『え』

とても小さな空間にいる。
白すぎてどこが天井かわからない。雪景色のような純白の世界。
魁はそこから、戸惑った表情を浮かべる自分を見ていた。

理の姿はない。恐らく理は今、“凪原魁”として現実世界に立っている。
推測が正しければ魁が鏡の中に入り込み、鏡の中にいた理が外へ放り出された。そして、魁の体の中に入り込んだ。

……何が起こってるんだ。

頭では理解しても、納得できるかどうかは別の話。現実問題、魁の中にいる理も狼狽している。

「俺、魁の体に乗りうつったのか……?」
『……乗りうつる?』

理の台詞を聞き、即座に違和感を覚えた。
仮に乗りうつったとして、乗っ取られた側の自分がこうも自我を保ってるだろうか。
まして、鏡の中で……彼の“身代わり”になるような形で。

どう考えても、魁の精神だけ鏡に閉じ込められたとしか思えない。これまで鏡の中にいた理が外へ弾き出され、そこにいた俺の体に宿ったとしか。
気付けば頭痛や嘔気は消え、とても楽だった。肉体がない状態だからなのか、眠気なども感じない。

『……ま、ま、ま。理、一旦落ち着け。俺もだけど』
「あ、ああ。ちょっと深呼吸する」
『うん。俺達が入れ替わった……きっかけは多分、両手を合わせたことかもしれない』

相対し……驚いて目を見張る俺。もとい理を、冷静に見つめた。
今のところ、それしかトリガーは思いつかない。これまで片手を合わせたことはあるけど、両手は初めてだ。
ただ肉体はひとつしかない。理が外に出られたのはいいが、俺の体を乗っ取るというのは想定外だし、普通に困る。どちらにしろ一度戻らないと。

「そうだな! じゃ、もう一回両手を合わせ」
「君、そこで何してるんだ?」

理が話してる最中に、彼の後ろで低い声が聞こえた。
反射的に体を屈め、鏡の範囲から姿を隠す。
この声は確か……。
恐る恐る確認すると、ひとりの男性が理の傍に立っていた。

彼は確か、転校手続きのときに少し話した。二年の学年主任の男性だ。ハラハラしながら、俺(理)と彼のやりとりを見守る。
「凪原君じゃないか。今は授業中だけど、何でここにいるんだい?」
「あ、えっと、その……」
理は露骨に狼狽えている。状況を飲み込めてないせいで、頭が働いてないようだ。手助けしてやりたいけど、鏡の中から話しかけるわけにもいかない。
頼む、何とか上手く言い訳してくれ。
「す、すみません。戻ります。ちなみに俺のクラスって何組でしたっけ」
「何を言ってるんだ。二組だろう?」
「あぁ! そうでした」
転校してから二ヶ月以上経ってるのに何言ってんだって思われてそう。
でも中身は何も覚えてない少年だから仕方ない。
すると学年主任は、あたふたしてる理の腕を掴んだ。
「とにかく、用がないなら早く教室に戻りなさい」
「わわ! ちょちょちょちょっと待ってください! さっき具合悪い人がいて……あっ違う、俺が具合悪くて、教室から出たので!」
「具合が悪いのかい?」
「いえっもう大丈夫です」
「そうか。じゃあ教室に戻りなさい」
「待って待って! わかりました、戻りますから!」
軽くくんずほぐれつだ。理は必死にその場で踏ん張っていたが、こちらに振り返って叫んだ。
「大丈夫! もうひとりの俺! アイルビーバック!!」
「一体どうしたんだ。悩みがあるなら職員室で聞くから、落ち着きなさい」

…………。

身を隠したまま瞼を伏せる。引きずられていく理の背中を見送り、魁は顔を両手で覆った。
最後の台詞は多分俺に言ったんだろう。とりあえず彼が上手く乗り切ると信じ、ここで待つしかない。

俺は俺で、この空間の謎を突き止めよう。でも。

理の存在、それから鏡の仕掛け。
これは根本から考えを改める必要がありそうだ。






やっばい。
めちゃくちゃやばい。どれぐらいやばいかと言うと、矢場さんがやばい奴らに誘拐されたぐらいのやばさだ。
「あ! 凪原、戻ってきた!」
「凪原君、大丈夫?」
「あっ……う、うん」
教師らしき男性に引っ張られ、二年二組の教室に押し込まれた。直後、近くにいた生徒達が駆け寄ってきた。

理は嫌な汗を滝のように流していた。動けるようになったことは喜ばしいが、肉体は魁のもの。乗っ取っているだけで本当の自由を手に入れたわけではない。具合が悪いのに鏡の中に残してきた魁のことが心配だ。

本当は今すぐ踊り場に戻りたい。
しかし魁の友達が相手じゃ、邪険にするわけにもいかない。
( この二人が、魁と一番仲良い子達か )
確か男子が松……じゃなくて、代山。女子が、津内さん。
魁がいつもお世話になってます。心の中で挨拶し、教室をざっと見回す。
学校の教室は、どこも似たり寄ったりだ。でも何故か、窓際の一番後ろの席は印象的だった。
しかもそこが魁の席ということが、……何故か胸がざわざわした。

「凪原君、早退はしなくて大丈夫なの?」
「うん、大丈夫」
「おっ。良かった、じゃあ昼飯食おうぜ」

授業が終わり、昼休みのチャイムが流れる。数学の先生が廊下に出ていった瞬間、皆リラックスし始めた。
( …… )
教室にいるのは生徒だけ。そのことに、異様なほど安堵してる自分がいる。
って、そんなことどうでもいい! そばにいる少年と少女に振り返り、笑顔を向けた。
「あ。お、俺売店行ってくるね」
「なら俺も行く! 万が一倒れたら怖いし」
「私も一緒に行くよ〜」
うおっ。
魁のところに行きたいのに、二人はついてきた。
駄目だ、放課後までひとりの時間を作れそうにない。諦めて三人で売店へ行き、中庭のベンチに座った。代山という男子はビニール袋からパックのジュースを取り出した。
「凪原、野菜ジュース買っといたから飲めよ」
「野菜ジュース……」
「あれ、嫌? 凪原君いつも飲んでるじゃん」
隣では、津内さんが不思議そうにまばたきしている。
魁に迷惑をかけないよう、彼のふりをしないといけない。ため息を飲み込み、代山君から野菜ジュースを受け取った。
「ありがとう」
お礼を言い、パックを持つ。自ら手を出さないだけで、嫌いなわけじゃないぜ……。
ビニールからストローを出そうとしたが、指先に上手く力が入らない。他人の体だからなのか、久々の現世だからなのか、悪戦苦闘した。
「お前何やってんの?」
代山は心底不可解そうにこちらを見て、それからストローを取り出してくれた。
「凪原君、やっぱり調子悪いんじゃないの。親に連絡して帰らせてもらったら?」
津内さんと心配そうにおにぎりを頬張る。魁のことを気遣ってることは嬉しいけど、気が気じゃない。今すぐ駆け出して、踊り場に向かいたい葛藤と闘っていた。

「大丈夫。やらないといけないことがあんだ」