黒の巫女と隠し小道

 千夜は祖父に教えられた通り、狐の石像がある場所に足を運んだ。
 ここにこの石像があることを千夜は知っていたが、観察するように見るのは初めてだった。高さは千夜と同じ140センチ程度であり、直接岩から削り出したように見えた。台座も無く、直接地面に埋まっているとしか思えない状態。長年風雨に晒されてきた影響で、精緻であったはずの形状は丸みを帯びている。まだ幼い千夜でさえ、この石像がかなり古い物であることが分かった。もし、九戒神社の建立と同じ時からあるのであれば、900年以上前の物になる。

 千夜は石像に手を合わせると、その背後に向かった。そして真後ろに回りこむと、白壁に向かって手を叩く。
 パン―――――パン。
 2度目の音が響くと同時に、千夜の眼前に等身大の黒い穴が開く。穴の中には奥へと続く小道が見えた。千夜は全く躊躇することなく、穴に飛び込んだ。

 千夜は知らなかった。直道もまた、不完全な形で伝えられていた。
 直道が話して聞かせた小道の伝承は、黒の巫女だけが実現可能な現象だった。もし、千夜が黒の巫女に選別される前であったなら、この小道の伝承は途切れ、こうしてこの小道を進むことはなかっただろう。いや、それでも、何かの力によって、やはり小道を進んだに違いない。

 白壁を突き抜けるように現れた小道は、竹やぶの中を北に向かっての伸びている。いつもは鬱蒼と乱立している竹によって前進をすることは非常に難しいが、進行方向の竹が自らスペースを開け、まるで竹のトンネルのようになっていた。
 千夜はトンネルの中を、更に奥地へと歩を進める。


 小道に入って30分ほど歩いた頃、突然、千夜の視界が明るくなった。長い竹やぶを越えたのだ。
 千夜の目の前には、幅が10メートルほどの川が流れている。その川がいったい何川なのか、考えるまでもなく千夜にはすぐに分かった。歩いて来た方向を考えれば、禁足地との境界線にある境川以外に考えられなかった。神主が選別の儀に使用する水を汲むために訪れる以外、例え地区の住民であろうと近付くことすら禁じられている。そのため、千夜が川を見るのもこれが初めてだった。

 千夜は川に近付くと、澄んだ川面を覗き込む。底が見えるほどの水中には小魚が泳いでいた。石には普通に苔が生えているし、川辺には水草も茂っている。千夜にはこの川が、普通の川にしか思えなかった。

 ひとしきり水中を見学した千夜が、立ち上がって周囲を見渡す。千夜が立っている岸には竹やぶが広がっているが、向こう岸は普通の森だった。鬱蒼と茂った木々が深い森を形成し、それが深山の裾野を埋め尽くしている。人の手が全く加わっていない風景に、千夜はしばらく見惚れた。
 そうやって、ゆっくりと視線を動かしていた千夜が、川上に有り得ない物を見付ける。
「・・・橋?」
 千夜には、それが木製の橋にしか見えなかった。

 しばらく逡巡したものの、好奇心には勝てず千夜は橋に向かって歩き始める。100メートルほどしかない距離である。すぐに、橋の(タモト)に辿り着いた。千夜の視界に写る物は、どこからどう見ても人工的な橋だった。木を組んだだけの土台に、薄い板を並べただけの簡素な造りである。老朽化が進んでおり、使用されている形跡がないほど薄汚れていた。

 なぜ、誰が、こんな場所に橋を設置したのだろうか?
 そう思いながらも、千夜は川のこちら側と向こう側を眺める。
 目の前に広がっているのは、ごくありふれた森林だ。このどこに、妖が巣食っているというのだろうか。これのどこが、禁足地だというのだろうか。
 千夜は水平に並べられた板の状態を確認しながら、一歩ずつ橋を渡り始めた。普段は決して冒険をしない千夜であるが、この時だけは、橋を渡らなければならいという思いに身体が支配された。足下の板は見た目とは違って丈夫で、ミシミシという音を立てることもなく千夜の重さを支えた。そして数秒後、川幅より少しだけ長い橋を千夜は無事に渡り切った。

 川に落ちなかったことに安堵した千夜であったが、禁足地に足を踏み入れた瞬間どこからともなく声が聞こえてきた。
「―――――なるほど」
 驚いた千夜が顔を上げると、いつの間にか目の前に男性が立っていた。一瞬、千夜は人かと思ったものの、純白の着物に能面を被った容貌、背後に立つ者の姿を目にして考えを改める。男の背後に立つ者には黒い烏の如き二枚一対の羽が生えていたからだ。
 能面の男が落ち着いた口調で言葉を紡いだ。
「どうして、ずぶ濡れなのかな?」
 真尋によってかけられた水は、未だに乾いていなかった。
 突然の邂逅に動揺する千夜に承諾を受けることもなく、能面の男は仲間を呼んだ。
「鬼火、烏天狗」
「ハッ」
 声を掛けられた背後に立っていた烏天狗が前に出ると、そのすぐ横に人の顔ほどある炎が出現した。
「鬼火は強火、烏天狗は風送りを」
 指示を受けた鬼火の色が赤から青に変化し、その熱を烏天狗が熱風に変換して千夜に送った。
「知っているかも知れないけど、妖は各々が1つずつ特技を持っているんだ。鬼火は火を強くすること。烏天狗は風を起こすこと。一緒にすれば熱風になって、キミの髪と服くらいは簡単に乾かすことができるよ」

 一気に乾いてくる自身を体感しながら、千夜はしっかりと目の前に佇む妖を捉えていた。