俺が東京へ行って手掛かりを探すのも良いけど、理が実際に向こうの景色を見た方が良いと思った。
数日程度じゃ何もわからないかもしれないけど、先ずやらないことには前に進めない。鏡に手をつき、囁くように彼に問いかける。
「早く元の体に戻って、自分の目で色々見たいだろ?」
『もちろん……そうだけど。この中に入ったら、記憶が消えていくんだぞ』
数時間入っただけで、如実に影響が出る。理は苦しそうに顔を歪めた。
『お前になにかあったら。それこそ耐えられない。本当におかしくなって、戻れないと思う』
「大丈夫だ!」
もちろん、不安が少しもないわけじゃない。この鏡の空間に関して、俺達は知らないことが多過ぎる。
でも、それを畏れて未来を手放すことは絶対したくないんだ。
「俺は忘れない。ずっと待ってるよ。お前と一緒に出掛けられる日」
『魁……っ』
鏡に両手をつく。
理もゆっくり……恐る恐る、両手を合わせようとした。
あと少しで触れるという時、背後で異様な靴音が鳴った。
「何をしてるのかな。凪原君」
「っ!!」
降り掛かった声に心臓が跳ねる。驚いて振り返ると、そこには背の高い誰かが佇んでいた。
まるで気配に気付かなかった。ライトを向け、少しずつ上に持ち上げる。
自分を知る、大人の男性は限られる。逸る鼓動を抑えながら目を凝らすと、そこには今日も挨拶して別れた人物がいた。
「佐々波先生……? 何でここに?」
「職員室で残業してたんだよ。何でここに、はこっちの台詞」
彼はやれやれと言った様子で頭を押さえた。でも、それはおかしいとすぐに悟った。
俺は二階に上がって職員室の前を通った。そのとき部屋の明かりは消えて、中に誰一人いないことも確認した。
だから彼がここに来たことが“偶然”とは思えない。
「本当なら重大な校則違反。来年受験なのに、まずいよね」
「は……い」
「でも、黙っててあげることもできるよ。……条件付きで」
彼はそう言うと、不自然なほどにっこり微笑んだ。
何なんだ。無意識に移動し、鏡の前に立って彼の視界から隠す。返事を待ってると、彼は俺を指差した。
「二度とここに近付かない。その鏡に関わらない、って約束すればね」
……!!
ライトを下へ向ける。
佐々波先生は口元は笑っていたが、目は石のように固まり、まるで笑っていなかった。
心拍数はずっと上がっている。
「先生……俺が転校生の話をしたとき、何も知らないって言いましたよね。あれは嘘だったんですか」
「んっ? そうだね。変な噂に振り回される生徒を守るのも、俺達教師の務めだからね」
「理も生徒ですよ!」
彼はわかってる。この鏡のことも、中にいる少年のことも。
「彼も守る対象だったはずでしょう!」
耐えきれずに一喝すると、彼は吹き出し、大笑いした。
「はっはっは! ……はーあ。……転校生同士、変な運命でも感じちゃったのかね。誰にもバレなかったのに、最悪だよ」
彼の本音が垣間見えた。俺というイレギュラーが転校してきたことが最悪だと、本気で面倒がってる声だ。
「理を鏡に閉じ込めたのは、先生なんですね。……貴方が理の前に、この鏡の中に閉じ込められていた」
「そうだよ。ま〜一日ちょっとだけどね。今年の始業式の前日、巡回してたら鏡の前で倒れてる男性がいたんだ」
すぐに起こして救急車を呼ぼうと思った、と彼は瞼を伏せる。
「でもどこかから呼ぶ声がして……驚いて見たら、その青年は鏡の中にいたんだ。そして鏡に手をついてほしいと頼んできた」
佐々波はこちらへゆっくり歩いてくる。魁の肩を押してどかせると、鏡面をノックした。
「パニックになりながら、バカ正直に両手を合わせた。気付いたらこの中に入って、倒れてる自分を見ていた。びっくりだよ」
「……貴方と入れ替わった男性はどうしたんですか?」
「無事肉体に戻れたみたいで、スタスタと去って行ったよ。床には抜け殻の俺の体が転がってた」
それも酷い話だ。彼の前に入っていた人物は、礼どころか詫びもせずに逃げて行ったのか。
「すぐ騙されたと気付いた。追いかけたかったけど鏡から出ることができなくてね……体は目の前にあるのに、本当にもどかしかったよ。俺を騙した奴を捕まえることに頭がいっぱいで、気が狂いそうだった」
佐々波は何度も鏡をノックする。その力は段々強くなっていった。
「憎くて憎くて、何とか復讐してやろうと思った。でもこの空間にいると記憶に障害が出るみたいなんだ。今はもう、俺を騙した奴がどんな声で、どんな顔をしてたのか……知り合いだったのかどうかも、まるで思い出せない」
「それで……始業式の日に、理を見つけたんですね」
「あぁ。水野は救世主だったよ。本当に感謝してる」
彼は鏡から離れ、懐かしそうに目を細めた。
「水野はクラス替え当日に東京から転校してきた。でも君と同じで、職員室の場所がわからず迷ってたんだよ。そしてここで、倒れてる俺の体を見つけた。……な? 水野」
『……っ』
佐々波は俺の手からライトを奪い取り、鏡に向ける。
そこには青ざめた顔の理が映っていた。
「もしかして全部忘れてたかな? 俺もここに近付かないようにしてたからなぁ。……そのまま隠れて過ごしたら良かったのに、凪原君が引っ掻き回したせいでめちゃくちゃだよ」
「理を身代わりにして、鏡から出て。その後放置なんて酷すぎます!」
「仕方ないだろ、騙して入れ替わった以上恨まれるに決まってるんだから。それに俺はあいつと違ってちゃんと救急車も呼んだ」
水野はそのまま入院し、復帰することなく学校を辞めた。
顔合わせをしてないから、転校生が来なかったことに関してクラスで騒ぎになることはなかった。
死んだわけでも、行方不明になったわけでもない。転校生がひとりおかしくなっただけ。
最後に水野の両親と話したとき、彼が抜け殻のような状態になってることは察しがついた。しかし彼らにその原因がわかるはずもない。増して、精神が鏡に入ったなどという非現実的な話を信じるわけがない。
……天は自分に味方した。
水野のその後は知らないが、やるべきことはやった。
佐々波は高らかに笑う。
「もし鏡の中に精神だけ残っていたとしても、全て忘れてしまえば苦しまずに済むだろ? でも君が水野の過去を引きずり出して、彼をさらに苦しめたんだ。だから責任をとらないといけない」
「責任?」
「あぁ。ここに近付かないようにして、彼のことを忘れるのも良いけど。……もっと正しいのはこの鏡を壊して、この不幸の連鎖を断ち切ることだ」



