「……はい?」
理解の外だ。間の抜けた声で聞き返すと、彼は腰にを手を当て、大真面目に説明してくれた。
「現実の水野は、つつがなく生活してる可能性もあるだろう? その鏡の中の水野は、それこそ生き霊のような存在かもしれない。なら鏡ごと壊して、消してやるのが正しい気がしないかっ?」
「そんな……彼の体に悪影響が出るかもしれないのに、そんなことできません」
再び鏡の前に立ち塞がり、理の様子を窺う。彼は俯き、震えていた。
( やっぱりそうか )
ようやくわかった。理が大人を怖がっていた理由。他人を疑っていた理由。
記憶を失いながらも、外へ出るのを恐れていたのは。────学校中を佐々波が歩いているから、いつも警戒していたんだ。
だがそんなこと知る由もない佐々波は、残念そうに眉を下げた。
「でも、先生も水野が怖いんだよ。水野が外へ出たら、何されるかわかったもんじゃないし」
「水野は良い奴です。その証拠に、半年間誰にも危害を加えなかった!」
どこまでも飄々と返す彼に憤りを覚え、夜の学校ということも忘れて叫んだ。
「そもそも貴方は理のおかげで外に出られた。なのに何で助けようと思わないんですか」
叫んだ瞬間、佐々波は前に踏みだして鏡を蹴りつけた。一切容赦がない。あまりの衝撃と轟音で、割れたのではと焦ったが、強固な作りの大型鏡はヒビも入っていなかった。
佐々波は目を細め、低い声で呟く。
「一日閉じ込められただけで気が狂いそうだったんだよ。そんなにこいつが心配なら、お前が入ったらどうだ」
「…………そのつもりです。俺の体を、理に貸します」
「ふ〜ん?」
脅しに毅然と返したが、腹を蹴られて床に倒れてしまった。
「かはっ……」
「ううん。そしたらお前の体に入った水野が、俺に復讐に来ちゃうな。それは困る」
もう一発、二発と蹴りを入れられる。襟を掴まれたが、何とか鏡から離れないよう踏ん張った。
「もう俺もビクビク過ごすのはウンザリだ。今日この鏡を壊す。どけ、凪原」
「嫌、です。……死んでも……どきません」
床に座り込み、鏡に背を預ける。髪を掴まれ床に叩きつけられた。痛みで気が遠のきそうになったが、唇を噛んでその場に留まった。
『魁っ!!』
朦朧とした意識の中で、理の悲痛な声が頭の中に響く。
『先生!』
喉が張り裂けそうな……今にも泣きそうな少年の声が、頭上で虚しく分散する。
『お願いします、やめてください! かっ……鏡を割っていいから、これ以上魁を傷つけないでください!』
何言ってんだ、このばか。
駄目に決まってんだろ。理のことも怒鳴りつけたいぐらいだったが、痛みで上手く声が出せない。そんな俺を無視し、佐々波は鏡面に手をついた。
「そうか。ごめんな水野。俺も本当はやりたくないんだけど、仕方ないよな」
彼は微笑み、鏡を殴った。
『……っ』
「でも全然割れないんだよな。素手じゃ無理だから、何か持って来るか」
『せ……先生。本当に、魁には何もしませんよね? 息も苦しそうだし、先に救急車呼んであげてください。お願いだから……』
「んん? そうだな……」
佐々波は魁の前髪を掴み、虚ろな目で笑った。息が荒く、ここへ現れた時とは明らかに様子が違っていた。
「死んだら仕方ない。仲良くあの世に逝けばお前も嬉しいんじゃないか?」
『……ッ!!』
俺を恨まないでくれよ、と言い残し、佐々波は先を歩いた。
「もうさ、この鏡が全部悪いんだよ」
ゆらゆらと去っていく佐々波は、常軌を逸している。彼の姿が完全に見えなくなってから、理は下に屈み、声を張り上げた。
『魁っ! 魁、大丈夫か!?』
「あぁ……」
魁はゆっくりと顔を上げる。それから頭を押さえ、口の中にたまった血を吐き捨てた。
「くそっ……口ん中切ったし頭くらくらする」
『警察呼べ警察! あと救急車!』
「はいはい……」
大変な目に遭ってもっと混乱してもいいはずなのに、何故か落ち着いている。
理を守るという使命感だけで、死への恐怖も打ち消される。
