってからというものの、僕の料理をほとんど食べてくれなくて」
「奥さまを亡くされて……しかし、実咲貴ちゃんはいったいいつから、普通の食事を取らなくなったんですか?」
「二年前、妻が亡くなってすぐにです。家ではチキンナゲットやポテトばかりで……けれど学校の給食は普通に食べているので、私が悪いのだと思います。目線もなかなか合わせて貰えなくて」
貴史はグラスのワインを一口飲み、あまり酒は強くないのだろう、目元を赤らめながら自嘲する笑みを浮かべた。
「しかも、今年からは学童保育にもからも外されてしまって……、あ、学童は学校が終わった後に預かってくれるところなんですけど、家で一人で留守番をさせなくちゃ行けなくなって、もうどうしたら良いか……」
「そう、なんですか。それはご心配ですね」
二人の間にしばらくの沈黙があったが、二人ともが実咲貴を思い浮かべているのには違いなかった。
そして、うん、と軽く頷く仕草で最初に声を発したのは修吾だった。なにかを決心したかのようにふいに立ち上がるとカウンターの中、キッチンスペースへと入っていく。
「ねぇ、貴史さん」
冷蔵庫を覗き込み、何やら取り出しながら修吾が横顔で笑った。
「その悩みを一気に解決するのは困難かもしれません。けど、少しずつなら解決できるかもしれませんよ?」
「え……?」
「まずは、実咲貴ちゃんの明日の朝ご飯を考えてみませんか?」
卵と食パンを手ににっこりと笑う修吾に、貴史は何事かと戸惑いの眼差しを向けた。






翌朝、貴史はいつもよりほんの少しだけ早く起きた。
実咲貴を起こさないよう手早く身支度をすると、冷蔵庫を開ける。そこには大きめのタッパーが入っていた。
そっとタッパーを持ち出すと、貴史は蓋を開いた。黄色い卵液に浸った食パンが顔を覗かせた。
「よし、やるか」
卵液に一晩浸して柔らかくなった食パンを、修吾の指示どおりにたっぷりのバターで焼く。片面にほどよい焦げ目がついたらひっくり返してまた焼く。ジューという音と、バターの焦げた良い香り。さらにバニラの甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「焼くときに、押し付けちゃダメですよ。ふんわりした焼き上がりをイメージしてください」
修吾の声を思い出す。昨夜、目の前であっという間にフレンチトーストの下ごしらえを終えた修吾は出来上がったそれをタッパーに卵液ごと詰めながら焼き方のコツを教えてくれた。それから、小さなコーンサラダを作ると小皿に盛ってラップをかけ、それも貴史に持たせた。
しきりに恐縮する貴史に、修吾は「頑張ってくださいね」と軽く背中を叩いた。
きつね色に焼き上がったフレンチトーストをふんわりと皿に盛る。メープルシロップを脇に添えて、サラダとナイフ、フォークまで準備する。牛乳をレンジにかけてから、貴史は慎重な面持ちで実貴の部屋のドアを叩いた。
「実咲貴ー、朝だぞー」
ノックして数秒、声をかけてたっぷり十秒はかかってから実咲貴がうーん、と寝返りを打った。貴史は仕方なく部屋へと入り、カーテンをさっと引き開ける。快晴だ。
「実咲貴、晴れだぞ。早く起きて、朝ご飯を食べよう」
朝ご飯の声にベッドの中でもぞもぞとしていた実咲貴がピクリと反応した。布団を被りゆるゆると首を振る。
「……朝ご飯、いらないもん」
「そう言わずに、いいからおいで」
「えー……いらないのにぃ……」
そんな実咲貴を微笑みながら貴史は「今日の朝ご飯は誰が作ったと思う?」と少し意味ありげな問いかけをした。






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「え、これ、いっちゃんが作ってくれたの!?」


朝食のテーブルを一目見て、実咲貴は歓喜の声をあげた。
「ねぇいつ? いつ来たの!? いっちゃん」
「んー……秘密」
「パパ、ズルいー。いつからいっちゃんと友達になったの!?」
前のめりにテーブルへとつくと、既にもうフォークを握っている。「シロップはたっぷりと」と昨夜の修吾の声がした気がした。貴史は笑いながらメープルシロップをタタタッと溢れるほどに皿へと落とした。
シロップを注ぎ終わるか終わらないかの内に、実咲貴はフォークで柔らかいパン生地を切り崩し大きく口を開けて頬張る。
「んっ! おいしい! パパ! パパもいっちゃんのフレンチトースト食べよ?」
シロップを頬につけた実咲貴は興奮して大はしゃぎだ。ホットミルク片手にサラダまで平らげてしまう。
貴史も自分用に焼いたフレンチトーストに口をつけたが、今まで食べたことのないくらい柔らかかった。スフレのような食感にあまり甘くない、どちらかと言えばしょっぱいパンにたっぷりのシロップが合っている。思わず「美味いな」と実咲貴と顔を見あわせたほどだった。二人の視線が真っ正面から合うのは本当に久しぶりだった。
目の前の二つの皿が綺麗になった後、実咲貴は満足そうな笑顔で向かいの貴史を見上げた。
「ごちそうさまでしたっ!」
手も口もシロップでベタベタになりながら、最高の笑顔で実咲貴は貴史に駆け寄った。どこかもじもじとした様子で、実咲貴は小さな声で囁く。
「パパ、今度は実咲貴が起きてるときにいっちゃん呼んでね?」
「ああ、分かったよ」と答えながら、根本的な解決には至ってない筈なのに、どこかホッとしている自分がいることに貴史は気づいた。
その日は、実咲貴を急遽ベビーシッターに頼むことにしていた。
「あと、お留守番の件ですけど。とりあえず春休みのあと数日、数時間だけでもお試しでご利用されたらいかがですか?」という修吾の提案は目から鱗で、フレンチトーストの下準備をする修吾の横で、貴史はすぐさまウェブ申し込みを行った。
深夜も利用できるというその会社「キッズリンク」はすぐに返事をくれ、今日から六日間、春休みの終わりまで、毎日午前十一時から午後二時までの三時間でシッターを派遣してくれるということになった。

「いいかい? キッズリンクっていうところから田所さんっていうお姉さんが来るからね。顔の写真をつけたカードを見せてくれるから、玄関を開けてあげて?」
「分かった」
真剣な眼差しで頷く実咲貴はしかし、なぜシッターが必要なのかはよく分かっていなさそうだった。ただ、家に大人が来て遊んでくれるらしいことは理解できた様子で、貴史が冷蔵庫に「キッズリンク 田所さん」と貼り出した画用紙の文字を何度も嬉しそうに読み上げていた。
こういうときに、人見知りのない子で良かったと貴史はつくづく思う。
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃーい」
貴史はいつもの通勤バッグと手提げバッグを手にとった。手提げにはフレンチトーストとサラダを入れて貰ったタッパーが二つ入っていた。洗ったそれを仕事終わりに修吾へと返そうと思っていた。
(本当に感謝してもしきれない。そうだ、お礼はどうしよう)
そんなことを考えながらも、会社に向かう貴史の足取りは久しぶりに軽かった。





