予想外の位置からボールを投げられ、フリーズした。
受け止めることは叶わず、足元に落ちてバウンドする。
佐々波先生にはバレてたらしい。鏡に話しかけている姿を見られていなければ、焦ることはないが。
緊張が走る。拳をぎゅっと握り締めると、彼はやはり困ったように眉を下げた。

「もしかして、教室に居づらい……とかじゃない?」
「は」
「いや、授業はちゃんと出てくれてるから安心してるんだけど。昼休みとかは俺も教室に戻らないから。担任でも、生徒が普段どう過ごしてるかちゃんとは把握できないんだ。もし困ってることがあるなら相談してほしいなって」

彼は慌てふためいた様子で、もごもごと話した。若い先生だから尚さらなのか、積極的に関わろうとしてくる。それがわかって、肩に入っていた力が抜けた。
「ありがとうございます。クラスの皆は本当に好きですよ。悩んでることもありません」
「ほ、本当?」
「はい」
即答すると、彼は胸を撫で下ろした。安堵のため息をもらし、俺の肩に手を置く。
「良かった! とにかく、なにかあったら第一に相談してね」
「はい、ありがとうございます」
良い先生だな。姿勢を正し、お礼を言った。
「じゃ、一緒に教室行こうか」
朝のホームルームが近付いてる為、二人で白の廊下を歩き出す。生徒はちらほら見かけたが、とても静かだった。
朝は皆眠たげで、ぼうっとしている。それを見てるこちらも欠伸が出そうになる。
「そうそう。話は戻るけど、あまり階段の前にいない方がいいよ」
「あ……すみません。スマホはいじらないようにします」
「ん、それもあるけど。……ここの学校、怖い噂があるんだよ。踊り場の鏡に近付くと、気を失って倒れるっていう」
息が止まる。また頭を殴られたような衝撃を受け、先生を見返した。
「聞いたことあります。売店のレジの方が卒業生で、救急車で運ばれた人がいるって」
「あぁ、秦野君ね。俺は三年前に来たから当時のことは分からないけど、本当みたい。魂抜かれたみたいにピクリとも動かなくなったって」
魂。
そういえば、鏡と魂はなにか繋がりがあるんだっけ。
蓮は魔物がいるとも言ってたし。やっぱり異質な物であることは間違いなさそうだ。
「怖いよね。まぁ、噂だから心配しなくていいけど。あまりあそこにずっといない方がいいよ」
「あ、はい。わかりました……」
でも、そういうわけにもいかない。嘘をつくのが心苦しくて、心の中で土下座する。
佐々波先生は教室に入る寸前も、同じことを呟いた。
「あれは怖いよ。本当に」






音がない。
光はある。高さ百八十センチ、幅九十センチほどの範囲に映る学校の踊り場を眺めている。
────いつからここに居た?
分からない。
理は自問自答し、真っ白の空間の中でゆっくり立ち上がった。

ここには何もない。いるのは自分だけで、ほかに気配は感じない。それが怖くなるときもあるけど、慣れてしまった。多分、既に一度発狂した。それから時間が経ち、知らず知らずのうちに正気に戻った。

知らない高校の制服を着て、知らない高校の踊り場を眺めている。
腹も空かないし眠くもならない。ある意味不死身だ。けど何も覚えてないし動けないから、漫画みたいな無敵感はない。むしろいつまでも何やってんだ、と虚しくなる。

でも、誰かに声を掛ける気になれなかった。毎日目の前をたくさんの生徒が通り過ぎるのに、呼び止める勇気がない。
無視されたら、怖がられたら。
鏡を割られでもしたら。……俺は本当に消えてしまうんじゃないか。

恐怖の海に沈んでいく。
音も光も届かない深海。生まれたときから何も見えなければ、闇の中にいることすら気付かない。ここも同じだ。白すぎて感覚が麻痺している。
こっちが現実で、生徒達が歩く踊り場が異世界なのでは、という妄想を何千回もした。だけど夜が来て、誰の声も聞こえなくなると、やっぱりおかしいのはこちらなのだと優しく気付かされる。

────外が、怖い。

ここから動けない理由がある。実際踊り場に出ることはできないけど、それだけじゃない。
何かがいる。絶対に姿を見られたくない存在が、すぐ近くにいるんだ。
それがなにかはわからないけど……。

胸に手を当て、もう片方の手を踊り場へ向ける。

魁。
初めて声を掛けようと思った少年。優しくて、頼り甲斐があって、陽だまりのような子。
これからもずっと一緒に笑い合いたい。けどこのままじゃ彼のことすら忘れてしまいそうだ。

有り得ないのに、誰かの啜り泣く声が聞こえる。

記憶が逆流して、直近の出来事が沈んでいく。

もうやめてくれ。

呼吸なんかしてないはずなのに、息苦しくて仕方ない。喉元を掻きむしり、鏡がある場所に手をついた。

いつまでここにいないといけないんだろう。
何でこんな目に遭わないといけない?

誰か助けて。

『魁……』

届くわけない声を振り絞り、何度も彼の名を呼んだ。
忘れてしまわないように、うわ言のように繰り返す。

不透明な世界で、自分を保つこと。それはとても辛く、苦しく、怖い。

怖い。

怖いけど、その恐怖の根底にある感情は。