アネモネ記念日

◇◇
 ついに来てしまった。
 三年生に感謝を伝える会。
 先輩たちは生徒会長の言葉に従い、こちらに体を向けてきた。
 あ。先輩が目の前にいる。
 リハーサルの時とは違いリラックスした様子で、椅子の背もたれに背中を預け、足を堂々と開き、その間には組んだ手を置いてある。
 いつもと同じセンター分け。私よりも大きい体育館履き。紺のブレザーによく映える赤色のネクタイ。
 隣の友人らしき人と談笑しており、いつもは見られない無邪気な笑顔を顔に浮かべている。
 これだけで絵になるなんて、なんて男前なのだろう。
 話し終えたのか、こちらを見てきた先輩と偶然目が合ってしまったが、すぐに逸らされてしまった。
 少し傷ついてしまったが、目が合ったことを喜ぼう。ポジティブシンキングだ。
 前に出てきた指揮者の女子が右手を挙げる。それに合わせて足を開き、いつでも歌える姿勢にする。
 ピアノの伴奏が聞こえてくる。ちらっと彼の方を向くと、指揮者の方に目を向けている。
 まぁ普通は指揮者を見るか、下を向いた状態で聞くよね。これは普通のことだ。
 女子に嫉妬をしてしまったが、そんな気持ちで歌を歌えるわけがない。
 曲に気持ちをのせて、笑顔で歌う。
 口角を上げて歌うと明るく綺麗な歌声になる。
 聞いている側の人も、真顔で歌われているよりは良いと思うはずだ。
 先輩がもし見てきたとしても、この表情なら大丈夫だろう。何度鏡の前で笑顔の練習をしたことか。
 曲は一番のサビに入り、全てのパートの声が重なる。
 四百人分の歌声は体育館の隅々に広がり、壁や天井に反射し、自分の胸に返ってくる。
 別れのメッセージを込めた歌を自分に言い聞かせているのかもしれない。
 間奏に入り、そのチャンスを無駄にしないよう、先輩の方向に目を向ける。
 すると、先輩が私のことを見つめていた。
 体育館の大きな照明に照らされた彼の目には、私しか映っていない。
 彼の目の前にいるのは私だけなのだから。
 その一瞬だけ。
 太平洋に浮かぶ船の中には私と先輩だけ。
 日光が当たり、お互いが輝いている。
 波の音が聞こえるが、それはないも同然。
 静かな空間にいるのは二人。
 キャンバスに描かれたのは、赤と青の花。
 先輩。なんで私を見ていたんですか?
 ずっと見つめていると先輩の顔がみるみる赤くなり、下を俯いてしまった。
 私も恥ずかしくて指揮者の方を見た頃には、ピアノの音が響き渡る体育館に戻っていた。
 間一髪で二番を歌うのに間に合った。
 歌に集中したいのに、さっきの先輩の顔が頭から離れなくて、そんなことをしている暇はない、と心の中にいる誰かが叫ぶ。
 もう結界は破壊されてしまった。
 名前を知るまでは大丈夫だと思っていたのに。
 また見られているような気がして先輩のほうに視線を向けると、耳まで真っ赤にした先輩が再びこちらを見ていた。
 もうやめて。
 ファンという立場では満足できなくなってしまうじゃないか。
 自分でも分かるほど、顔が真っ赤になっていった。
 じわじわと何かが頬から耳へ広がっていき、動悸が激しくなっていく。
 隣にいる友人からなにか言われているが、そんなものは聞こえていない。
 好き。
 その感情だけに支配されていた。