理は組んでいた手を離し、不思議そうに俯いた。
『家族と? 友達とかな。ライブを聴きに行ったんだよなぁ』
「本当? おい、もっと思い出せないか? 歌手の顔とか、何歳ぐらいに行ったかとか」
身を乗り出して問いかけるも、理の表情は曇った。
『……ごめん、思い出せない。でも、昔はどこにでも遊びに行ってた気がする。電車乗り継いで、写真をたくさん撮ったりとか』
しかし大事なところは全て靄がかかり、思い出せないと顔を上げた。
理自身もどかしそうにしていたので、それ以上は追求できなかった。
「そっか。……大丈夫だよ。また徐々に思い出していくかもしれないし、焦らなくていい」
『うん。ありがと』
理は控えめに笑った。
今無理をさせたら駄目だ。ようやく彼は外との繋がりを得たところなんだから。
その日は帰宅して、母が作った牡蠣フライを食べた。地元で買ってきたらしく、宗昭さんも美味しいと喜んでいた。
たった中一日で、家の心地良さが上がった気がする。自身の単純さと理の言葉に感謝し、眠りについた。
ホームセンターのバイト面接では、最近辞めてしまった学生がいるらしく、即採用してもらえた。週に三回はシフトを入れ、少しだが学費を貯めるつもりだ。
不安で足元が覚束ないと思っていたけど、少しずつ固まっている。弾みそうな心を抑え、翌日に二階の踊り場へ向かった。
「理」
『あ。魁、やっほー!』
声をかけると、理はいつものように嬉しそうに片手を上げた。その様子に安堵し、いの一番に面接の結果を報告する。
「理、俺受かったよ」
『受かった? 何に?』
理は首を傾げる。またいつもの天然だと思い、笑いながらツッコんだ。
「バイトの面接に決まってんだろ。さっそく明日行ってくる」
『バイト……?』
だけど理は、まだ不思議そうにまばたきしている。
というより、困惑している。話の内容より、俺の話を飲み込めない自分自身に動揺しているようだった。
話が噛み合わないだけじゃない。大事なピースが抜け落ちたような焦燥に駆られた。
「……ったく、どうせアイドルの動画に熱中して話聞いてなかったんだろ。ホームセンターでバイトすることになったんだ」
『あ、そうなんだ。……ごめんごめん、ちゃんと聞いてなかったっぽい! おめでとう!』
理は笑い、慌てて両手を合わせた。
その後はまた他愛もない話をして、別れた。
なんてことない出来事。だけどこの日生まれた違和感は、胸の底に沈んでいた。
理の感情の起伏はいつも通り。面白いものを見ると笑って、感動する動画を観ると涙ぐむ。今日も、川に落ちた飼い主を犬が助ける動画を観たら目元を押さえていた。
『犬ってさ……四千年前から人間と一緒にいたんだって。もう実質同じ一族じゃない?』
「そうだな」
『魁、俺犬欲しい』
「ここで飼えってか」
理の無茶振りを受け流し、スマホを仕舞う。自分も昔犬を飼っていたことを話すと、魁は興味津々で訊いてきた。
『毛はふわふわだった?』
「いや、雑種だったから……保護犬だったんだ。来たときはちょっとビクビクしてたけど、俺に一番懐いてくれた」
『そっかあ。良いなぁ〜』
理は両手を鏡につき、ホクホクしながら笑った。
『俺も犬飼いたかったんだけど、父さんが犬アレルギーでさ。でも子どもの頃はそれがわからなくて、大泣きしたことある』
「そう……」
『そしたらちょっとして、父さんと母さんがハムスターなら良いって言ってくれたんだよ。だからペットショップに行って、ジャンガリアンを選んだ。中学に上がるまで一緒にいた』
「…………」
理は顎に手を添え、懐かしそうにぺらぺらと話している。
今まで口から出たことがない過去を、少しずつ引き出している。本人は気付いてないみたいだが、確実に以前と違った。
「ち、ちなみに中学は何部に入ってた?」
『陸上! 先輩が厳しくて、一年のときはかなりシバかれたよ。だから高校に入ったら絶対帰宅部になってやろうと思ってた。魁は?』
「俺も。あんま青春謳歌するタイプじゃないから。……ところでお前が通ってた中学校って、なんて名前?」
『えーと。名津原中学』
────きた。
今まで何回訊いても返ってこなかった答えが。当たり前のように、するすると紡がれていく。
この調子でもっと聞き出そう。
「ありがと。そのときに住んでた住所は?」
『住所は……』
これがわかれば核心に近付く。鏡に手をついて答えを待っていたとき、背後で足音が聞こえた。
『魁。誰か来た』
「っ!」
鏡から離れ、慌てて振り返る。目を眇めると、生徒にしては大きな影が映った。
「凪原君。どうかした?」
「あ。先生」
そこにいたのは佐々波先生だった。生徒に不審がられるよりはマシか、と胸を撫で下ろす。
「いえ、ちょっとスマホ見てて」
「こら。危ないんだから階段前でスマホを見ちゃ駄目だぞ」
軽く注意され、すみませんと頭を下げる。
佐々波先生は笑って、俺の肩を叩いた。
「文化祭の準備で残ってたんだよな? お疲れ様。何か困ってることとかない?」
「全然。皆優しいし、毎日楽しいです」
「そうか! ……でも、それは凪原君が優しいからだな。ひとってのは鏡だから。自分次第で、相手も変わる」
彼は瞼を伏せ、感慨深そうなため息をついた。
「文化祭は先生も最大限協力するから。なにかあれば遠慮なく言ってきなさい」
「ありがとうございます」
彼はグッドサインを出し、廊下の方へ歩いていった。さりげなくフォローもしてもらい、改めて安堵する。
ひとは自分を映す鏡。そうは言っても、俺はひとに恵まれているだけだ。
その証拠に、ここへ来てから他者の悪意を感じ取ったことがない。
「……っと」
先生の姿が見えなくなったことを確認し、慌てて振り返る。
「理。悪い、もう出てきて大丈夫だぞ」
また片耳にイヤホンをつけて声を掛ける。ところが理はすぐに出てこなかった。
「理?」
どうしたのかと鏡を覗く。彼はやはり傍にいた。しかし俯いて、どこか暗い。
「理。どうした?」
霊に具合が悪いのか訊くのも妙だから、静かに問い掛ける。元気がないのは確かなので、心配になって顔を近付けた。
『……何でもない』
理は首を横に振った。ひとまずその言葉を信じ、大事な話に戻る。
「良かった。……さっきの話の続きだけど、住所は思い出せた?」
『住所?』
「中学校の話をしてただろ。陸上部に入ってて、先輩にシバかれたとか」
しかし、理は困ったように呟いた。
『そんな話したっけ?』