仕事の昼休みにちょうど、シッターの田所さんから連絡が入っていた。
業務の一環ということらしく、簡潔な文章に、笑ってナゲットを両手で掴んでいる実咲貴の写真が添付されていた。
『実咲貴さんはしっかりご飯も食べられて、元気に過ごされています』
ほっと息を吐くと同時に、「今は良い、けど春休みが過ぎたら」と思うとどうしても不安は拭うことができない。
(また修吾さんに相談してみようか)
ぼんやりとそう考えかけて、すでに相当修吾への警戒心を解いている自分を自覚し、貴史は首を緩く振った。
(ちょっと親切にされただけでこれだ。実咲貴の親としてもっと頑張らなくちゃなぁ)
田所への簡単な返事を打って貴史は缶コーヒーを一口啜った。
仕事をいつも通り定時に上がり、家路を急ぐ。そして途中で、歩く速度を緩めた。修吾は六時に店を開けると言っていた。顔を出すのはちょうどオープンに合わせれば良いだろうか。
それでも開店十分前には店に着いてしまった。
店前の看板には「close」の札がまだかかっている。
扉の擦りガラス越しに中を窺うと、ぼんやりとだが柔らかい明かりと人が立ち働く影が見えた。軽くノブを押すと扉はさしたる抵抗もなく開く。カランと小気味良いベルの音が鳴った。
「お邪魔、します」
「いらっしゃいませ。まだ準備中なんで、とりあえずお席に……って、貴史さん?」
対面のキッチンスペースから顔だけを覗かせて、申し訳なさそうに告げた修吾の顔が貴史を認めてパッと華やいだ。逆に貴史は昨日の醜態を思い出し僅かに顔を赤らめた。
(そうだ、昨夜、この人の前で泣いてしまったんだ……)
「あ、あの。昨夜は本当にありがとうございました。お料理も、あとお話も聞いていただけて。それでこれ、お返しするタッパーなんですが──」
貴史は思わず口早に謝礼を述べる。カウンターへと空のタッパーを急いで取り出した。しかしそれを遮るようにして、修吾が嬉しげにカウンター越しに笑った。
「実咲貴ちゃん、どうでした?」


そうだ、それもお礼を言わなくては、と貴史はパニックになる。パニックになるから一層顔が熱くなる。
「あ、はい、とても喜んで食べてくれました。「いっちゃん」……修吾さんの名前を使わせてもらったら、一瞬で。家であんなに美味しそうに食べる実咲貴を見るのは久しぶりです」
「なら良かった。貴史さんも、美味しく食べられました?」
なんで自分の感想が? と思いつつも貴史は少し落ち着きを取り戻し、一段高いキッチンに立つ修吾を見上げた。
「──はい、それはもう美味しかったです」
「お口にあったようで良かったです。それで、明日なんですけど、これ。はい」
差し出されたのはまたタッパー二つだった。
「チキンとキノコのキッシュとポテトサラダです。どうぞお召し上がりください」
「え」
驚きはぐいっと押し付けられるタッパーのふんわりとした温もりと、修吾の笑顔に押しきられてしまった。
「お礼は……そうですね。良かったら今夜も実咲貴ちゃんが寝たあとにでもご飯を食べに来てください」
首を傾げて笑う修吾と貴史の指先が一瞬絡んだ。その意外な冷たさに驚きつつも触れ合った指先はなぜか温まった気がした。






一修吾はゲイだ。
物心ついたときから三十六のこの年齢まで、男以外を好きになったことなどない。
十代はいつも誰かに恋をしていた。そのどれもが大概は上手くいかなかったが、ほんの僅か上手くいった恋もあった。
修吾は恋多き男で、十五で脱童貞し、同時期に処女も失った。
その結果分かったことは、自分はいわゆるタチ側の人間だということだった。
高校卒業を迎えたときにカミングアウトし、激怒する父、嘆く母、呆然とする妹や驚く友人達を残し家を出た。行く先は日本の首都……の隣の県だった。そこに有名な調理師専門学校があった。
それ以来、実家がある県には近寄ってもいない。
なぜ調理の道を選んだかと言えば、漠然とした興味があったとしか答えられない。
ゲイの自分は生涯手に付くような職が良いだとか、子や孫に残す財産も必要がないから身一つで生きていければそれで良いとか、ぼんやりと考えていたような気はする。学校での調理実習が楽しかったことが原因かもしれなかった。
そこそこ名のあるフレンチレストランで下積みし、次はイタリアンに転職し、ある程度資金の貯まった三十五の年齢で念願の自分の店を持てた。
レトロで安価、大衆食堂のようなレストラン、ビストロにした。料理はフレンチを中心に、純粋な和食以外ならなんでも作った。古びた商店街の閉店した喫茶店を買い取れた。内装は極力変えずに、キッチンとトイレ周りだけを改装した。
客はすぐに集まった。元々その喫茶店に通っていた老人達に、夕食を食べる場所を探し求めていたサラリーマン。洋食に力をいれたラインナップに、すぐさま家族連れも来てくれるようになった。周囲に競合店がないのが幸いした。
二十代、三十代と仕事は楽しく、また故郷よりも随分と都会が近い環境で大いに遊んだ。
店を持ってからはなかなか好きに恋愛や遊びを楽しむことも制限されたが、それはそれで楽しかった。
修吾は過去を思い出しながら、店のカウンターに腰かけ珈琲を口に運んだ。
最近は店の経営に忙しく、暫く恋人は作っていなかった。
そしてそんなとき、三坂貴史と出会った。
ぶっちゃけて言えば、好みだった。一目惚れだ。
その存在を知ったのはたまたまだった。
夕暮れ時に、今から「さぁ今日も仕事だ」と近道に公園を横切ったときだった。
目の前にぽーんとビニール袋が飛んできた。思わず拾うと、中はほくほくと暖かく紙袋に包まれた揚げ物の良い匂いがした。
そして、目の前に現れたのだ。その男が。
黒く短い髪を素直に下ろして、濃い灰色のスーツ姿。修吾よりは十歳程度年下だろうか。濡れたような黒目がちの瞳は意思が強そうな光を称えている。身長は平均的だが鍛えられた身体と幼さの残る顔面のギャップが良かった。生真面目で、慎重、少し頑固……な性格だろうか。
だが、その落とされた肩や少しふらふらとした動きからは倦怠感と疲れ、哀愁が漂っていた。
彼は女の子を連れていた。
「あぁ、なんだ残念。既婚者か」そんなことを考えながら彼らに話しかけた。久しぶりに心が踊っていた。
再会はすぐに訪れた。
名刺を交換し、少し話もできた。相変わらず疲れた様子だったが、僅かながら笑みを返された。天にも昇る気持ちだった。久しぶりに、恋の予感がした。……相手が妻子持ちだとしても、想うくらいなら許されるだろう。






三回目の再会は驚くべき事に、貴史の店への訪問だった。
貴史が夜遅く、普段着よりも少し雑な服装で店に現れたことに、修吾は驚かざるを得なかった。
本人は気付いていないかもしれないが、蒼白の顔な上に足取りも覚束ない。メニューをぼんやり視線で追っているだけで、内容など頭に入っていないようだった。
「すみません。財布を、財布を忘れてしまって……だから注文は」
「ああ、そうなんですね」
修吾は貴史を怯えさせないように微笑んだ。貴史は疲れきっているように見えた。
恐る恐るという風に料理を口に運ぶその姿を修吾は横目で眺めていた。
泣いているのに気づいたときには、思わず触れたい衝動に駆られたが黙って黙々と注文を捌くことに専念した。貴史はただでさえ、はりつめた雰囲気だった。ここで声をかけてはいけない、好きに泣かせてやった方がいいと修吾は判断した。
あとはもう必死だった。客を早く帰らせて、貴史が落ち着くのを待った。
泣き腫らした目は色っぽく、つい手を伸ばしたくなった。
話の最中に、奥さんと死に別れたと聞き、修吾は不謹慎ながら心のなかでグッと拳を握ってしまった。もちろん、結婚していたということはストレートの男性だ。ただ、望みは薄いにしても、既婚者であるよりずっと良かった。
フレンチトーストとサラダを持たせたのに、最初は下心などなかった。
直向きに子供と向き合おうとする姿がいじらしくて、つい申し出たのだった。
けれど後になって気づいた。あの実直そうな貴史のことだ。また店にやって来るだろう、空のタッパーを持って。
誰かを好きになるなんて久しぶりだった。まだ数えるほどしか会っていないのに、恋心が湧いてくる。修吾は気持ちを圧し殺すタイプではなかった。
次に出会うそのときには──。
もう逃げられないよう捕まえてしまおうと、修吾は心に決めた。




