機械じかけの心臓

第二章:上客の正体


その日の客は珍しくA階層のエリート執行官だった。D階層から生身の、俺みたいなフルオーガニックの人間を刈り取っていくのが役目だ。俺は義足と義手のギミックをつけて接客に臨んでいた。執行官を前にして本物の肉体を晒すなんてとんでもない。


「お前、名前は?」


接客が終わり、精算をしている最中だった。リストバンド型のデジタルウォレットへ支払いを終えた途端男が尋ねてきた。俺はにっこり笑って答えた。


「カイリ。苗字はわかんないな。識別番号教えとくから調べてよ」


A階層の人間に名前を教えるのはリスクが高い。識別番号で検索されれば嘘はバレるがそんな面倒くさいことを連中がするとは思えなかった。それよりも名前を聞かれるってことはまた指名してくれる可能性があるってことだ。俺はA階層の客にはほかの改装の人間よりも倍は吹っ掛けることにしている。男はカイリ……と名前を繰り返してから上着を羽織った。


「それでは来週またお前を指名する。リストバンドに登録しておけ」


色気もそっけもない言い方だったが、俺は内心手を打った。久々の上客だ。変な性癖もなけりゃきちんと成猫予防のピルやゴムもつけてくれる。金払いもよく態度もそっけない。清潔な格好は好感が持てたし。何より、A階層の人間だ。手玉に取るには十分だった。


