今まで立っていた崖っぷちから、ようやく景色を見る余裕が生まれた。

燃え滾ってるせいか、額に汗が伝う。涼しいはずなのに、鼓動が脈打ち、胸を熱くした。
魁は袖で額を拭い、理にゆっくり説明する。

「お前の体……本体が、絶対どこかにある。もちろん、事故とか病気とかしてなければだけど」
『どういうこと?』
「魂だ。精神だけが閉じ込められてるんだよ。仕組みは全然わからないけど、この鏡にはそういう力がある」

鏡面を軽くノックし、唇を噛む。
鏡の中に体ごと入ることはできない。必ずこの場に、体だけは取り残されることになる。
「今回は俺がいたから、互いの精神が入れ替わっただけで終わった。でもお前の体をここへ連れてきて手を合わせれば、外へ出られるかもしれない」
『……そんな上手くいくか? そもそも俺の体が今も存在してるかわからないのに』
「あると信じて捜すしかない。俺が捜すから大丈夫」
ただ、それとは別に気になるのは……理はこの鏡の前で、誰と入れ替わったのか、ということ。

理の前に鏡に入っていた人物が、理を誘き寄せた。でも彼はほとんど記憶を失ってるから、見当がつかない。
( それかもしくは…… )
鏡に両手をついたとして。誰も入ってない状態でも、精神たけ入ってしまうこともあるんだろうか。
「どっちにしろ体は絶対ここに倒れるから、お前の体は外へ運ばれた可能性があるな。それか今回みたいに、お前の体に誰かが入って、当たり前みたいに生活してるかも」
『うぇ。それだと俺、今もどこかで普通に過ごしてることになるじゃん。行方不明にもならないし、誰にも捜されてないよ』
中身が違う。もしくは消滅してることに、誰一人気付いてない可能性がある。それは地味に怖いことだと思った。

『俺の体、本当にあるのかな』
「あるよ。だから待ってな」

理の意思と記憶が保ってる間に、何としても見つけ出す。拳を痛いほど強く握り、魁は頷いた。
「というか……最初に俺が霊だと勘違いしたことがまずかっよ。またひとりにさせるし。本当にごめんな」
『それはいいんだって。何度も言ってるけど、家族のことを忘れてるから……寂しいとか悲しいって感覚が薄れちゃってる』
理は苦笑し、それから額を鏡にあてた。
『俺は何があっても、お前を無事に家に帰さなきゃいけないんだ。これこそ使命なんだよ』
面白おかしく言ってるけど、俺の体を奪えば本当にここから出られたはずなのに。

そんなことは絶対しない。
優しくて、強い。
俺とまた代わってくれたことを、心の底から感謝し、……尊敬した。

普通は望まずここに閉じ込められたら、常に外を見張って、自分を閉じ込めた奴を血眼で捜しそうだ。
するとここから出たひとは、皆この場に寄りつかなくなるはず。自分を恨む奴が、鏡の中から自分を捜してるんだから。

秦野さんがここでは何も感じないと言ってたのは、霊とは全然異なる存在だからかもしれない。

『あ。話は戻るけど、魁も前に救急車で運ばれる人がいるって言ってたじゃん? もしかしたら俺の体は誰かに乗っ取られたんじゃなくて、そのまま抜け殻みたいになってんのかもね』

廃人みたいな、と言って彼は笑った。こっちとしては全然笑えないけど、その可能性も高い。
こうなったら、片っ端から捜してみよう。
ただ今まで通り、親族じゃないから警察には頼めない。
一般人が閲覧できる情報は限られるし、未成年だけじゃ探偵も雇えないと聞いたし……するとやっぱり、SNSが一番有効そうだ。
けど理は何かを異常に恐れてるから、どうしても言い出しづらい。

「とりあえず、また明日考えよう」
『そうだね。……本当にありがと、魁』

理は照れくさそうに笑った。
「まだ何もしてないだろー?」
『しまくりだよ。俺はもう救われてる。だって魁は、嬉しいことばっかしてくるから』
参ったなとぼやきつつ、彼は手を叩いた。
『そうそう。久しぶりにメロンパン食べたんだけど、美味しかったよ。ただ飲み込むの大変だった』
「へぇ……どうせなら弁当とか買えば良かったのに。明日また交代するか?」
提案すると、理は首を横に振った。
『もう代わらない。我慢したら、そのぶん喜びもすごそうだし』
「そうか。……そうかもな」
目を細め、彼に同意する。廊下の照明と、踊り場の照明が点灯し、一気に場の空気が変わった。

『魁の友達、優しかったよ。俺のせいで心配かけちゃったから、明日フォローお願い』
「ははっ。わかった」

本当に。クラスの友達も、理と同じぐらい大事な宝物だ。
鏡に片手だけ触れ、魁は踵を返した。

「理、早く色んなところに遊びに行こうな。じゃ」
『……うん!!』

もう一度彼に笑いかけ、一段一段下へ降りる。
今までで一番、足取りが軽かった。体以上に心が舞い上がってしまってる。魁は笑いが零れそうになるのを必死に堪え、家路についた。