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(指を……握られた気がする)
貴史はコートのポケットの中で指先を擦り合わせながら、先程触れた修吾の指先を思い出していた。
修吾の店を出た帰り道だった。
実咲貴以外の人間に触れたのはいつぶりだろうか。料理人は手が冷たい……というのは寿司職人の話だったか。どちらにしろ修吾の指は冷たく滑らかで、その指先がそっと貴史の指先を握って離れた……ような気がする。
(励ましかなにかだったのかな。そんなに疲れて見えてるのか、俺)
貴史は、今まで周囲から子育てで苦労してると思われたくなかった。
それはそのまま実咲貴を「可哀想な子」にしてしまうからだ。
「お母さんがいない可哀想な子」、「一人親で寂しい子」、「親が苦労して育てている子」、そんなレッテルを勝手に、実咲貴に貼られたくなかった。
自分一人でもきちんと子育てができるんだというプライドもあった。
しかし、修吾の店で泣き、事情を話したことで、一時的とはいえかなり気持ちは楽になっていた。
(不思議な人だな。なんか……側にいると楽になれるというか)
修吾は一見体格が大きく、圧迫感がある。しかし屈託のない笑顔がそれを感じさせない。押し付けがましくない程度に先を読んできて、丁寧に、親切に接してくれる。甘えてはいけないと思いながらもその心地よいお節介が何より嬉しいのだから、手に負えなかった。


日常は穏やかに過ぎていった。
貴史は毎晩修吾の店を訪れて少し遅い夕飯を食べる。修吾は甘やかし上手だった。大の男の成人男性が甘やかされるのはどうも……と感じつつ、差し伸べられるその手の大きさと頼りがいのある笑顔に自然と惹かれていた。単なるご近所さんとはすでに呼べなくなっていた。
好意とでもいおうか。貴史の気持ちは急速に修吾へと傾いていった。
休みの日には家まで来て実咲貴の遊び相手をしてくれる。そして昼食や夕食を一緒に作り、食べて笑い合う。ついつい、味見などを任されるとこの味付けには愛情がスパイスとして入っているんでしょ、などと茶化される。そういうなんでもない会話が心地よかった。
しかしそんな日々は長くは続かなかった。4月だというのに肌寒いその夜。
「ビストロ・ソワール」に来店した貴史が見たのは信じられないような光景だった。
いつものように家事を終えて店に来たのは二二時過ぎ、貴史はその夜も修吾のスペシャリテを口にしていた。今日はウニの暖かいスープと鶏肉のディアボロ風だった。どれもしっかりと味がついているのに食べるとほっと温まるような料理だった。常連もみな帰り、二人だけになるとカウンターの奥から秘密ですよと言って修吾がワインを出してくれた。ほっこり温まる料理とおいしいワインで貴史はついグラスを空けてしまう。
カランと入口のベルが鳴った。「もう閉店ですよー」という修吾の済まなそうな声を無視してその男は入店してきた。
「修吾、相変わらず地味な店。もっと華やかな場所でやればいいのにさ」
店に入ってきた瀬乃香月(せのかつき)という男は、そう言うと勝手に貴史の隣のカウンターへ腰かけた。。金髪をラフに遊ばせ、彫刻みたいに整った顔立ちには、見る者を小馬鹿にするような不敵な笑みが張り付いている。 タイトなレザーパンツに包まれた長い脚を組み、オーバーサイズの白いファー付きのダウンコートを身にまとい、わざとらしく貴史の方へ身を乗り出してくる。
その男から漂う野性的で、それでいて計算された色香に圧倒され、貴史は思わず椅子を引いた。
修吾はといえば、さっきまでグラスを磨いていた手を止め、指の関節が白くなるほど強くそれを握りしめていた。
「香月……お前、なぜここが分かった」
「冷たいなあ。元カレの様子を見に来るなんて、よくある話でしょ?」
香月は修吾の困り果てた様子を、まるであざ笑うかのように手を叩いてはやし立てた。元カレ……?
修吾の額にはうっすらと汗が滲み、あの大きな身体が、まるで化け物でも見たかのように微かに震えていた。貴史の知っている修吾は、いつも堂々としていて、すべてを温かく包み込んでくれる人だったはずだ。それが、この派手な男の一言で、怯える子供のように縮こまっている。
香月は貴史の視線に気づくと、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。
「ねぇ、君。そんなに引かないでよ。修吾はね、昔から君みたいな『幸薄そうなタイプ』を狙うのが趣味なの」
「香月、やめろ! 三坂さんは大事なお客様だ!」
修吾の悲鳴に近い制止を、香月は軽やかに笑い飛ばした。
「お客様? 嘘おっしゃい、ほらほら怖い顔しちゃってぇ。修吾がよっぽど熱心に『手懐けた』証拠じゃない? ホモなんですよー、この人♡」
香月の手が、貴史の肩に馴れ馴れしく置かれた。長い指先が、貴史のカーディガンの生地をなぞる。
「君さ、気をつけたほうがいいよ。こいつの優しさは全部、男をベッドに誘うための『エサ』なんだから」
貴史の耳の奥で、ドクンと心臓が跳ねた。
ベッド。男。誘う。
バラバラだったパズルのピースが、香月の吐き散らす悪意ある言葉で無理やり連結されていく。修吾が自分に向けていたあの熱を帯びた眼差しも、ふとした瞬間に触れる手のひらの温度も、すべては性的な意図を持ったアプローチだったのか。そう突きつけられた瞬間、貴史の足元から血の気が引いた。
「……修吾さん。今の話、本当なんですか」
貴史の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。
修吾はキッチンの奥で、逃げ場を失った動物のように視線を彷徨わせていた。
「貴史さん、僕は……僕はただ、貴方と実咲貴ちゃんが……」
「修吾はゲイなんだよ。それも、かなり執着心が強いタイプ」
香月が追い打ちをかけるように、貴史の耳元でニヤニヤしながら囁いた。
「君みたいなウブな子羊を、じっくり煮込んで食うのがこいつの流儀なんだ」
修吾の顔から一気に血の気が引き、真っ白になった。カウンターに両手をつき、今にも崩れ落ちそうなのを必死で耐えている。
「違います、僕は! 香月、嘘を言うな! 貴史さん、僕は決して、そんな不純な……!」
「不純……?」
貴史の中で、何かが音を立てて壊れた。
男が男を愛する。その発想自体、今の貴史には生理的な嫌悪を伴うものにしかならなかった。
死んだ咲良との思い出を必死に守りながら、一人で娘を育ててきた。その神聖な苦闘の中に、この男は「ホモ」なんていう歪んだ性欲を持ち込んだのか。あろうことか実咲貴にまでベタベタと触れさせ、父親である自分まで毒そうとしていたのか。
修吾の膝の上で笑う実咲貴の姿が脳裏をよぎり、激しい戦慄が走った。
「汚い手で、触らないで下さい」
絞り出されたその言葉は、修吾の胸をナイフのように正確に貫いた。修吾は絶望に染まった目で貴史を見つめ、唇をガタガタと震わせていたが、もはや言葉すら出てこないようだった。
「娘に、実咲貴に二度と近づかないでくれ。あんたみたいな『異常者』に、あの子を触らせていたなんて……親として失格だ!」
貴史は椅子から立ち上がると、肩に乗っていた香月の手を全力で振り払った。
香月は「おっと」と芝居がかったポーズで肩をすくめ、愉快そうに修吾を振り返った。 「あーあ、壊しちゃった。ごめんね、修吾。でもさ、嘘は良くないよ?」
貴史は修吾の顔を二度と見ることなく、逃げるように店を飛び出した。冷たい夜風が頬を刺すが、火照った恥ずかしさと怒りは一向に冷めない。マンションに着くなり、玄関の鍵を二重にかけ、チェーンまで通した。壁の向こうから這い寄ってくる化け物から逃げるように。


