非現実的なものを見てしまったとき。───遭遇したとき、頭の中は本当に真っ白になるらしい。
魁は立ち尽くし、目の前の光景を呆然と眺めた。
壁にかかった鏡に映るのは自分。ではなく、ひとりの少年。気まずそうに前髪に触れ、こちらを見ている。
「……」
もしかしてもしかすると、特殊な構造の鏡なのかもしれない。一縷の望みをかけて手を伸ばす。
しかし、その希望はすぐに崩れ去る。手は冷たい鏡面にあたるだけで、少年の柔い肌に触れることはできなかった。
「……ごめん。ちょっとタンマ」
あまり取り乱したりしない方だけど、これはさすがに……手に負えない。
額を手で押さえて俯くと、少年も困ったように俯いた。
『こっちこそごめん。普通そういう反応になるよな。……うん』
やっぱり声を掛けなきゃよかった。
そう言って悔やんでる彼は魁と同じく、この高校の制服を着ている。けど着崩していて、髪も明るい。また目を見張るほど美形だった。
普通にモテそう……というのはさておき。何故鏡の中にいるのか。
可能性の高い推測を引き出し、恐恐問いかける。
「気に障ったら悪い。えっと、ここの地縛霊……とか……?」
『え。そうなのかな?』
少年は首を傾げ「マジかー」と唸っている。
『俺、幽霊なの?』
「いや、知らないから訊いてるんだよ」
さっきの緊張は何だったのか……呑気な反応に気が抜ける。
しかしこの様子から察するに、霊は自分が死んだことに気付いてない、というのは本当らしい。
霊感なんて一切ないし、霊的な出来事とも無縁で生きてきた。非現実的なものは信じない方だ。
でも、今自分が見ている“もの”はまさにそれ。否定したところで、頭が納得しない。
もう一度鏡に手をかけてみたが、しっかり固定されていてビクともしなかった。
「なあ、鏡に取り憑いてんのか?」
『え〜? どうせ取り憑くなら綺麗なお姉さんに取り憑くよ、俺は』
「だよな。……じゃなくて! なら何で鏡の中にいるんだよ」
反射的にツッコむと、彼は腕を組んでう〜んと唸った。
『……わかんない。気付いたときにはここにいたんだ』
彼の声や表情にふざけた要素はない。大真面目に答えている。
それはそれで大問題だ。何が未練か分かれば除霊……じゃなくて成仏する手伝いができるのに。何も覚えてないんじゃどうすることもできない。
「……ええと、とりあえず名前教えてくれる? 俺は凪原魁」
『凪原……俺は泡瀬。泡瀬理。よろしく!』
そう言うと、理は嬉しそうに笑った。顔も声もあどけない。
「ああ。……よろしく?」
一応挨拶し、鏡に触れる。
素直で、可愛い奴だと思った。男にこんな印象を持ったのは初めてかもしれない。芽生えた違和感に気付かないふりをし、咳払いした。
「あ。……あのさ。できれば名前で呼んでほしい。その苗字、まだ慣れないから」
『名前?』
「だから。魁、でいい」
この天然め。横目で告げると、彼は一拍置いてオーケー!と笑った。
『じゃ、俺も俺も!名前で呼んで!』
「ん。……理は、この学校の生徒だったんだろ?」
『多分ねえ。魁と同じ制服だもんね』
「おい、それすら忘れてんのか」
絶望的にも程がある。項垂れると、彼はキメ顔で言い放った。
『この学校に通った記憶はない』
「駄目だこりゃ……」
学年すらわからない、記憶喪失の地縛霊。しかし見つけてしまったからには無視することはできない。何とかして、彼をここから解放してやりたいと思った。
が、その前に。自分は今ぶつかってる壁がある。
「……そうだ! 俺職員室に行かないといけないから、この話はまた後でな。帰りにまた来るから待ってて」
『うぃ』
理は素直に頷いた。ここから動けないというのに、悲壮感はまるでない。記憶がないのはむしろ僥倖かもしれない。
だが、彼は思い出したように俺を呼び止めた。
『あ、魁! 俺がここにいること、誰にも言わないでね!』
「言わないけど……言ったとしても、お前が隠れて出てこなければ問題ないんじゃない?」
『いやそうなんだけど。何か怖いんだよな。だって、魁だけだもん。……初めて声掛けようって思ったの』
……!
理は不思議そうに首を傾げている。
可哀想だと思うのに、何故か胸の中では高揚に近い音が鳴っていた。
何だろう。ハラハラして、ワクワクしている。居ても立ってもいられない衝動に駆られている。
授業なんか、学校なんかどうでもいい。さっさと終わらせてここに戻ってきたい。……そんな馬鹿げた感情に急かされている。
「わかった。……大丈夫だから待ってな」
鞄を肩に掛け直すと、彼は頷いて手を振った。
素直で無邪気。この世の汚いことなんて何も知らなそうな少年。
泡瀬理。憂鬱の始まりだった転校初日は、彼との邂逅で純白の色へ移り変わった。
「凪原君! よかった、全然来ないから心配したよ! もしかして迷ってた?」
「はい、ちょっと……」
「はは、わかるよ。意外と入り組んでるから戸惑うよね。それじゃ一緒に教室に行こうか」
他の生徒に訊いて、無事職員室に辿り着くことができた。
担任の佐々波先生はまだ若い男性で、フレンドリーだった。知ってる人が誰もいない環境だから有難い。
教室に向かう道中、先生に階段の鏡について尋ねたかった。
この学校に怪談や七不思議はあるのか。あるとしたらどんなものか。
でも転校初日に、授業の進み具合とかクラスの雰囲気でなくオカルト関係の話なんて訊いたらヤバいやつ認定間違いなしだ。ここはグッとこらえよう……。
逸る心を抑え、自分が加わる二年二組の教室に入った。
「凪原魁です。中途半端な時期の転校で、あと半年ほどなんですが……よろしくお願いします」
頭を下げると、拍手が返ってきた。女子達はどこかソワソワして、こそこそ話をしている。
「東京から来たんだって」
「ねえねえ、名前までかっこいー」
ちょっと聞こえたけど、聞こえないふりをして鞄を持つ。佐々波先生は笑顔で窓際の一番後ろの席を指さした。
「凪原君はあの席ね」
「はい」
特等席じゃないか。枠が空いていたクラスだけど、席まで良いところが空いてるとは。
少し得した気分で席につくと、隣の席の男子がこそっと話しかけてきた。
「俺、代山直紀。よろしく!」
「よろしく。何かあったら訊いちゃうかも」
「おう、遠慮しないで訊いて。隣ずっと空いてるから暇だったんだ」

