困惑。
互いに、同時に抱いた感情。それを打ち返し、再び思考の迷路になだれこむ。
「ジャンガリアンハムスター飼ってた話も覚えてない?」
『ごめん、全然……ていうか、何で俺隠れてたんだっけ。人が来たから?』
理は顔を上げると、焦った様子で周りをきょろきょろしだした。
「……」
一体どうなってるんだ。こんな短時間の間に、話してたことを全て忘れてしまうなんて。
演技してるようにも見えないし、こっちまで不安になる。
理は申し訳なさそうに俺の方を見た。
やっぱ不安な気持ちは彼の方が強いよな。
『ごめん……。俺、何か変なこと言ってた?』
「逆。色々思い出して、話してくれてたんだよ。通ってた中学校の名前とか」
『マジ? なんて名前?』
「ええと、な……な……」
上を見上げ、必死に記憶を辿る。が、
「やばっ。忘れた」
最悪だ。佐々波先生に意識が向いて、理の中学校の名前が吹き飛んでしまった。
「うわ……っ!! 超絶馬鹿した。メモっとけばよかった!」
『いや、しょうがないよ。また思い出すかもしれないし! 俺も!』
理は手を振り、慌てて俺を励ました。
『てか、俺が忘れたのが悪い。魁は何も悪くないのに……いつも迷惑かけて、ほんとにごめん』
「……」
またまた、彼に気を遣わせてしまった。
失敗したのは確かだけど、理の言うとおり学校の名前はまた思い出すかもしれない。気持ちを切り替え、彼の頬の位置をぺちぺちと叩いた。
「俺らは何も悪くない。ってことにしよう」
ふとした時に、理の記憶の部屋は開く。それがわかっただけで大進歩だ。
「お前は確実に昔のことを思い出してきてるよ。だから自信持って」
『……うん。そうだな。ありがと!』
理も、俺につられて笑った。
さっきまでは凹んでいたけど、ちょっと元気が出たみたいだ。
その後は一応ジャンガリアンハムスターの画像も見せてみたけど、理は首を捻っていた。
理の記憶はすぐに蒸発する。だから大事なことはすぐにメモに残すと決めた。
『魁は、何でそこまで俺に協力して……気にかけてくれんの?』
「だから、放っておけないからだって」
『何で』
「何でって……」
寂しそうだから。
俺と同じで、孤独に見えたから。
本当にそれだけだろうか。俺が理に夢中なのは、そんな綺麗な感情に起因するものだけなのか?
「何か、その……お前って素直だからさ。弟みたいってか」
弟いないけど。振り返って言うと、彼は吹き出した。
『あはは。そっか』
「うん」
『はー。……オーケー。ありがとな』
理は目元を擦り、こちらに倒れてきた。鏡に映ってるだけで実際に倒れてきたりはしないが、頬を突き当てている。
『あ〜あ。魁に触れたらいいのに』
「……」
俺も、いつも想ってる。
彼が同じ気持ちを持ってくれてることに、密かな喜びを抱いた。
「触れられるよ。いつか、必ず」
『……そうだね』
理は笑って頷いた。
いつか……このたった一枚の壁を越えて、触れられたら。
その為なら何だってできるのに。神様は意地悪だ。
床に踵を落とし、壁にもたれる。
地味で暗くて、何も起きない。でもそれで良い。
理が俺の青春だ。
卒業したくない。成仏してほしくない。
どうしようもない欲望がせめぎ合い、心を掻き乱す。
『魁』
しばらく黙って天井を見上げてると、名前を呼ばれた。
「何」
『魁の初恋っていつ?』
「はぁ?」
また唐突な。笑いつつ、肩を竦めた。
「いつだと思う?」
『五歳』
「はや。……あったかもしれないけど、覚えてないから不正解」
ポケットに左手を入れると、理は不満そうに頬を膨らました。
『じゃあ小学二年生』
「違うな」
『中学一年生!』
「違う」
キリがない。仕方なしに振り返り、右手の人さし指を上に向けた。
「俺は誰も好きになったことがない。だから初恋はないんだ」
『ズルいな〜。そんなん当たらないっつうの』
「そ。残念だったな」
まだむくれてる理に笑いかけ、前に歩き出す。
でも嘘はついてない。俺は明確な恋愛感情を抱いたことはない。
少なくとも、まだ。生きてる人間には。
『もう……ま、これからいくらでもできるよ』
理は手を離し、目を細める。
『魁はまだ若いし』
「お前も若いだろ」
『や。俺は未来がないもん』
彼は可笑しそうに零し、自身の前髪を持ち上げた。
『これからいくらでも、本当の恋愛ができるよ。だから絶対幸せになれよ。……お前が幸せになれたら、マジで何の未練もない』
自分はどうなってもいい。
そう呟き、彼は首を傾げた。
『俺は魁のもうひとりのお母さんだからな』
「お父さんじゃないんだな……」
どっちにしても違うけど。ひたすら可笑しくって、肩を揺らして笑った。
「俺も、お前のことが心配でしょうがないから。もうひとりの親だよ」
『あはは! ……じゃ、そういうことで。外も暗そうだし、そろそろ教室戻んなよ』
理は片手を上げる。俺はそこに合わせ、鏡に手をついた。
『また明日、魁』
「また明日。……理」