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翌朝、六時。
いつものように、ドアの外で僅かな物音がした。タッパーを置く、あの静かな音だ。 昨日までなら、それだけで救われるような気持ちになった音。だが今は、それが実咲貴の寝首を掻こうとする悪魔の爪音にしか聞こえない。貴史はドアに駆け寄り、内側から狂ったようにドアを殴った。
「帰れ! 二度と来るなと言っただろう!」
外の気配がピタッと止まった。重苦しい沈黙の後、力なく遠ざかっていく足音が聞こえ、貴史はその場にへたり込んだ。
「パパ? いっちゃん、いないの……?」
目を覚ました実咲貴が、廊下で不安そうに立っていた。
貴史は立ち上がると、実咲貴の小さな肩を、強く掴んだ。指が震えているのは先程修吾を追い払った負い目だとは思いたくなかった。
「実咲貴、ごめんな。あのおじさんは悪い人だったんだ。パパたちを騙して、おかしなことをしようとしてたんだよ」
「そんなことない! いっちゃんのごはん、おいしいもん!」
「ダメだって言ってるだろ!」
貴史の怒声に、実咲貴はビクッと体を震わせ、次の瞬間にはわあわあ泣き出した。
「ああ……ごめん、ごめんよ。でも、実咲貴を守るためだから」
その火がついたように熱い身体を抱きしめながら貴史は小さくつぶやいた。


その日から、貴史の独断による「正常な生活」への矯正が始まった。
修吾と接触させないために、貴史は実咲貴を朝五時に起こし、まだ外が真っ暗なうちに出発した。預け先は、会社から二駅も離れた場所にある、古びた託児施設だ。そこには何の教育プログラムもなく、ただ狭い部屋に子供たちが押し込まれているような場所だった。 「いいかい? いっちゃ……あのおじさんのことは全部忘れるんだ。あんなのは……親切な人じゃないんだ」
自分に言い聞かせるように何度も伝えて、泣きじゃくる実咲貴を職員に無理やり預けた。
しかし、そんな無茶な生活が回るはずもなかった。
仕事中もずっと神経が尖りっぱなしで、修吾が合鍵を作って部屋に入ってくるんじゃないか、実咲貴を連れ去るんじゃないかと、そんな妄想ばかりが頭をぐるぐる回る。一度異常な連中だと思い込んだら、修吾の今までの優しさが、すべて誘拐犯の下準備にしか見えなくなった。
昼休み、貴史は弁当を食べる気にもなれず、ただコンビニの苦いコーヒーを胃に流し込んだ。修吾の作ったあの温かいフレンチトーストの味を思い出すたびに、貴史はそれをバイ菌のように脳内から消し去ろうと必死になった。
夕方、すっかり疲弊した身体を引きずり実咲貴を迎えに行くと、娘は部屋の隅っこで膝を抱えて、まるで生気のない顔で座っていた。
「……帰ろう、実咲貴」
実咲貴は何も答えず、ぼーっと貴史の後に続いた。
家に着いても、会話なんて一つもない。
シンクには洗っていない食器がピラミッドのように積み上がり、生ゴミの嫌な匂いが漂っている。掃除機をかける余裕さえないから、床には実咲貴の抜け毛や綿埃が散らばり、足の裏に不快な感触が残る。
夕食はまた、あのスーパーのチキンナゲットだ。
実咲貴は以前のようなぼんやりとした無表情のまま、それを機械的に口に運び、飲み込んでいる。修吾のごはんを食べていた時の、あの太陽のような笑顔はどこにもなかった。
貴史自身も、ストレスから胃がキリキリと痛み、何も受け付けない。脱ぎっぱなしの服が散乱するリビングで、貴史は呆然と座り込んだ。
咲良がいなくなってから、修吾が必死に繋ぎ止めてくれた「家庭」が、貴史自身の手でバラバラに壊されていく。
深夜、天井をじっと見つめながら、上の階の住人の気配に耳を澄ませた。
あいつは今、何を思っているのだろうか。
あの時、彼が流そうとした涙は、俺たちを食い物にできなかった悔しさだったのか、それとも……。
そこまで考えかけ、貴史は激しく首を振った。
「違う……あいつはゲイなんだ。まともじゃないんだ。俺たちは、これでいいんだ……」 ゴミ屋敷のようになった部屋で呟く貴史の声は、虚しく響くだけだった。
回らなくなった家事、泣かなくなった娘、ボロボロの肉体。
正しい道を選んだはずなのに、元に戻っただけなのに。貴史はただ、静かに崩壊する日常を見つめるしかなかった。

