早く大人になりたい。
理由は単純。誰にも迷惑かけず、ひとりで生きたいから。
凪原魁はバスの車窓から、田園が広がる景色を見るともなく見た。
早朝だがバスは空いていた。自分以外に学生が二人、若い女性と初老の男性がいるだけだ。
以前のすし詰めだった通学とは違う。バスが一本遅れて来ないだけで、次の乗車時にフロントガラスに手をつくこともあった。運転手との距離が近過ぎて、気まずかったことを覚えている。
一ヶ月も経ってないのに、もう懐かしいな……。
このバスに乗るのはまだ三度目だけど、もう通学時間が好きになった。
とは言え、この地に慣れるにはもう少し時間がかかりそうだ。
魁は母親の再婚を機に、先月この街に引っ越してきた。以前住んでいた東京から百キロほど離れた高校に、今日から転校生として通う。
高校二年の長月。この地は日が昇るのも沈むのも早い。
コンビニは遠く、遊ぶ場所は少なく、知り合いはひとりもいない。魁にとって、この転校は青天の霹靂だった。
だが流れに乗ってやり過ごすしかない。今からお金を貯めて、東京の大学に入るつもりだ。きっとこの街も、卒業までの付き合いとなる。
バスを降り、緩やかな坂道を上る。日陰は肌寒く、腕に持ってたカーディガンを羽織った。転校の手続きで二回ほど訪れてるが、今日からは正式にこの桜城高校の生徒となる。
緊張はしないし、高揚もしてない。
転校も何回か経験してるし、慣れたものだ。
「うんっ?」
……なんて余裕をかましてたからバチが当たったのかもしれない。
困った。迷子だ。
早めに登校したものの、校内は思ったより広かった。職員室も一度訪れてるし、ニ階に上がればすぐ分かると思ったのに。突き当たりには何もなくて、来た道を戻ることになった。
あぁ……こういう時に限って誰もいない。
周りを見回しても白い廊下は静まり返っていて、不気味だった。
( 何か、外より寒いな )
仕方ないから下に戻って、誰かに職員室の場所を聞こう。踵を返して階段の踊り場に向かうと、不意に声が聞こえた。
『何探してんの?』
ガラスのように透き通った声。高いから一瞬女子かと思った。
でも近くに女子はいない。……いや。
女子どころか、男子も。
周りには誰ひとりいなかった。
────空耳?
それにしてはやけに生々しいし、……耳元で聞こえた。
階段の上も下も確認したけど、ひとなんていない。やはり気のせいか。
「はぁ……」
無駄に緊張してしまった。
恥ずかしさに頬を搔き、ポケットに手を突っ込む。足早に踊り場から階段を降りようとした……そのとき、またあの声が聞こえた。
『……行っちゃった』
「え」
身体が固まる。
驚きのあまり、針で縫いつけられたように動けなくなった。
今のは絶対聞き間違いじゃない。誰か“いる”。
鼓動が速まる。しかし何とか冷静になろうと頭を働かせた。
落ち着け。落ち着け。朝だし、明るいし、学校だし。ビビることなんて何もない。
深呼吸して振り返る。依然として、そこには何もなかった。あるのはただ白い壁。上下に繋がる階段。
それと、安全対策に取り付けられただろう大型の鏡。
「……誰かいるのか?」
意を決して問いかけた。これで何も返って来なかったら、恥ずかしいし腹も立つから階段を駆け下りてやろうと思ったけど。
『あ……っ』
声の主は俺の問いかけに、遠慮がちに呼応した。
『……驚かせてごめん。怖がらせちゃうから、黙ってようと思ったんだけど』
………………。
正直、かなり動揺してる。
でもさっきよりは頭が回る。小さく息をつき、瞼を伏せた。
男だ。姿は見えないけど、生徒だと思う。
出てこないのは、あれだ。恐らく照れ屋なのだと解釈し、無理やり腹落ちさせた。
「……大丈夫だよ。職員室に行きたいんだけど、よかったら場所教えてくれないかな?」
『職員室? ごめん、わかんない』
は!?
「あの、この学校のひとだよね?」
『え〜と……うん。多分?』
「…………」
おいっ。
マジで何なんだ。姿を見せないことも意味不明だし、何よりじれったい。
もはやシャイとかいう問題じゃない。階段の手すりに手を添え、今度は少し強い語調で尋ねた。
「ごめん。俺今日転校してきて、この学校の中マジでわからないんだ。できれば出てきてもらえないかな」
相手も別に誂ってるわけではないと思う。しかしこちらも、見えない相手とずっとおしゃべりするわけにはいかない。
周りを注視し、次いで耳を欹てる。どこから現れてもいいように。
だがその相手が現れたのは、俺が注意していたどの場所とも違った。
絶対有り得ないと思っていた真後ろ。寄りかかり背中を預けていた場所。
『ごめん。出たいけど、“出られない”んだ』
申し訳なさそうに呟くのは、想像した通りひとりの少年。
だが彼は、壁に取り付けられた“鏡の中”にいた。

