御伽奇譚

「でも氷魚、あんた人魚姫は嫌いだよね」
「そうだよ」
「なんで?」

静かな放課後の教室に、ふたりの会話と、ポテチを口の中で砕く音が響いた。雑に開けられた袋は、少し惨めな形をしている。

なんて事ない、普通の会話だった。

英語の課題で、「昔の夢」というテーマで作文を書かなくてはいけなかったから。そのために、昔の夢を思い出していたら、そういえばお姫様になりたかった、と私が呟いたのが始まりで。
どんな童話を読んでいたのかという話になったら、この付き合いが長い腐れ縁の友人は、私が人魚姫の童話を苦手に思っていることを思い出してしまったのだ。

「だって、悲しいじゃん」
「ほぅ?」

また1枚、友人の口の中にポテチが放り込まれる。手についた塩を舌で舐めとったその手つきが、なぜだか大人びて見えたから、私は視線を落として彼女から目を背けた。

「私、お姫様が幸せになる童話が好きなの。でも人魚姫って結局、幸せにはなれないから」
「でも最後まで王子様を愛していたよ」
「そうだとしても、その想いは報われなかった」

王子様を愛した人魚姫は、人間になる願いの代償のためにその想いを伝えることもできず、己が彼を助けた人魚姫だと名乗り出ることも叶わなかった。さすれば報われないのは当然である。それでも私は彼女に幸せになって欲しかった。

愛する人のために己の声を売った少女の恋が、報われて欲しかったのだ。

「童話ってそういうものじゃない?子供向けに作られた絵本だと残酷な描写がなかったりするけど、シンデレラとか、何だっけ、継母とお姉さんと結末」
「あー、足をガラスの靴にねじ込むために指を切り落としたとか、シンデレラを虐めてた罰としてカラスに両目を抉られたとか、そういう?」
「そう、それ。お姫様は幸せになれたかもしれないけど、その裏で違う人達が残酷な結末を辿ってる」

それでも氷魚は、童話が好きなの?

彼女はこういう人間だった、ということを、私は思い出した。
誰か一人だけがハッピーエンドになるよりは、誰も損をしないトゥルーエンドが好き。悪役が世界を支配するバッドエンドも、彼女に言わせてみればハッピーエンドだった。なぜなら、悪役は得をしたから。彼女にとってのバッドエンドとは、登場人物全員が損をする展開なのである。

どこか主観的でズレていて、でもその根底には、全てを知っていますというような客観的な傲慢さがある。利他のように思える彼女の精神は、本質的には利己だった。

狼谷朱音という少女は、そういう人間だ。

「好きだよ。お姫様が幸せになればそれで」

私、泡姫氷魚はそうやって頷いた。
昔の私はお姫様になりたかった。今もきっと、心の奥底ではお姫様を夢見ている。お姫様はかわいくて、絶対、幸せに生きていけるから。

人魚姫の物語が嫌いなのは、お姫様が幸せになることはできないからだ。泡になって消えてしまうなんて、そんな結末、許されてたまるものか。

泡姫氷魚という少女は、ひどく傲慢だった。幸せになりたい。私より幸せな人が羨ましくてたまらない。お姫様が羨ましくて仕方がなかった。
だから氷魚はお姫様になりたい。
お姫様になれることが出来たら、私より幸せな人なんてこの世界にはいないから。

「帰ろ、朱音」

また明日、と手を振る朱音を倣うみたいに手を振り返して、私は家へと向かった。履きなれた学校指定のローファーは底がかなり擦れている。私は歩く時、踵をやたらと引きずる癖があった。だから踵部分が余計に擦り切れて、周りより買い換える頻度が少し多い。
歩く度に、コンクリートの地面を引きずる音がするのが煩わしかった。だがこれはどうしようもない。これは私の悪癖のようなもので、この不格好な歩き方は17年の短い人生で染み付いてしまっている。
朱音は「氷魚は歩くのが下手っぴだねー」と昔から言っているが、これは別に下手な訳では無い、というのが私の言い分だ。踵を引きずるくらいで歩くスピードは大して変わらないし、日常生活で特段変わることは無いから。ほんの少し、踵を引きずる音が耳障りなだけ。

普段から運動しないからだよ、なんてお節介を言う朱音のイタズラっぽい顔を思い出していたら、踵を引きずる音が、ゴミ箱が倒れる音にかき消された。

がしゃん、と濁った金属の音がしたのは路地裏。この辺りは住宅街だが、あと2本ほど奥の通りは飲み屋街だった。週末の夜になると酔っぱらいたちがここで眠る。金属の音の正体はゴミ箱だった。中身が散らばって、早くもそれに気がついたカラスが目ぼしい餌を探している。

「うっわ、サイアク……」

私は酔っ払いもカラスも嫌いだった。前者は面倒だし、後者は不穏の象徴である。ついでに散らばったゴミも嫌いだ。

うぇ、愚痴を零しながらとゴミを避けて歩いていたら、ふと、何かが目にとまった。普段なら特に気にせず通り過ぎていたかもしれない。あるいは、路地裏の奥なんて覗かなかった。
けれどこの時、私は好奇心に駆られて、少しだけ音のした方向を覗いてしまった。
理由なんて無かった。いや、本当はあったのかもしれない。物語において、普段しない行動を取るというのは、何かが始まる予兆なのだ。私はそれをよく知っていた。

だから、路地裏に倒れていた少女を、見つけたのだ。