母の顔が分かるようになった頃から、千夜は体調を崩すことが多かった。そのため、双子の妹は毎日保育園に通っていたものの、千夜は祖父と一緒に自宅で過ごすことが多かった。祖父は高井家の生業である神社の元神主であり、様々なことを千夜に話して聞かせた。この地では未だに見掛ける妖の話に対し、千夜は特に興味を示して何度も同じ話をせがんだ。
此処、川上町にある四霧地区は人と妖の世界が交錯する地域であり、様々な種類の妖がそこかしこに潜んでいる。仮にその存在に気付いたとしても、住民は特別な反応も示さない程度には慣れている。他の地域では山の深部にまで開発が進んでいるため、こういった地区はもうここしか残っていないと言われている。
これは、1000年以上前から地区と山間部の間に流れる川を境界線にし、それより北の山側を禁足地として人の侵入を制限していることも影響しているだろう。そもそも、足を踏み入れた場合は余りにも濃い瘴気によって、人は正気を失ってしまうという言伝えが残っているため誰も行くことはない。
祖父である直道は、千夜が体調不良を起している理由に心当たりがあった。しかし、今の時点では憶測に過ぎないため、それについて言及したことはない。ただ、それが杞憂ではないことだけは間違いがなかった。高井家には代々次代の神主たる男児が誕生してきたが、孫が双子の女児だけなのである。
押入れの中から、枕を持った妖が覗いている。
台所の方向からは、頭が豆腐の小人が様子を窺っている。
開け放たれた風呂場の扉からは、長い舌伸びている。
それらを眺めながら直道は千夜に小さな声で話し始めた。それは千夜にとって、いつもの話よりも魅力的な内容だった。
「この九戒神社の裏側には深い竹やぶがあって、その奥には境界線になっている川が流れているのは知っているね。その川を渡って向こう岸に行くことは禁止されている。これは1000年以上前からの決め事で、絶対に破ってはいけないものだ。これを管理することが、ウチの神社の役目でもあるのだよ」
直道の隣に座って話しを聞いている千夜は、「うん」と言って首肯する。千夜は病弱ではあったものの、利発な子どもであった。大抵のことは一度説明すると理解した。
「これはナイショの話だから、絶対に人に話してはいけないよ。お父さんやお母さん、妹の真尋にもだ。これが約束できるなら、これから続きを話れど、どうするかね、千夜?」
千夜は少し考えたものの、直道の条件を飲み込んで小指を立てる。そして、その小さな指を直道の小指に絡ませた。
「指切りげんまん、嘘吐いたた針千本飲ます、指切った」
「よしよし、では続きを話そうか。本殿の裏に狐の石像が在るのは知ってるかい?」
千夜は小首を傾げて考えた後、パッと明るい表情になって頷いた。
「その狐の石像の裏側に移動して、神社を囲っている白壁に向かってパンパンと2回手を叩くんだ。そうすると、壁に丸い穴が開いて小道が現れるんだよ。これくらいの穴だ」
身振り手振りで、直道は小道の説明をする。
「えっと、その小道は、いったいどこに繋がっているの?」
想定できた質問をされた直道は、大きな手で千夜の頭を撫でながら笑った。
「それは、いつか千夜が行って確かめればいい。いや、確かめずに済めば一番いいが、おそらく、そうはいかないだろうな。もし、千夜が小道を進むのであれば・・・」
この話を千夜に伝えた後、直道はあっさりと他界した。
秘密の話に制約があり、呪われたなどということではない。元々血圧が高かったこのもあり、急性心筋梗塞で倒れたのだ。深夜に救急搬送されたものの、そのまま帰らぬ人になってしまった。
その翌朝、お祖父ちゃん子だった千夜は大いに泣いた。
このとき、千夜は9歳。10度目の誕生日を迎える3日前のことだった。
九戒神社に連なる一族が10歳の誕生日を迎えるときに、本殿で特別な儀式が執り行われる。数百年前から例外無く実施されてきた儀式は、「選別の儀」と呼ばれている。儀式のために神主が準備した「神水に血を1滴垂らす」という、よくありそうな形式だ。それだけの簡単な内容であるが、それには数百年前から伝わる深い理由がある。しかし、それが真実であるかどうかさえ、今となっては誰にも分からない。
直道の葬儀と重なったものの、本殿では「選別の儀」の準備も着々と進んだ。親戚などの一族が揃うことになるため、そういう意味ではタイミングが良かったとも言える。本来であれば、わざわざ確認のためだけに召集しなければならないのだ。