単純で面白い……。
笑いをこらえながらスマホを取り出す。だが指先が震えて上手く操作できなかった。
「くそ……理、ちょっと代わってくれないか。俺よりお前の方が痛みに強いかもしれないし」
『……!』
魁の右手が全く動いてないことを確認し、理は息を飲んだ。誰もいない廊下を確認し、奥歯を噛み締める。
『……わかった。一度代わるぞ』
「あぁ」
互いに両手を合わせる。一瞬だけ眩い光に包まれ、バランスを崩した。鏡の中に見えるのは、傷ひとつない魁。
逆に、理は傷だらけの魁の肉体に入っていた。
『よし、無事に代われた。理、まず逃げろ。学校の外に出て、距離を取ってから警察を呼ぶんだ』
「駄目」
『は?』
提案を一蹴され、魁は目を見開く。どういうつもりだと見返すと、理は静かに告げた。
「そんなことしてる間に、あいつがここに戻ってくる。そしたら鏡の中にいるお前が危ない」
理はスマホをポケットに仕舞い、鏡に背を向けた。
「だからちょっとだけ待ってて、魁。……必ず戻るから」
薄暗く、冷え切った校舎。見えない何かが蠢く場所。
ひとが育てた驚異が息を潜めている。佐々波はふらつきながらも職員室に戻った。
さっきから膝が震えている。……のは興奮してるのか、それとも恐怖してるからか。
「はは……はぁ……っ」
馬鹿馬鹿しい。子ども相手に何を怖がる必要がある。
自分にも言えることだが、そもそも騙される方が悪い。
四月。クラス替え当日、鏡の中に閉じ込められた自分の前に、転校生の水野が現れた。
他の生徒より早く登校してきた彼は驚きつつも、心配して近寄ってきた。だから“あいつ”と同じ台詞を言った。
『両手を合わせてほしい』。
まんまと言うことを聞いた水野は鏡の中に入り、俺は無事元の体に戻ることができた。また、傍には意識を失い倒れている水野の体があった。
鏡の中で驚いている水野を残し、恐怖と歓喜に震えながら冷静を保った。
彼の体を廊下まで移動させ、救急車を呼んで。半年近くもの間、誰にもバレなかったのに。
「クソが!」
暴行したことがバレたら人生終了。鏡を壊した上で、凪原の口も封じなきゃいけない。
痛めつけるだけじゃ駄目だ。
「火をつけて……焼き殺すか」
非常装置が発動しないよう、外に連れ出してから火をつける。殴打した跡の隠滅はできないかもしれないが、時間稼ぎをしないといけない。
どちらにしろ、水野が外に出てきたら俺はあいつに殺される。だから二人とも始末しないと!
カバンの中をあさってライターを取り出す。鏡を割るために、手頃な物も探した。
椅子……いや。
「工具入れに金槌があったな……」
部屋の奥に行き、鍵付きのキャビネットを開ける。暗いせいでよく見えないが、工具箱があったので持ち上げた。
だが焦りのあまり手が滑って、箱ごと床に落としてしまう。
真夜中の職員室で大きな音が反響した。
くそ……。
すぐに下に屈んだが、手を伸ばす前に金槌を拾われた。
「どうぞ」
「あ。ありが……」
とう、と言いかけて固まった。
「どういたしまして」
低い声と共に振り下ろされたのは、硬くて重いもの。頭上に振り落とされ、痛みで突っ伏す。床に片手をついたとき、上履きが目に入った。
「ぐあ……お、まえ……!?」
「驚きました? 俺です、先生。水野です」
血でぬれた頭を押さえながら顔を上げる。そこには確かに、さっきまで自分が暴行した凪原が立っていた。
とても大丈夫には見えない、痛々しい姿。しかし凪原とはまるで違う、冷たい色を瞳に宿している。
「おかげさまで全部思い出しました。俺、貴方が怖くて仕方なかったんです。いつ鏡を割られるのかって、ずっとビクビクしてた」
凪原……水野は持っていたテープカッター台を乱暴に机に置く。そしてこの場に不釣り合いな、穏やかな笑みを浮かべた。
「でも、それと同時に大事なことを思い出したんです。怖くて怖くて仕方なかったけど……そうだ! そういや俺、貴方のこと殺したいぐらい憎んでたな、って」



