『魁の友達の名前って、松山君だっけ』
「惜しい。代山な」
『あ、そうそう。それと、この前あの娘も見かけたんだ。ボブの可愛い娘……、鈴木さんといるの』
「津内さんじゃない?」
『あ、それ! 珍しい名前だから逆に覚えられなくて……! ごめんごめん』

肌寒く、いよいよブレザーが手放せない気温になった。
寒いと心にも冷気が入ってくるから不思議だ。例えようのない焦燥を蹴り飛ばし、さらに追い立ててくる。
多くのひとにとって憂鬱な月曜。の放課後。
理の記憶力は、もはや看過できないほど低下していた。
「理。俺のクラスの文化祭の出し物、何やるかわかる?」
『も、もちろん。ええと……タコ焼き屋?』
目泳ぎまくってるし。
忘れてることより嘘の下手さにため息をつくと、彼は不憫なほど上擦った声で身を乗り出した。
『ま、待った! 今のは冗談だから!』
「いいよ。お化け屋敷な」
わきに抱えていたタブレットを翳し、内装の完成図を見せる。
ちなみにこれは金曜日に見せた。理は「すごい」と興奮して拍手してくれていたのだが。
「……日に日に酷くなってるな」
『う……』
気まずそうに俯く彼の頬部分に、手を触れる。
本当に、触れられたらどんなに良いだろう。
「大丈夫」だって、「気にするな」ってつついてやりたい。でもそんなことすら叶わない。
魁は目を細め、徐にタブレットを下ろした。

ここ二週間ほど記憶保持に懸念はあったが、連休を挟むと顕著だ。
理の記憶力が著しく低下している。
今は二、三日程度のことだからいいが、そのうち昨日の内容まで忘れてしまったらどうしよう。普段のお喋りどころか浄霊の為の情報共有もままならなくなる。ここに来て大変な危機感を覚えた。
「忘れるのは仕方ないし、悪いとか思うなよ?」
『でも……せっかく話したことを忘れるなんて嫌だ。魁の文化祭のこととか、ずっと聴いてたはずなのに』
理は鏡の内側から手を伸ばし、俺に頭を下げた。
彼は強い恐怖と罪悪感と闘っている。それだけはわかって、俺も唇を噛んだ。

ここに留まったら……ここに留まるほど、記憶を失う。最初からわかっていたことだ。
でも自分と話してると急に過去のことを思い出すから、むしろ良い兆候が芽生えてると思っていた。それは都合良く解釈し過ぎだったか。
振り出しに戻り、何度も逆行している。

『いつか覚えてないけど、魁に会うずっと前……記憶が削られていくのがわかって、本当に怖かったんだ。俺、またああなるのかな。魁のことを忘れて、自分の名前も忘れちゃって。……いつか、ひとだったことも忘れるのかな?』

怖い。
怖いと、理は何度も繰り返した。
初めて聞く声だった。段々、怖いと告げる彼のことまで怖く思えて、頭がくらくらした。
( ……違う )
落ち着け。俺がしっかりしなくてどうする。
初めから、理はひとりで闘っていた。その不安や恐怖を隠していただけだ。“意識”しなければ怯える必要もないから、なるべく見ないようにしていただけ。
そんな彼に俺がビビってどうする。

今はただ、覚えてるはずのことが思い出せず、動揺しているだけだ。
現世に留まるほど記憶がなくなるとか、虚しさばかり募っていくとか。何でそう、暗い話ばかりになるのか。わからなくて段々腹が立ってきた。
とにかく、ここで手を離したらこれまでの関係がリセットされてしまう。顔を上げ、少々乱暴に鏡に手をついた。

「理。俺の目を見ろ」
『え?』
「俺の顔を脳裏に焼きつけて、名前を呼ぶんだ。意味とか考えなくていい。ひとりでいるとき、不安になったら何回でも俺の名前を呼べ。お前には俺がいる。だから大丈夫って、頭と魂に刻み込め」

理にはメモもノートも渡せない。彼の不透明な記憶に残るには、頭がおかしくなるほど自分の名を呼ばせるしかない。
運動記憶は、脳が忘れても身体が一連の動作を覚える。霊にこれが通用するかは不明だけど、口と耳で覚えさせる。
「ほら。名前呼んで」
『……魁』
「もう一回」
『魁。……って、これ何か……ふは、シュールで笑う』
理は可笑しそうに笑い、ぬれた目元を拭った。

『魁』
「ん?」
『俺、魁のことだけは忘れたくない』

理は鼻をすすり、拳を強く握った。
『家族のこと忘れて、自分のことすら忘れちゃったけど……魁といると生きてる気がするんだ。ここは寒くて暗いけど、魁が来てくれるとあったかくて……何か知らないけど、泣きそうになる』
「……」
空気を震わす声。鏡に反射する光。
それらを全部掌の中に包んで、飲み干してしまいたかった。
「……もう泣いてんじゃん」
『泣いてないよ。花粉症』
「バレる嘘はやめろ」
いつものやり取りをして、互いにはにかむ。
「大丈夫だよ、理」
記憶ほど頼りないものはない。俺だって、幼い頃に優しくしてくれた大人や、幼稚園の先生のことは綺麗さっぱり忘れている。

でもふとした時に思い出すんだ。今元気に過ごしてるのは、弱い自分を守ってくれた人達がいたからだと。
「お前が忘れても、俺が思い出させてやる。どこにいたのか、どんな人生を送ったのか、絶対突き止める。そんで会いに行くから……だから安心して待ってろ」
な? と笑いかけると、彼は強く目を瞑り、頷いた。

『文化祭……明日からだよな。楽しんで、魁』
「あぁ。終わったらまた来るよ」

おやすみ。
そう微笑むと、彼は片手を振った。

『おやすみ! またね!』