カプセルホテルの室内は、スラムの喧騒が嘘のように静まり返っていた。微かに唸りを上げる空調の音と、窓を叩く雨の音が、一定のリズムを刻んでいる。 男――シンが窓外の灰色の地平を見つめたまま、背後で立ち尽くす俺に古びた写真を差し出したとき、室内の空気は一瞬で凝固した。
セピア色に褪せかけたその紙片には、瓦礫の山を背景に笑う二人の少年が写っていた。一人は金色の安物ジャンパーをぶかぶかに着こなした俺。そしてもう一人は、今の眼前の男と同じ、鋭い眼光をした少年だ。その右目の下、泣きぼくろのようにも見える小さな傷跡が、記憶の奥底に眠っていた「兄貴」の輪郭を鮮明に引きずり出した。
「カイト。……その顔、どうやら無駄な擬装(ギミック)は必要なかったようだな」
シンの声は、氷の破片を床にぶちまけたような冷たさだった。彼はゆっくりとこちらを向き、無機質な軍用ブーツで一歩、また一歩と距離を詰めてくる。 俺は逃げようとした。だが、蛇に睨まれた蛙のように、足が床に縫い付けられて動かない。シンは俺の細い手首を掴み、乱暴に袖を捲り上げた。
「くっ、放せよ……っ!」
「黙っていろ。……ほう、この手触り、やはりフルオーガニックか。D階層の泥に塗れていながら、よくぞこれほど純度の高い個体を保っていたものだ」
シンの指先が、俺の腕を這う。それは再会を喜ぶ肉親の温もりではなく、市場に並んだ新鮮な肉の弾力を確かめる屠殺者の手つきだった。 シンの視線は俺の顔を通り越し、執拗に、左胸の奥で早鐘を打つ心臓の鼓動へと注がれている。その瞳の奥には、愛情の代わりに底知れぬ飢餓感と、どす黒い執着が渦巻いていた。
「すまなかったな、カイト。だが安心しろ。お前を城(ここ)へ連れ帰り、最高級の無菌室を用意してやる。お前はまた、俺の『家族』……いや、俺の『一部』になるんだ」
その言葉の真意を理解した瞬間、俺の喉元までせり上がってきたのは、甘い感傷ではなく、猛烈な嘔吐感だった。
ホテルを飛び出した後の記憶は断片的だ。 ネオンの光が雨に溶け、極彩色に濁った水たまりを何度も踏み抜いた。どこをどう走ったのかも分からず、俺はスラムのどん詰まり、錆びた鉄パイプが剥き出しになった路地裏のゴミ溜めに崩れ落ちた。
「うっ、げほっ……おえぇっ……!」
壁に縋りつき、胃液が枯れるまで吐き続けた。 実の兄に抱かれたのだ。金を払われ、弄ばれ、その指先が俺の肉を愛おしむように這ったのは、俺という人間を愛していたからではない。その胸の中に収まっている、健康な「生体の心臓」が欲しかっただけなのだ。 シンのジャケットから盗み見た端末のデータ――『移植適合者:識別番号D-0822』。 そこに記されていたのは、城のエリートとしての栄光ではなく、不治の心臓病に侵され、弟を「歩く予備パーツ」として十年間監視し続けていた一人の男の執念だった。 「汚ねぇ……全部、汚ねぇんだよ……っ!」
泥水と吐瀉物にまみれた地面を、生身の拳で叩きつける。 その時、頭上から降り注いでいた冷たい雨が、不自然に止まった。
重厚な金属の駆動音。オイルの匂い。 顔を上げると、そこには剥き出しのクロム合金を夜の光に反射させたエミリアが立っていた。彼は何も言わず、ただ大きな影のように俺を包み込み、ボロボロになった俺の背中にその手を添えた。
「……カイト、もういい」
エミリアの合成音声は、かつてないほど低く、地響きのように震えていた。 彼は膝をつき、俺の汚れきった顔を、機械の指先でそっと掬い上げた。剥がれかけた人工皮膚の隙間から、複雑な回路が覗いている。血は通っていないはずなのに、その瞳――琥珀色の光学センサーだけは、どんな人間よりも激しい怒りで燃え上がっていた。
「あいつのデータは、俺のメモリにも同期した。……あいつは、お前を『物』として見ている。自分の命を繋ぐための、ただの肉塊としてな」
エミリアは俺の腕を掴み、自分の胸の中央、装甲の隙間にその手をねじ込ませた。指先に触れるのは、冷たい金属と、規則的に振動する人工心臓(モーター)の拍動。
「聞け、カイト。俺には心臓がない。だが、お前が泣いているのは分かる。……あいつがまたお前を買いに来るなら、次は俺がその首を跳ね飛ばす。城の法律も、兄弟の絆も、俺の演算(ロジック)には関係ない」
エミリアは俺を抱き上げるようにして立たせた。 その強固な義体は、どんな嵐にも揺るがない大樹のように、絶望の淵にいた俺を支え直した。
「立て、カイト。お前はあいつのドナーじゃない。俺の隣で、不味いレモネードを笑って飲む、たった一人の人間だ」
俺はエミリアの肩に顔を埋め、声を殺して泣いた。 城の白い光が、遠くで冷たく俺たちを刺している。だが、俺はもうあそこへ行きたいとは思わなかった。 たとえこの先、追っ手が差し向けられようと、泥水をすする日々が続こうと。俺を「スペア」ではなく「カイト」と呼ぶこの機械の男がいる限り、俺は俺として生きていける。
「……行こうぜ、エミリア。お前の錆びたパーツの磨き方、俺がもっと勉強してやるよ」
雨の帳の中、二つの影がスラムの奥深くへと消えていく。 透明な雨は、カイトの頬を伝う涙と、エミリアの鋼鉄の身体を、等しく洗い流していった。


第三章:逃避行の果てに_α


逃避行は、執拗な金属音と共に始まった。
シンが率いる「城」の治安維持部隊は、路地を埋め尽くすドローンの群れと、容赦ない熱線放射でスラムを焼き払い、カイトを追い詰めていく。逃げるたびにエミリアの装甲は弾け、人工皮膚は剥がれ落ちた。二人は血とオイルの混じった轍を残しながら、境界の門を破り、法の届かない荒野へと踏み出した。


それから、何年の月日が流れただろうか。


カイトの金色のジャンパーは色褪せて灰を被り、肩まで伸びた髪は潮風に晒されて白く乾いた。エミリアの姿は、もはやかつての青年を想起させることすら難しい。顔の右半分は完全に剥き出しの内部骨格が露出し、歩くたびに「ガリ、ガリ」と、砂を噛むような耳障りな金属音が静寂を切り裂く。
エミリアはもはや、ただの「歩く機械(ギミック)」になり果てていた。だが、その残された左の光学センサーだけは、変わらぬ琥珀色の光を宿してカイトを見守り続けていた。


二人は夜、互いの体温――あるいは機械の排熱――を分かち合うように抱き合って眠った。カイトはエミリアの剥き出しの基盤にそっと触れ、エミリアはカイトのひび割れた生身の指を、優しく金属の掌で包み込んだ。


