黒の巫女と隠し小道

 すっかり衣服が乾いた千夜は、目の前に立っている能面の人物に話し掛けた。それは何の裏も無い、本当に素朴な疑問だった。
「貴方は、妖さんなのですか?」
 能面を被った人物は一瞬だけ面の内側で目を見開き、次に周囲に集っている妖を見渡した。
「そうだね。キミが渡ってきた橋のこちら側には、基本的に妖しかいないよ。だから、当然、僕も妖ということになるね」
 それを聞いた千夜は、即座に深々と頭を下げた。
「無断で禁足地に入ってしまって申し訳ございません。すぐに出て行きますので、どうかお許し下さい」
 まだ幼い少女の口上に驚いたものの、能面の妖は穏やかな声で笑った。
「大丈夫。気にしなくて良いよ。普通は(・・・)は見えないし、渡ることもできないんだ。だからキミは、いつでも好きなときに来れば良い。烏天狗、皆に伝えておいてくれるかな。えっと―――」
「千夜です」
「千夜は私の客人だから丁重に扱うように、と」
 烏天狗は能面の妖に片膝をついて頭を垂れる。
「ハッ。早速触れを出しておきます、主様」
 そう言うと、烏天狗は翼を羽ばたかせると飛び上がり、森の奥へと飛び去った。

 呆然と見送った千夜は、ハッとして我に返ると能面の妖に向き直る。
「主、様?」
 能面の妖は身体を屈めると、千夜の目線に合わせて答えた。
「こう見えても1000年近く生きているからね、特に強力な能力がある訳でもないけど、一番の古株だから。それで、主なんて呼ばれているんだよ」
 千夜はペコリと頭を下げると、眉根を下げて微笑んだ。
「主様、ありがとうございます。あちら側に私の居場所はありませんので、また遊びに来ます」
 能面の妖はそんな千夜の頭に手を乗せると、穏やかな口調で告げる。
「今度来たときは、森の中を案内しようね」
「はい!!」
 今度は目を弓なりにして笑い、千夜は橋の方へと戻って行った。

 能面の妖は小さな背中を見送った後、千夜の右耳の下にあった花弁の形をした痣を思い出す。人は忘れたかも知れないが、あれは黒の巫女の証である。今は注意深く見なければ判別できないが、時間の経過とともに濃くなっていく。最終的に黒色になったとき―――――


 選別の儀で黒の巫女に選ばれた日から、千夜は時折夢を見るようになった。
 迫り来る炎の波。暗闇の中を必死に走り、逃げて、逃げて、逃げて、目の前が真っ暗になって力尽きてしまう。そんな夢。千夜が調べた夢占いの本によると、過度のストレス状態で現状から逃げ出したいと思っているかららしい。しかし、それは合っていて、それでいて違っている。確かに、真尋達による自宅での嫌がらせや、学校での孤立による精神的な苦痛はある。ただ、それは今に始まった訳ではない。今さら(・・・)なのだ。

 能面の妖は去って行く千夜の後ろ姿を目にしたとき。あの日の光景を鮮明に思い出した。
 長く生きるということは、都合良く忘れることが必要になる。だから、大切な思い出ほど意識的に記憶の底に沈める。色褪せないうちに、錠を閉めて保管するのだ。そうすれば、何年、何十年、何百年経っても鮮やかな記憶として思い出すことができる。そのカギが目の前に現れれば、どんなに固く閉じていたも錠は開き記憶は蘇る。その時(・・・)は近い。


 橋を渡り、竹やぶの小道を歩いていると、千夜はいつの間にか本殿の裏側に着いていた。
 祖父が与えてくれた安息の空間と同種の癒しにより、千夜は久し振りにこころが穏やかだった。しかし、その平穏な時間も長くは続かなかった。
「千夜、千夜はどこだ?」
「はい、ここにいます」
 千夜が返事をすると、本殿から顔を出した神主が冷淡な視線を向けて言い放った。
「真尋達の稽古が始まる。オマエは3人の補助をしろ。それ以外に、何の役にも立たないのだから。分かったな」
「はい」
 すでに千夜の顔から感情が抜け落ちていた。神主は千夜の父親でもあるはずであるが、黒の巫女だと分かった時点で他人になった。黒の巫女には何もできない。まるで疫病神とでも思われているかのように、赤の巫女である3人に従わされて使い潰される。千夜の返事を確かめる前に、神主の姿は見えなくなっていた。

 九戒神社。平安時代末期に建立された神社である、平家の落ち武者が身分を隠して隠遁したとも言われているが、その由来は記録に残っていない。ただ、九戒神社の九戒は今も伝えられている。それは、殺生(セッショウ)邪淫(ジャイン)強盗(ゴウトウ)偽証(ギショウ)虚勢(キョセイ)両舌(リョウゼツ)悪言(アクゲン)慳貪(ケンドン)瞋恚(シンイ)の九つの戒めである。これらを守ることにより、人は正しく生きることができるという。

 しかし、これから考えると、すでに真尋達も神主も足を踏み外していることになる。
 真尋は嘘を吐き、虚勢を張り、数多の人の対立を煽り、悪口を言い触らす。
 神主は真尋達だけを信じ、自分の思い通りにならない千夜に理不尽な怒りをぶつける。
 これならば、種族性であろうとも嘘を吐かない妖の方が信頼できる。そう思って千夜は嘆息した。