生活が荒廃し、精神が摩耗していく中で、貴史の心は皮肉にも、拒絶し傷つけた修吾のことを考えることが増えていった。
ふとした瞬間に、鼻の奥が修吾の店のスパイスの香りを思い出す。スーパーの惣菜コーナーで、プラスチック容器に入った味の濃いキッシュを見かけるだけで、修吾が焼いてくれたあの震えるほど繊細な卵の甘みが蘇り、吐き気と切なさが同時に込み上げる。
「忘れなきゃいけないんだ。あんな、おかしな奴のことなんて」
独り言を呟いても、声は虚しくゴミの散らかったリビングに吸い込まれるだけだった。
貴史が恐れていたのは、修吾が異常であること以上に、自分の中にある飢えのような感情だった。
どんなに「不潔だ」「汚らわしい」と罵ってみても、夜、冷え切った布団の中で思い出すのは、あの帰り道に触れた修吾の指先の熱だ。あの一瞬の接触が、凍りついていた貴史の孤独をどれほど溶かしてくれたか。温かな手料理がどんなに胃を満たしてくれたか。それを認めそうになるたび、貴史は激しい自己嫌悪に陥り、さらに頑なな態度を自分に強いた。
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そんなある日の夕暮れ時だった。
無理な早退を繰り返し、上司から冷ややかな視線を浴びて会社を出た貴史は、実咲貴を迎えに行く途中の駅前で、見てはいけないものを見てしまった。
人混みの中で、ひときわ背の高い、見間違えるはずのない後ろ姿。修吾だった。
修吾は一人ではなかった。あの夜、店に現れた瀬乃香月でもない。別の若い男と並んで歩いていた。
修吾はその男の話に耳を傾け、時折、あの屈託のない、周囲を明るくするような笑顔を見せている。その笑顔は、かつて貴史や実咲貴だけに向けてくれていると信じていた、あの慈愛に満ちた表情そのものだった。
その瞬間、貴史の視界が真っ黒に塗りつぶされたような感覚を味わった。
心臓を素手で握りつぶされたような、激痛と衝撃。
それは異常者に対する嫌悪感などではなかった。紛れもない、猛烈な、そして醜いほどの嫉妬だった。
(なんで、あんな風に笑ってるんだ。俺たちをあんなにめちゃくちゃにしておいて、どうして他の誰かと幸せそうにできるんだ)
貴史は足が震え、その場に立ち尽くした。 あんなに酷い言葉で拒絶し、あんなに汚いものを見るような目で見たのは自分だ。修吾が誰とどこで笑おうと、今の貴史には文句を言う権利など一欠片もない。
それなのに、修吾の隣にいる見知らぬ男を突き飛ばしてやりたいという衝動が、どす黒い塊となって喉元までせり上がってくる。
(嫌だ。あんな顔を、他の奴に見せないでくれ。俺を見てくれ、俺に笑いかけてくれ……)
自分の心から溢れ出したドロドロとした本音に、貴史は戦慄した。
守るためだと言い聞かせて実咲貴から笑顔を奪い、自分の生活を破壊してまで貫こうとした「正義」の正体が、これだったのか。
ホモフォビアという言葉の鎧を纏って必死に守っていたのは、世間体でも娘の安全でもない。 修吾を好きになり、彼に依存し、彼の一番になりたいと願ってしまった、自分自身のエゴだったのだ。
貴史は逃げるようにその場を離れ、実咲貴の待つ託児施設へと走った。
冷たい汗が背中を伝う。
怖い。
修吾がゲイであること以上に、彼がいない世界では息もできないほど、彼を欲している自分が怖い。
「パパ……?」
施設から出てきた実咲貴が、貴史の異様な形相を見て怯えたように声を上げた。
貴史は返事もできず、ただ娘の手を強く引き、人混みをかき分けた。
自分の感情の正体に気づいてしまった今、昨日までの「正しい生活」は、空虚であったと認めざるを得ない。修吾のいない生活、修吾のいない食卓。そんなものはくそくらえだ。
マンションの自室に辿り着き、重い玄関扉を閉めた後も、貴史の心臓は早鐘のように打ち続けていた。
先ほど駅前で目撃した、修吾のあの屈託のない笑顔。それが自分ではない、見知らぬ若い男に向けられていたという事実が、貴史の脳内にどす黒い染みを広げていく。
かつて、修吾がこの部屋のキッチンに立っていた時のことを、貴史は嫌でも思い出してしまった。
実咲貴の偏食を心配し、野菜を細かく刻んで色彩豊かなテリーヌを作ってくれた修吾。実咲貴が「これ、美味しい!」と声を弾ませるたび、彼は大きな身体を丸めるようにして、本当に嬉しそうに目を細めていた。
寝付けない実咲貴のために、修吾がそっと頭を撫でながら、温かいミルクを淹れてくれた夜もあった。その時の彼の指先は驚くほど優しく、まるで壊れ物を扱うような慎重さで、母を亡くした娘の孤独に寄り添ってくれていた。
(あんなに温かくて、穏やかで……。でも、あれも全部「男」として俺を誘うための演技だったのか……?)
そう自分に問いかけるたび、猛烈な拒絶感が胃の底からせり上がってくる。
男が男を愛するなんて、まともじゃない。ましてや、父親である自分をそんな対象として見ていたなんて、生理的に受け付けないはずだった。
だが、その「嫌悪」のすぐ裏側で、別の感情が鎌首をもたげる。
(あの笑顔を、あの優しさを、今は別の誰かに向けているのか。あの大きな手のひらで、今は別の男に触れているのか……)
そう嫉妬にまみれた脳内で考えれば、実は自分こそがあんなに忌み嫌っていたホモなんじゃないかと一層の自己嫌悪に陥る。






「パパ……、ナゲット、もういらない」
実咲貴の弱々しい声に、貴史は我に返った。 机の上には、冷え切って油の浮いたチキンナゲットが転がっている。かつて修吾が用意してくれた、湯気の立つ滋味溢れるスープとは比較するべくもない。
「……残しちゃだめだぞ。食べなきゃ、病気になる」
絞り出した声は低く、自分でも驚くほど冷淡だった。実咲貴はビクッと肩を震わせ、黙って箸を置いた。
以前の修吾なら、こんな時、実咲貴を無理に急かしたりはしなかったはずだ。
『実咲貴ちゃん、今日はパパもお疲れみたいだから、一緒にこれを食べようか』
そう言って、魔法のように楽しい食卓に変えてくれた、あの温もりが。 自分にはできない、彼にしか持ち得なかったあの救いが、今は別の誰かの元にある。
(返してくれ。俺のところに……。いや、違う、あんなに傷つけたんだ戻ってくれなんて都合の良い事は言えない……)
貴史は、拒絶と執着の狭間で引き裂かれていた。
ゲイという存在への、古臭く頑なな偏見。一方で、自分と娘の生活をあれほどまでに豊かにしてくれた修吾個人への、言いようのない、ぼんやりとした憧憬。
その矛盾が、貴史をどこまでも追い詰めていく。
深夜、貴史はゴミの散乱するリビングのソファで、修吾から借りたままの予備の鍵を握りしめた。
この鉄の塊を返してしまえば、自分と修吾の繋がりは完全に断たれる。
そうすれば「まともな父親」に戻れるはずなのに、指は鍵の冷たさを離そうとはしなかった。 修吾が今、上の階で誰を想っているのか。 捨てるべきだと分かっていたのに、どうしても捨てられなかった鉄の塊。 その冷たさが、今の貴史には唯一の、修吾との繋がりだった。
(俺は、どうすればいいんだ。どうしたいんだ……あんなに酷いことを言って、今更、どの面を下げて……)
夕闇が迫る街角で、貴史は声を殺して泣きそうになった。 正しい生活に戻ろうとすればするほど、修吾という存在が貴史の魂の深い場所へと根を張っていく。
拒絶は、防衛反応だった。
好きになってはいけない人を、これ以上なく愛してしまう自分を止めるための、精一杯の、そしてあまりにも愚かな最後の抵抗だったのだ。


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翌日の夕暮れ時だった。
荒廃した生活を立て直す気力も湧かぬまま、貴史は実咲貴を連れてスーパーからの帰り道を歩いていた。
商店街の入り口を通りかかったとき、貴史の足が凍りついた。
数メートル先、買い出しの大きな紙袋を抱えた修吾が、こちらに背を向けて歩いていた。 あの時駅で見かけた別の誰かはいない。一人、いつもの少し猫背気味な、けれど大きな背中。
貴史の心臓が、喉から飛び出しそうなほど激しく鳴った。逃げ出したい衝動と、追いかけたい衝動が脳内で激突する。
その葛藤に決着をつけたのは、実咲貴だった。
「あ、いっちゃ、ん……!?」
かすれた、けれど切実な娘の声。
修吾が弾かれたように振り返った。
一瞬、彼がいつものように破顔するのではないかと期待してしまった。だが、修吾の顔に浮かんだのは、見たこともないような怯えと、深い拒絶の色だった。
修吾は貴史と視線が合うなり、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、踵を返して走り出した。
「待って……待ってください!」
考えるより先に身体が動いた。実咲貴を抱き上げて、貴史は修吾の背中を追って商店街の雑踏を駆け抜けた。
「修吾さん!」
ビストロの勝手口に逃げ込もうとする修吾の腕を、貴史は背後から全力で掴んだ。 がっしりとした、けれど震えている二の腕。
「……離して、ください」
修吾の声は、ひどく掠れていた。彼は貴史の方を向こうともせず、ただ固く目をつむっている。
「あ、あの……昨日は、その、駅前で……貴方を見ました」
言い訳にもならない言葉を並べようとする貴史の手を、修吾がゆっくりと、けれど確かな拒絶の力で振り払った。
「はは、見られてましたか。……俺は、汚いでしょう?」
修吾がようやく振り返った。その瞳には、あの夜、貴史が投げつけた「異常者」「汚い手」という言葉の刃が、今も深く刺さったままだった。
「貴方が言ったんです。まともじゃない、娘に触れさせるなと。……その通りです。だから、もう追ってこないでください。貴方の正しい世界を汚したくないんだ」
その言葉は、どんな罵倒よりも鋭く貴史の胸を抉った。
修吾はそのまま店の中に消え、重い鉄の扉が閉まった。ガチャン、という鍵の閉まる音が、決定的な別れを告げる鐘の音のように響いた。
貴史は、冷たく閉ざされた鉄の扉に額を押し当てた。
指先は震え、膝は今にも崩れ落ちそうだった。
背後では、実咲貴が不安げにパパの背中を見つめている。
この場所で、修吾がどれだけ心を込めて料理を作り、自分たちを待っていてくれたか。
それをおぞましいものとして切り捨てた己の傲慢さが、鋭い痛みとなって胸を抉った。