そして、千夜と真尋の誕生日である、8月8日が訪れた。
此処、川上町にある四霧地区は人と妖の世界が交錯する地域であり、様々な種類の妖がそこかしこに潜んでいる。仮にその存在に気付いたとしても、住民は特別な反応も示さない程度には慣れている。他の地域では山の深部にまで開発が進んでいるため、こういった地区はもうここしか残っていないと言われている。
これは、1000年以上前から地区と山間部の間に流れる川を境界線にし、それより北の山側を禁足地として人の侵入を制限していることも影響しているだろう。そもそも、足を踏み入れた場合は余りにも濃い瘴気によって、人は正気を失ってしまうという言伝えが残っているため誰も行くことはない。
祖父である直道は、千夜が体調不良を起している理由に心当たりがあった。しかし、今の時点では憶測に過ぎないため、それについて言及したことはない。ただ、それが杞憂ではないことだけは間違いがなかった。高井家には代々次代の神主たる男児が誕生してきたが、孫が双子の女児だけなのである。
押入れの中から、枕を持った妖が覗いている。
台所の方向からは、頭が豆腐の小人が様子を窺っている。
開け放たれた風呂場の扉からは、長い舌伸びている。
それらを眺めながら直道は千夜に小さな声で話し始めた。それは千夜にとって、いつもの話よりも魅力的な内容だった。
「この九戒神社の裏側には深い竹やぶがあって、その奥には境界線になっている川が流れているのは知っているね。その川を渡って向こう岸に行くことは禁止されている。これは1000年以上前からの決め事で、絶対に破ってはいけないものだ。これを管理することが、ウチの神社の役目でもあるのだよ」
直道の隣に座って話しを聞いている千夜は、「うん」と言って首肯する。千夜は病弱ではあったものの、利発な子どもであった。大抵のことは一度説明すると理解した。
「これはナイショの話だから、絶対に人に話してはいけないよ。お父さんやお母さん、妹の真尋にもだ。これが約束できるなら、これから続きを話れど、どうするかね、千夜?」
千夜は少し考えたものの、直道の条件を飲み込んで小指を立てる。そして、その小さな指を直道の小指に絡ませた。
「指切りげんまん、嘘吐いたた針千本飲ます、指切った」
「よしよし、では続きを話そうか。本殿の裏に狐の石像が在るのは知ってるかい?」
千夜は小首を傾げて考えた後、パッと明るい表情になって頷いた。
「その狐の石像の裏側に移動して、神社を囲っている白壁に向かってパンパンと2回手を叩くんだ。そうすると、壁に丸い穴が開いて小道が現れるんだよ。これくらいの穴だ」
身振り手振りで、直道は小道の説明をする。
「えっと、その小道は、いったいどこに繋がっているの?」
想定できた質問をされた直道は、大きな手で千夜の頭を撫でながら笑った。
「それは、いつか千夜が行って確かめればいい。いや、確かめずに済めば一番いいが、おそらく、そうはいかないだろうな。もし、千夜が小道を進むのであれば・・・」
この話を千夜に伝えた後、直道はあっさりと他界した。
秘密の話に制約があり、呪われたなどということではない。元々血圧が高かったこのもあり、急性心筋梗塞で倒れたのだ。深夜に救急搬送されたものの、そのまま帰らぬ人になってしまった。
その翌朝、お祖父ちゃん子だった千夜は大いに泣いた。
このとき、千夜は9歳。10度目の誕生日を迎える3日前のことだった。
九戒神社に連なる一族が10歳の誕生日を迎えるときに、本殿で特別な儀式が執り行われる。数百年前から例外無く実施されてきた儀式は、「選別の儀」と呼ばれている。儀式のために神主が準備した「神水に血を1滴垂らす」という、よくありそうな形式だ。それだけの簡単な内容であるが、それには数百年前から伝わる深い理由がある。しかし、それが真実であるかどうかさえ、今となっては誰にも分からない。
直道の葬儀と重なったものの、本殿では「選別の儀」の準備も着々と進んだ。親戚などの一族が揃うことになるため、そういう意味ではタイミングが良かったとも言える。本来であれば、わざわざ確認のためだけに召集しなければならないのだ。
そして、千夜と真尋の誕生日である、8月8日が訪れた。