「なぁ、エミリア。まだ着かねぇのかな」
「ああ……演算によれば、もうすぐだ。そこには城も、階層も、お前をパーツとして見る奴もいない」


そして、とうとう二人は辿り着いた。
目の前には、見たこともないほど澄み渡った青空と、どこまでも続く花の草原が広がっていた。風はレモネードよりも甘く、降り注ぐ陽光は、かつてのスラムの雨が嘘のように温かい。
「……綺麗だな、エミリア」
カイトは笑った。十年ぶりに、本当の子供のような笑顔で。二人は手を取り合い、その光り輝く楽園の奥へと歩を進めていった。


――だが。
その光景は、エミリアが最後に残された全電力を使い、カイトの視神経系に直接流し込んだ究極の欺瞞に過ぎなかった。


現実の二人が辿り着いたのは、楽園などではない。
そこは、国家の境界も、人類の営みも、生命の鼓動すら拒絶する、北極海の最果てだった。
空は重く垂れ込めた鉛色。草原に見えたのは、死の沈黙を守る巨大な氷塊の群れ。温かい陽光の代わりに、肺胞さえ凍てつかせる猛吹雪が、カイトの生身の肉体を容赦なく侵食していた。


カイトの視界には美しい花々が映っているが、彼の体温はすでに生命を維持できる境界線を割り込んでいる。エミリアはそれを知っていた。自分の動力源である核蓄電池が、あと数分で完全に停止することも。


エミリアは、感覚を失いつつあるカイトを背後から静かに抱きしめた。
カイトの頬に、エミリアの冷徹なクロム合金の顔が触れる。脳内麻薬とエミリアの送る偽りの信号によって、カイトは多幸感に包まれたまま、ゆっくりと瞳を閉じていく。


「エミリア、最高の気分だ。はは、……お前を、愛してる」


カイトの掠れた声が、極北の風に消えていく。エミリアは答えなかった。いや、すでに発声回路は凍りつき、音を成さなかった。
ただ、エミリアは強く、さらに強くカイトの身体を抱きしめた。城の連中にも、シンのメスにも、誰にも触れさせない。この心臓は、この肉体は、この魂は、最後まで俺だけのものだ。


カイトの生身の鼓動が、一つ、また一つと間隔を空けていく。
それと呼応するように、エミリアの内部で駆動していた冷却ファンの回転が、弱々しく、重く、止まっていく。


ドクン……。
ウィーン……。


……ドクン。
……ウィ。


やがて、二つの音は完全に重なり、静寂へと溶け落ちた。

雪は止むことなく降り続き、抱き合う二人の姿を白く塗り潰していく。
そこにはただ、寄り添うように固まった一塊の氷像があるだけだった。

城も見えず、階層もなく、管理番号も、ドナーも、私娼も存在しない。
北極海の地獄のような静寂の中で、二人は永遠の、真実の楽園を手に入れたのだ。




第三章:逃避行の果てに_β




吹き荒れる極北の嵐が、すべてを白く塗り潰していく。
カイトの意識は、すでに薄氷のように脆くなっていた。楽園の花畑の夢――エミリアが見せてくれている偽りの暖かさの中で、彼は幸福な死を待っていた。
だが、その夢の境界線が、突如としてノイズのように乱れる。


「……カイト、聞こえるか。……これが、俺の最後の修理だ」


エミリアの掠れた声が、鼓膜ではなく、直接脳の髄に響いた。
エミリアは自らの核蓄電池の残量を、凍りついた四肢の維持ではなく、一点のデータ転送に集約させていた。手首に刻まれた忌々しい管理バーコード。その下にある皮下チップは、かつて城が民を監視するためのものだったが、今はカイトの神経系へと繋がる唯一の「門」となっていた。


「さよならだ、俺の身体。……よろしくな、カイト」


閃光。
そして、完全な暗転が訪れた。


数週間後。
カイトが目を覚ましたのは、獣の毛皮の匂いと、薪が爆ぜる音に包まれた石造りの小屋だった。
極北に隠れ住む「漂流民」の集落。凍死寸前の彼を拾い上げ、城の追っ手も届かないこの地に運んだのは、かつて城から逃げ出した先住民たちだった。


「う、あ……」