「修吾さん……。聞こえていますか」
貴史の声は、夜の帳が下り始めた裏路地に低く響いた。
「身勝手なのは分かっています。あんなに酷い言葉を投げつけて、貴方を……一修吾という人を、この世で一番深く傷つけた。……本当に、申し訳ありませんでした」


扉の向こうからは何の返答もない。
だが、貴史は止まらなかった。ここで退けば、二度と自分の中の「本当」を取り戻せないと確信していた。
「俺は、臆病だったんです。母親のいない実咲貴を、まっとうに育てなきゃいけないって……そのまっとうという言葉に縛られて、一番大切なものを見失っていました。貴方がゲイだとか、そんなことは、貴方が俺たちにくれた温もりに比べたら、何の意味もないことだったのに」
貴史は一度言葉を切り、実咲貴の小さな肩をそっと抱き寄せた。
娘の前で、己の醜さをさらけ出す。それが父親としての最後の誠実さだと思った。
「実咲貴……パパは間違っていた。いっちゃんは、悪い人なんかじゃない。パパが、自分の弱さのせいで、いっちゃんを傷つけたんだ」
実咲貴の瞳に涙が溜まる。貴史は再び扉に向き直り、叫ぶような熱量で訴えた
「修吾さん! 前のようには戻れないかもしれない。でも……もう一度だけ、チャンスをくれませんか。貴方の料理を、貴方の笑顔を、もう一度だけ信じさせてほしい。……俺には、貴方が必要なんです。貴方がいなければ、俺たちの食卓は、あの日からずっと凍りついたままなんだ!」
沈黙が長く続いた。
商店街の喧騒が遠くで聞こえる中、路地の空気だけが重く沈殿している。
諦めて鍵を置こうとしたその時、カチリ、と内側から鍵の外れる音がした。
ゆっくりと開いた扉の隙間から、修吾が姿を現した。
その顔は涙で濡れ、光を失った瞳が貴史を真っ直ぐに見つめていた。
「貴史さん。貴方は、何も分かっていない」
修吾の声は、震えるほどに低く、深い情愛と絶望を孕んでいた。
「僕が、どんな気持ちで貴方と実咲貴ちゃんを見ていたか。ただの隣人として、親切にしていただけだと思っているんですか?」
貴史が息を呑んだ瞬間だった。
大きな影が貴史を覆い、修吾の手が貴史の頬を乱暴に、けれど慈しむように包み込んだ。
熱い唇が、そっと貴史の唇を塞いだ。
それは謝罪を受け入れるための和解の儀式などではなかった。
何年も押し殺し、この街で独り静かに生きてきた男が、初めてさらけ出した剥き出しの飢餓だった。

実咲貴の目の前で、男と男が。
頭が真っ白になり、心臓の音が耳元で爆発する。
修吾の唇の熱さ、縋りつくような手の力。
不意に唇が離れた。
修吾は、肩で息をしながら、真っ赤な目で貴史を射抜いた。
「僕は、こういう関係性を築きたいんです。貴方の隣で、貴方の身体を求め、貴方という男を愛したい。……それが僕の誠実です。貴方は、こんな僕を、受け入れられるというんですか?」
貴史は、言葉を失った。
謝罪をして、また隣人として、良き友人として「元通り」になれると思っていた。
だが、修吾が求めていたのは、そんな生温いものではなかった。
自分を、一人の男として愛するという、逃げ場のない宣言。
修吾は、呆然と立ち尽くす貴史の沈黙を拒絶と受け取ったのかもしれない。
彼は悲しげに口角を上げると、貴史の手から予備の鍵をひったくるように奪い取った。
「……帰ってください、『三坂さん』。僕と向き合えないなら、もう二度とここへ来ないでください」
バタン、と再び扉が閉まった。
今度は、内側から重いかんぬきをかけるような音が響き、周囲を拒絶した。
夜の路地に、貴史と実咲貴だけが取り残された。
扉の向こうからは、もう物音一つしない。
突きつけられたあまりにも重い「愛」という名の最後通牒。
貴史は、自分の唇に残る熱に指を触れながら、ただ暗い鉄の扉を見つめ続けるしかなかった。
その扉は、その夜、二度と開くことはなかった。
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10


鉄の扉が閉ざされた後、貴史は実咲貴を連れて、這うようにしてマンションへと戻った。
夕食は何を食べたのか、どうやって娘を寝かしつけたのかも覚えていない。
ただ、実咲貴の寝顔を確認し、リビングに一人残された瞬間、昨日の出来事が、そして修吾の唇の感触が、津波のように貴史を襲った。
「男を好きになる」
そんな選択肢は、二十六年の人生の中で一度も持ったことがなかった。
亡き妻・咲良を愛し、彼女との間に実咲貴を授かった。それが貴史にとっての「普通」であり、疑いようのない世界の形だった。
だが、今、自分の唇に残っているのは、咲良との思い出よりも鮮明で、暴力的なまでに熱い修吾の体温だ。
修吾を失うことが、これほどまでに恐ろしい。
それが友情や依存ではなく、修吾が突きつけた「男としての愛」に繋がっているのかを確かめるために、貴史は震える指でスマートフォンのブラウザを開いた。
検索窓に、今まで一度も打ち込んだことのない単語を入力する。
表示されたゲイ向けのサイト。そこには、逞しい肉体をもつれ合わせる男たちの姿があった。
貴史は顔を顰め、胃のあたりに不快な重さを感じた。……やはり、興奮できない。男同士の生々しい営みは、貴史にとって異世界の光景でしかなかった。
「……やっぱり、違うんだ」
そう呟き、画面を閉じようとした瞬間。
不意に、あの鉄の扉の前で受けた、触れるだけのキスの熱が蘇った。
修吾の、泣き出しそうな真っ赤な目。自分を求めて震えていた大きな掌。
「……っ」
突如、下腹部が熱くなった。
画面の中の見知らぬ男たちには何も感じなかったのに、修吾に触れられた記憶だけで、体が疼き始める。
貴史はシーツを掴み、情けない声を漏らしながら、ゆっくりと自分の股間に手を伸ばした。
自分を慰めながら、脳裏に浮かぶのは修吾の顔ばかりだった。
エプロンをきつく締め、キッチンで笑っていた修吾。
実咲貴を抱き上げ、慈しむように見つめていた修吾。
そして、あの悲痛な叫びとともに、自分に唇を重ねてきた、一人の人間としての修吾。
その体温を、その重みを、もう一度。
貴史は激しく腰を震わせ、自分でも驚くほどの熱を放って、一人の夜に果てた。
虚しさはなかった。ただ、ドロドロとした執着と、初めて自覚した恋の痛みが、貴史の全身を支配していた。




