理が苦しげに頭を下げるから、気にしなくていいと返した。
でも困った。名前を言うこともできないんじゃ、彼について調べる手段がだいぶ減る。
ここから解放されたい気持ちはある。だが理は、それによって事が大きくなるのは嫌がった。
まるで、誰かに見張られてるみたいだ。目立つことをして、誰かの気に触れることを恐れてるかのような。

( 考えすぎかな )

軽く首を横に振り、眉間を押さえる。
あまり悲観的になるのは良くない。スマホを持っていたなら、理が生きていたのもそこまで昔じゃないから。

しかし学校自体は県内では歴史ある方。だから調べれば調べるほど思考の糸が絡まる。
むしろ真相から遠ざかっている気もして、妙な胸騒ぎがした。
「理、お前他の階の鏡に移動できないの?」
『無理。だってここ狭いもん。四畳あるかないか』
理はそう言い、左右をきょろきょろと見た。
「息が詰まりそうだな」
『うん。普段は困らないけどね』
やっぱり地縛霊は移動できないようだ。理はニコニコしてるから、ほんと調子狂うけど。
「なぁ、名前も本当に間違ってないよな? どっかの他人の名前を自分のものと思い込んでたりとか、さ。名前だけが頼りだから、冗談抜きでこれだけは間違えないでほしい」
『間違えてない! そこまでボケてないし!』
理は地団駄でも踏みそうな勢いでぷりぷり怒った。

『魁だって、以前の苗字を忘れたりしないだろ。それと一緒だよ』

鋭い眼差しを受け、思わず息を飲む。
そうだ。理にもこの前打ち明けたが、旧姓を忘れることはない。
普段は忘れていても、鼓膜に、魂に刻み込まれている。
忘れたくても忘れられない。
「確かにな。馬鹿なこと訊いてごめん」
謝ると、彼はゆっくりかぶりを振った。
『いーや。そうはゆーても名前以外忘れてる俺が言っても説得力ない』
「それは……仕方ないだろ」
結局、理がおどけるから丸くおさまってる気がする。
彼は子どもっぽいところもあるけど、驚くほど大人なところもある。

この少年の過去が気になって学校どころじゃない。
でも理はたびたび釘を差してくる。自分にかまうより、今目の前にあることを優先しろと。
『あーあ。それより文化祭、俺も魁のクラス見に行きたいなぁ。普段はここでゴロゴロしてるだけで良いと思ってるけど、こういう時はやっぱ自由に動きたい』
彼は鏡に手をつき、目を輝かせた。俺も、叶うなら彼にクラスの出し物を見せてやりたい。青春をさせてやりたい。
ここから離れさせることができたらいいのに。
「理、俺に取り憑くこととかできないのか? ちょっと頑張って念じてみろよ」
『おい、いきなり何言い出すんだよ』
理は呆れながら後ろに引く。でも俺は真剣だった。
「ここに囚われてるとしても、霊体なら乗り移れるかもしれないだろ」
『ははっ』
彼は肩を揺らし、俺を真正面から捉えた。

『いいのかよ。そのまま俺に身体を乗っ取られるかもよ?』

いつもは大きな硝子玉のような瞳に、妖しい光が灯る。
一瞬で自分を取り巻く空気が変わった気がした。こうして見つめ合うこと自体が禁忌と言われてるようで、ゾッとする。
でも、逃げるつもりなんて微塵もない。むしろ逆だ。自分が彼を“囚えた”のだ。

「それでもいいよ。……お前になら」

未来に絶望してるわけじゃない。死ぬ気なんてさらさらない。
それでも、理に体を明け渡すことに何の抵抗もないのは……やはり、心の何処かで彼を信じているからだ。
『…………』
理は黙ってこちらを見つめていたが、やがて諦めたように両手を上げた。
『駄目だ』
「ん?」
『頑張って念じてみたけど、ひとに取り憑く力は俺にはないみたい』
片手をひらひらと振り、ため息をついた。
『安心したよ。本当に取り憑くことができたらどうしようかと思った』
「できた方が良いのに……」
理は「駄目だって」と言い、軽く口端を上げた。

『お前の時間をこれ以上奪いたくない』

優しくて、どこか儚い。糸のようにか細い声が心に触れる。
『さ。そろそろ教室戻んな』
どうしようもなく、理は優しい。自分が置かれてる状況に嘆いたりせず、常に俺を心配している。
影が生まれない。鏡面は氷のように冷たいはずなのに、何故だが温かい。
触れられないけど、繋がってる。

彼と過ごすこの場所が大切なんだ。

「……」

タブレットを持ち直し、廊下の方へ向かう。けどすぐに思い立って、鏡に振り返った。
「理」
『ん?』
「俺も、お前の時間を奪ってる」
理の瞳が揺らいで見えた。それでもかまわず続ける。
「お前が話を聴いてくれるから、嬉しくてどうでもいいことまで話しちまう。お互いさまなんだ。だから遠慮とか罪悪感とか一切覚えなくていい。……俺もお前も、時間の感じ方に違いなんてないし」
一時間は長い。
一日は気が滅入るほど長い。
視線を横にスライドし、頬を掻く。またまた恥ずかしいことを口走ってると思ったが、理性のブレーキが壊れたようだ。

でも彼に辛い想いをさせるぐらいなら、俺が羞恥心で死ぬ方がずっといい。
「……大丈夫」
許されるまで一緒にいたい。それが“俺”の本当の望みだ。

「どこにも行かないよ。もう寂しい思いはさせない」

何の保証も確証もないけど、約束したい。安心させたいんだ。

初めて会った日の、俺が立ち去ろうとしたときの寂しい声。

ああ。

────行っちゃった。

虚しくて淋しげな、孤独に打ち震えた声が、眠ってた感情を呼び覚ました。