『ハム五郎』
「なんて?」

放課後。空が闇に乗っ取られた頃。踊り場の階段へ行くと、鏡の中の少年は開口一番謎のワードを口にした。
『俺が飼ってたハムスター。吉祥寺で出会ったジャンガリアン。享年二』
「おまっ……思い出したのか!」
ネーミングはさておき、理は落着した様子で瞼を伏せた。
以前ペットの話をしてたけど、また急に風が吹いたのかもしれない。コートを腕にかけ、鏡に近付いた。
『夜中に回し車でカタカタ走りまくって、連日寝不足だった。歯車が狂ったのは、あの辺りからかも』
何の罪もないハムスターに責任転嫁すな。
軽くたしなめ、一応スマホのメモに入力する。
というか、がっつり地名出てきた。その辺りに昔住んでたってことか。
「いつまで東京にいたのか思い出せない? それか、茨城に何年いるのか」
『ん〜。何かさ、俺茨城って聞いても全然ピンとこないんだよね。何で茨城? って感じ。そう……あと読み方っていばら“ぎ”? いばら“き”?』
「いばらき」
『サンキュー。だがそれを知ったところで、俺は何も変わらない』
何だこいつ。
『真面目な話、頑張っても東京のことしか思い出せないよ』
理は両手を頭の後ろで組み、のほほんと告げた。
単にここに来てからの記憶がごっそり抜けてる可能性もあるけど……さすがに縁もゆかりも無さ過ぎ、という様子。
「お前、納豆好き?」
『好き!!』
理は満面の笑みを浮かべて答えた。
もう茨城県民ってことでいいや。という気持ちを見透かしたらしく、彼は鋭い目つきで俺を見た。
『魁は蟹好き?』
「好きだよ」
『ウニは?』
「好きだな」
『食べ物で推測したら、お前は北海道民になる。俺が納豆好きだからって茨城県民ってことで終わらせるのは良くない』
「何だろう。謝ればいい?」
『めんどくさい奴のテンプレ回答するなよ。最近ウーチューブ観過ぎだぞ。悪影響だからアプリ消しなさい』
俺もあえてウザい対応をしたけど、動画の視聴時間自体は俺より彼の方が長い。最近は目の前にタブレットを置いてやってるから。

しかしそれはそれ……確かに食べ物で決めるのは考えが浅すぎだ。
「適当に言ってごめん」
『いいよ。北海道行ったらウニ丼奢ってくれるんだろ?』
そんな約束をした覚えはないけど、ひとまず頷く。

『不思議なことに忘れてく記憶もあれば、吹き返していく記憶もある。最近は大昔のことを思い出して、直近のことほど忘れる』
「俺の認知症の爺ちゃんがそうだったな」
『爺ちゃん……爺ちゃんも辛かったと思うけど、話戻すぞ。俺はマジでどうでもいいことばっか思い出す。自転車漕いでたらヘドロだらけの溝に落ちたこととか』

理は小さく息をついた後、気まずそうに頬を搔いた。
『もしかしたら、大事なことを思い出すのが怖くて、無意識に拒否ってんのかも』
「それは……」
俺も以前、少しだけ思ったことだった。
ここに囚われる前、理は絶対に辛い目に遭った。だから本人の意思とは関係なく、頭と心が自分を守ろうとしてる可能性がある。
人間の本能で、自然な行動だと思う。

「小学生の頃、クラスの奴に掃除用具入れに閉じ込められたことがある」

そう思ったら、鍵付きの箱に入れていた記憶が口から零れていた。
「お前の苦しみと比べんのはおこがましいけど……あんなちょっとの時間でも、すごく怖かった。だから記憶を封じ込めようとするのは普通だ。本来はそれでいいんだよ」
苦しみ続けるぐらいなら、そんな記憶は丸めてゴミ箱に捨てていい。
ただ、理の場合大事な記憶に直結している。ここから抜け出して家に帰る為に、思い出さないといけない。
それを言うのも酷だ。だから、また口を噤んだ。
理は不満そうに顔を顰め、腰に手を当てる。
『何だそれ。そういうことすんの、マジで腹立つな』
「あはは。ま、子どもだから」
『でもさぁ……狭いし暗いし、そりゃ怖いよ。俺の場合はほら、ここ明るくて寝転べるし』
彼がおどけて言うから、つられて笑った。
もう高校生だから、あのときのことを思い出しても傷ついたりはしない。自分が弱かったこともそうだし、付き合う相手を間違えたことも悪いから。
でも、本当は。

『その時のお前は傷ついたに決まってる。普段は忘れてても、心のどっかで子どものお前が泣いてんだよ』

燃え尽きた……はずが、まだ燻ってる想い。
それから目を逸らし続けていたことを、理は一瞬で見抜いていた。
そもそも情けないし恥ずかしいから、誰にも言いたくなかったことなのにな。素直な彼を前にすると簡単に弱さを晒してしまい、困る。

「泣いてたかな。……覚えてないや」
『忘れていいよ。今度は俺が守るから』

なっ。
予想外の台詞に、思わず二度見する。
「お前に守られるのはちょっと想像つかない……」
『こらこら。人を見た目で判断するなよ』
また互いに見つめ合い、吹き出した。少し寒くなってきたから、コートを羽織って両手をポケットに突っ込む。
「傷ついたにしろ、傷ついてないにしろ……誰かに聞いてもらうのって大事かもな。ありがと」
『おう。いつでも言えよ。何でも、何時間でも聞くから』
理はくるっと回り、軽く手を翳した。
『お前の力になりたい』
「……」
もうなってるよ。
心の中だけで答え、階段の方へ向かった。

「明日も来る」
『おけ。おやすみ!』

彼の夜はこれからだ。
外へ出て、空に浮かぶ薄月を見上げる。昼も夜も、俺の傍にはあれがある。
常に心を照らしてくれる存在。坂道を下り、遠くに瞬くネオンの街に目を眇めた。