同じ頃、四階の部屋で、修吾は冷え切ったベッドに横たわり、天井を仰いでいた。
後悔が、毒のように全身を回っている。
「あんなことをするつもりじゃなかった」
誠実に謝罪に訪れた貴史に対し、あろうことか実咲貴の前で無理やりキスを奪った。
その時の貴史の、石のように固まった感触が忘れられない。
あれで、本当に終わってしまった。
優しい隣人という仮面すら被れなくなった自分を、修吾は激しく呪った。三坂貴史は、真っ当な、そして誰よりも真面目な父親だ。あんな無垢な人を、自分の独りよがりな欲望で追い詰めてしまった。
もう、このマンションにはいられないだろう。
店も閉めるべきか。そんな暗い思考が渦巻いていた時、枕元のスマートフォンが短く震えた。
どうせ香月か誰かの嫌がらせだろうと、無視しようとした。
けれど、通知に表示された「三坂さん」という名前に、心臓が跳ねた。
恐る恐る画面を開く。
そこには、一言だけ、掠れた叫びのようなメッセージが綴られていた。
「貴方が好きかもしれない」
修吾は、呼吸を忘れた。
「かもしれない」という、震えるような戸惑い。
だが、それは三坂貴史が二十六年の常識を捨てて、地獄のような葛藤の果てに、修吾に差し出した唯一の手だった。
修吾はスマートフォンの画面を胸に抱き、声を殺して慟哭した。
夜の帳はまだ深い。けれど、閉ざされた鉄の扉の向こう側に、確かに光が差し始めたことを、二人はまだ知らない。




「ぱぱといっちゃんは、けっこんするの?」
翌朝、食卓でトーストを齧っていた実咲貴が、何でもないことのように首を傾げて聞いてきた。
貴史の喉が、引き攣った音を立てる。コーヒーを飲み込もうとしたタイミングでその問いをぶつけられ、激しくむせ返った。
「な……っ、何を、いきなり……」
「だって、きのう、おんもでちゅーしてたでしょ? ぷりきゅあも、最後にちゅーしたら結婚するもん」
子供の観察眼ほど、残酷で純粋なものはない。
昨夜のあの路地裏での出来事は、実咲貴の目に「愛の誓い」として映っていたのだ。
貴史は顔が焼けるように熱くなるのを感じた。昨夜、一人で修吾を想って果てた時の後ろめたさが、一気に脳内を支配する。
「……パパといっちゃんは、男同士だから。結婚は、しないよ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていて、硬かった。
それは実咲貴に言い聞かせると同時に、自分自身の心に楔を打ち込むための言葉だった。
修吾からの返信はまだない。
「好きかもしれない」と送った後、貴史は恐ろしくなってスマートフォンをクッションの裏に隠してしまった。
「おとこのこ同士は、だめなの?」
実咲貴は不満そうに口を尖らせた。
「いっちゃん、パパのことだいじだいじしてたよ? パパも、いっちゃんのこと、ぎゅーしてた。……だめなの?」
「ダメじゃ、ないけれど。世の中には、いろいろな形があるんだ。パパたちは、その……」
言葉が続かない。
「男同士だから」という言い訳は、かつて自分が修吾を「異常者」と呼んだ時の思考と地続きにある。
だが、今の貴史には、修吾から与えられた熱烈な口づけを、実咲貴にどう説明すればいいのか分からなかった。
ただ一つ分かっているのは、修吾を失ったままの食卓は、どんなに晴れた朝でも、薄暗く、寒々しいということだけだ。
トーストの味すらしない。
貴史は震える手で、隠していたスマートフォンを取り出した。
画面には、修吾からの通知が届いていた。
『今夜、お店が終わった後、僕の部屋へ来てください。実咲貴ちゃんが寝た後で構いません。……話がしたいです』
結婚という形には、たどり着けないかもしれない。
世間が笑うかもしれない。
それでも、この無垢な娘に「いっちゃんとパパは、ずっと一緒にいるよ」と笑って言える未来が、今の貴史には何よりも必要だった。
「……実咲貴。パパ、今日はいっちゃんに、ちゃんとお話してくるよ」
「ほんとう!? じゃあ、いっちゃん、またお家に来てくれる?」
「……ああ。きっと、ね」
娘の輝くような笑顔を見ながら、貴史は初めて、修吾の待つ四階を見上げた。




実咲貴の寝息が一定のリズムを刻み始めるのを待ってから、貴史は静かに寝室を抜け出した。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打っている。
エレベーターを使う余裕さえなく、階段を一段ずつ、己の決意を確かめるようにして四階へと上がった。
四〇二号室。
震える指先でインターホンを押すと、ほどなくして扉が開いた。
そこに立っていたのは、あの夜の悲痛な顔ではない。
いつもの、少しおっとりとした温かな笑顔を湛えた修吾だった。
ただ、その目元には隠しきれない困惑と、触れれば壊れてしまいそうな危うさが同居している。
「いらっしゃい。本当に、来てくれたんですね」
修吾の声は、冬の陽だまりのように穏やかだった。
貴史は言葉を失い、ただ頷くのが精一杯だった。
促されるままに足を踏み入れた修吾の部屋は、彼の作る料理と同じように、整理整頓されながらもどこか人の温もりが漂う空間だった。
「適当な椅子に掛けてください。……ええと、お酒でも飲みますか? それとも……はは、だめだな。どうしても緊張してしまう」
修吾がキッチンへ向かい、背を向ける。
その広い背中。
かつて実咲貴を抱き上げ、貴史を守るように立っていた、あの大きな影。
貴史の理性が、音を立てて崩れた。
気づけば足が動き、無我夢中でその広い背中にしがみついていた。
「……っ!」
修吾の身体が、岩のように硬直した。手に持っていたグラスが、カタリと音を立てる。

「貴史……さん?」
「……こういう意味で、貴方が好きです」
貴史は修吾の背中に顔を埋め、震える声で絞り出した。
「昨夜、一人で貴方のことばかり考えていました。男同士だとか、そんな理屈じゃ説明できないくらい、貴方の熱が、貴方の存在が、俺の身体から離れないんです。……これは、隣人としての好意なんかじゃない」
修吾がゆっくりと、貴史の腕を解こうとする。
その力が、ひどく悲しい。
「だめだ……。三坂さん、貴方はまだ混乱しているだけだ」
修吾が振り返る。その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「昨日も言ったでしょう。僕の世界は、貴方が思っているよりずっと暗い。……貴方や実咲貴ちゃんを、こちら側へ引き込むわけにはいかないんです」

「修吾さん……」
「世間は残酷だ。男同士で寄り添って生きていくことが、どれだけ白い目で見られるか。……貴方は若く、輝かしい未来がある父親だ。実咲貴ちゃんにだって、普通の、まっとうな幸せを享受する権利がある。僕のエゴで、それを奪うような人生を送らせるわけにはいかないんだ……!」
修吾の声は、慟哭に近かった。
それは、彼が今まで一人でどれだけの「悪意」と戦い、どれほどの「孤独」を飲み込んできたかを物語っていた。
自分たちを想うからこその、命を削るような拒絶。
貴史は一歩踏み出し、修吾の前に回り込んだ。
そして、逃げようとする彼の大きな両手を、力いっぱい握り締めた。
「……世間や、世の中の常識で測るべきじゃなかったんだ」
貴史は修吾の目を真っ直ぐに見つめ、毅然と言い放った。
「俺は間違っていました。まっとうかどうか、普通かどうか……そんな外側の物差しを基準にして、目の前にいる貴方の、誠実な人柄を、温かな手を、あんなにおいしい料理を、無視してしまった」
修吾の瞳が大きく揺れる。
「実咲貴が今朝、言ったんです。パパといっちゃんは、だいじだいじし合ってたのに、なんで結婚しないのって。……子供の方が、ずっと真理を見抜いていた」
貴史は握る手にさらに力を込めた。
「俺の基準は、貴方です。修吾さんが作ってくれるスープの温かさ、実咲貴を撫でる手の優しさ。……俺は、それを信じたい。世間の目なんて、俺が盾になって跳ね返してやる。だから、自分を『こちら側』なんて呼んで、線を引かないでください」
沈黙が流れる。
修吾の大きな手から、わずかに力が抜けた。
「……本当に、いいんですか」
修吾が恐る恐る、折れそうな枝に触れるように、貴史の肩に手を回した。
「……これが、汚いことだとは、思いませんか?」

その問いに、貴史は微笑んだ。
一点の曇りもない、清々しい笑顔だった。
「思いません。……微塵も」
貴史は修吾の首に腕を回し、その顔を引き寄せた。
「貴方の手は、今も昔も汚れてなんていない。俺たちを救ってくれた、世界で一番綺麗な手です」
今度は、貴史から唇を重ねた。
昨夜の、修吾の悲鳴のようなキスとは違う。
すべてを受け入れ、すべてを分かち合うための、静かで、けれど確信に満ちたキスだった。
唇が重なり、互いの熱が混ざり合う。貴史は躊躇うことなく、修吾の口内へと舌を滑り込ませた。修吾が喉の奥で、くぐもった声を漏らす。
深く、深く、互いの存在を確認し合うようなキス。
絡み合う舌が、言葉にならない想いを補完していく。
唾液の甘い匂いと、修吾の肌から漂うスパイスの香りが、貴史の感覚を麻痺させ、陶酔へと誘う。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ようやく唇を離した二人は、どちらからともなく、折れるほど強く抱きしめ合った。
修吾の大きな身体が、貴史の腕の中で小刻みに震えている。
「……あたたかい」
修吾が、貴史の肩口に顔を埋めて呟いた。
「貴史さん。……ありがとう。本当に、ありがとう」
「俺の方こそ。……見捨てないでいてくれて、ありがとう、修吾さん」
窓の外では、夜の街が静まり返っている。
明日になれば、また「世間」という荒波が二人を待っているだろう。
父子家庭の父親が、男と愛し合う。
それは確かに、平坦な道ではないかもしれない。

だが、今、この部屋に満ちている空気は、どこまでも澄み渡り、優しかった。
貴史は修吾の背中に回した手に力を込め、目を閉じた。
実咲貴の待つ部屋。
修吾の守る店。
そして、二人が作り上げていく、新しい食卓。
もう、凍りついた夜は終わったのだ。
貴史は修吾の胸板に耳を当て、トクトクと刻まれる力強い鼓動を聞きながら、自分たちの未来が、修吾の作るフレンチトーストのように、甘く温かなものであることを確信していた。
二人の影が、月明かりに照らされたリビングの床で、一つの大きな形となって重なっていた。
その夜、二人は夜が明けるまで、ただ互いの温もりを確かめ合うように、抱きしめ合ったまま離れなかった。言葉の重みを、二人で分かち合うための夜が、すぐそこまで来ていた。




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11
夜が白々と明け始め、薄藍色の光が部屋に差し込む頃、二人はようやく腕を解いた。 一睡もしていなかったが、その瞳には活力と、穏やかな決意が宿っている。
「貴史さん。……そろそろ、実咲貴ちゃんが起きる時間ですね」
修吾が、少し照れたように、けれど慈しみを込めて名前を呼んだ。
「ええ。……一緒に行きましょう、修吾さん。僕たちの家へ」
二人は連れ立って三階の部屋へと戻った。
鍵を開けて中に入ると、まだ静まり返ったリビングに、微かに朝の匂いが漂っている。貴史は寝室のドアをそっと開け、ベッドの中で丸まっている小さな宝物を覗き込んだ。
「実咲貴、おはよう。朝だよ」
枕元で声をかけると、実咲貴がうーん、と大きく伸びをして目を開けた。
視界の端に、パパだけでなく大好きな「いっちゃん」の姿を見つけた瞬間、彼女の顔がパッと輝いた。
「いっちゃん! いっちゃんがいる!」
実咲貴は飛び起きるなり、修吾の胸へと飛び込んだ。修吾はその小さな身体をしっかりと受け止め、心底幸せそうに目を細める。
「おはよう、実咲貴ちゃん。……今日はね、約束通りお話をしに来たんだ」
「おはなし? ぱぱといっちゃん、なかよしになったの?」
実咲貴の真っ直ぐな問いに、貴史と修吾は顔を見合わせ、深く頷いた。
「ああ。パパは、いっちゃんとずっと一緒にいたいって、お願いしたんだ」
実咲貴は二人の顔を交互に見つめ、ふふっと悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、またちゅーして! なかよしのちゅー!」
子供らしい無邪気なせがみに、貴史は一瞬たじろいだが、修吾が優しくその手を握ってくれた。
二人は、実咲貴の目の前で、ゆっくりと顔を近づけた。
朝の光の中で重なる、触れるだけの、けれど誓いのようなキス。それを見た実咲貴は、布団の上で飛び跳ねて喜んだ。
「やったー! パパがふたりになった!」
──パパが二人。
その言葉の重みに、修吾の目元が少しだけ潤んだ。彼は実咲貴の頬に手を添え、優しく囁いた。
「……ありがとう、実咲貴ちゃん。じゃあ、お祝いに、とびきり美味しいフレンチトーストを作ろうか」
「やるー! いっちゃんのあまあまのやつ!」
修吾がキッチンに立ち、エプロンを締める。 卵と牛乳を混ぜる音、パンを浸すボウルの音、そしてバターがフライパンで溶ける芳醇な香り。貴史は、その光景をダイニングの椅子に座りながら眺めていた。
つい数日前まで、ここはゴミが散らかり、絶望の匂いが満ちていた場所だった。それが今、修吾がそこに立っているだけで、まるで魔法にかかったように鮮やかな色彩を取り戻していく。
「貴史さん、お皿を。……それと、実咲貴ちゃんにはシロップをたっぷり、でしたね」 「ああ。……僕のにも、少し多めにお願いします」
テーブルに運ばれたのは、黄金色に焼き上がったふんわりと厚みのあるフレンチトースト。 三つの皿が並び、三人の湯気が重なり合う。
「「「いただきます!」」」
実咲貴が大きく口を開けて頬張り、「おいしー!」と叫ぶ。貴史も一口、口に運んだ。 甘く、温かく、そしてどこまでも優しい味。喉の奥に凝り固まっていたすべての孤独が、その一口で溶けて消えていくようだった。
「修吾さん……。本当に、美味しいです」
「良かったです。……これからも、ずっと作らせてくださいね、貴史さん」
窓の外では、街が騒がしく動き始めている。
昨日までと同じ世界。けれど、今の貴史には、どんな偏見も、どんな困難も恐れることはなかった。隣には愛する人がいて、目の前には、世界で一番幸せそうに食事をする娘がいる。
幸せな食卓。
それは、失われたものを数える場所ではなく、これから二人で、三人で作り上げていく愛の形だった。朝陽に包まれたリビングで、三人の笑い声がいつまでも、温かに響き続けていた。


To be continued...