銀狼伯爵と噛み痕のない花嫁

 目を覚ますと、見知らぬ天井があった。

 離れの部屋ではない。広い寝室の天蓋付きの寝台に横たわっていた。壁には軍服、文机には書類。暖炉の火は落ちていたが、部屋にはまだぬくもりが残っている。

 (ここは……銀様の寝室?)

 昨夜のことを思い出した途端、頬が熱くなった。
 体を起こすと、寝台の脇に銀がいた。椅子に座り、書類を膝に載せている。

 「……おはようございます」
 「ああ。よく眠れたか」
 「は、はい。昨夜は運んでくださって……」

 銀は視線を書類に落としたまま、少し間を置いて言った。

 「……気持ちよさそうに眠っていたな」
 「寝顔、見てたんですか!?」

 毛布の陰から覗くと、銀はわずかに目を逸らした。

 「……目が覚めるのを待っていただけだ」

 耳の先が赤い。

 (……照れてる)

 渚子の視線は銀の手元で止まった。昨夜巻いた晒の下に、鎖の痕が残っている。

 「銀様こそ、お体は大丈夫なのですか?」
 「俺のことはいい」
 「よくないです」

 渚子は薬箱を取り、傷へ軟膏を塗って晒を巻き直した。指先が触れるたび昨夜を思い出し、胸が落ち着かない。

 顔を上げると、銀がじっと見ていた。

 「……なんですか」
 「いつもお前には手当てされてばかりだな」

 枕元にはまだ温かい湯呑みと、二人分の膳があった。
 「来週、人狼の一族が集まる席がある。来てほしい」
 「……私に、ですか?」
 「ああ」

 銀はまっすぐ渚子を見た。

 「お前は俺の妻だ。一族にも、きちんとそう示したい」

 胸が熱くなる一方で、不安もよぎる。

 「あの……そのような席に着ていけるものが、私には何もなくて……」

 「問題ない。もう手配してある。明日には届く」

 何でもないふうに言うくせに、耳だけがまた赤い。
 その時、廊下から小さな足音が駆けてきた。

 「奥方様っ!」

 銀が扉を開けると、小梅が顔をのぞかせる。渚子を見るなり、泣きそうな顔でほっと笑った。

 「銀様がここにと呼んで下さったんです。本当に良かった!」
 「ごめんなさい。心配をかけたわね」

 小梅は何度も頷いた。髪の間からのぞく角を、もう慌てて隠そうとはしない。
 それを見つめる銀の目は、少しだけやわらいでいた。

      *

 人狼一族の集いは、鷹城本邸の大広間で開かれた。

 幹部、軍の将校、華族の当主。人の姿を取っていても、その目には人ならぬ光が宿っている。広間へ足を踏み入れた瞬間、いくつもの視線が突き刺さった。

 「あれが棟梁の……」
 「志波の末娘だろう。鎮しか使えぬと聞くが」
 「飾りの妻が、なぜこの場に」

 聞こえよがしの囁きにも、渚子は静かに立っていた。

 (……この程度の悪意なら、もう慣れているわ)

 銀はまだ来ない。上座には緋鶴がいた。最上の振袖をまとい、銀の隣にあるはずの席を当然のように占めている。

 やがて緋鶴がまっすぐ歩いてくる。

 「……何のつもり」
 「棟梁に、お声がけいただきました」
 「黙りなさい」

 声は怒りで震えていた。

 「十年よ。十年、私がこの一族のために尽くしてきた。夜会も来客も屋敷の采配も、全部私がやってきたのよ。あなたは何をしたの? 書庫に籠もって本を読んでいただけじゃない!」

 広間のざわめきが止まる。

 「あなたなんかに、銀様の隣は務まらない!」

 伸びた手が渚子の襟元を掴み、白い首筋があらわになる。噛み痕はない。

 「見なさい! 噛み痕もない女くせに、鷹城の奥方を名乗っているなどと生意気な」

 誰も止めない。けれど渚子は不思議なくらい静かだった。

 (……もう、怖くない)

 その時、重い足音がひとつ響いた。
 それだけで一族の者たちの体が本能のままに強張る。

 銀だ。

 軍礼装の銀が入口に立っていた。琥珀の瞳は、渚子の襟を掴む緋鶴の手だけを見ている。

 一歩ごとに道が開く。緋鶴の前で足を止めると、その手首を掴んだ。骨の軋むような音が、静まり返った広間に響いた。

 「……銀様」

 銀は手を離し、渚子の前に立つ。大きな背を見た途端、胸のざわめきが少しずつ静まった。

 やがて銀は振り向き、渚子の右手を取った。手袋を外し、白い手首をさらす。
 広間のあちこちで息を呑む気配が広がる。

 人狼の噛み痕は、本来うなじに刻まれる。
 それが群れの中で番いを示す、もっとも一般的な印だ。

 だが手首は違う。
 棟梁が己の命脈を預け、番いを己と同じものとして迎える時にのみ刻まれる。
 長い歴史の中でも稀な、特別な誓いだった。

 「……まさか」
 「手首だと……?」

 ざわめきが広がる前に、銀の牙が渚子の手首に沈んだ。

 「……っ」

 鋭い痛みのあと、熱が体の芯へ一気に広がっていく。

 (彼の妖力が、私の中に……)

 眠っていた鎮の力が、それに応えるように震えた。

 銀が牙を抜く。手首の二つの痕から、淡い銀色の光がにじんだ。

 銀はその手を包んだまま、広間を見渡す。

「皆の者に紹介しよう。彼女は俺の妻、渚子だ」

 低い声が場を支配する。

「渚子は俺の命だ。彼女を傷つける者、奪おうとする者、辱める者は、この鷹城銀が決して許さない」

 沈黙ののち、幹部の筆頭格の男が膝をついた。続いて次々と膝が折られ、一族が頭を垂れる。
 緋鶴だけが立ち尽くしていた。

 「緋鶴、偽の離縁状を書いたのはお前だな」

 広間がざわめいた。

 「俺の筆跡を真似、家紋の印を押し、渚子を屋敷から追い出した」
 「追い出したなんて。私はただ、棟梁のためを思って……」
 「お前が書状を書かなければ、渚子は森に出なかった。鬼に追われることも、崖の上で命を落としかけることもなかったんだ」

 緋鶴の膝が崩れ落ちる。

 「鬼のことなんて知らなかった!」
 「結果は同じだ」

 銀は容赦なく言い切った。

 「お前から屋敷の采配権を剥奪する。今日この時をもって鷹城の内政に関わることを禁ずる。離れに下がれ。許しがあるまで謹慎だ」
 「棟梁!! 十年です。十年、この一族のために……私はずっとお傍に……」
 「その十年の信頼を、お前は自分で壊した」

 最後の色が緋鶴の顔から落ち、押し殺してきたものが裂けたように噴き出した。

 「嘘よ!! こんな女のどこがいいの!? 巫力もない、家柄もない、借金のかたに押しつけられただけの女じゃない! 私のほうがずっと銀様のお役に立てる!」

 振袖は乱れ、涙と嗚咽で顔が崩れる。

 「たかが鎮!! 触れたら眠たくなるだけの子守唄みたいな巫力の、何が……何が私の十年より価値があるの!」

 銀は何も言わなかった。その沈黙が何より残酷だった。

 「連れて行け」

 侍女たちが両脇を抱え、緋鶴を引いていく。

 「離して!! 銀様、お願い、もう一度だけ……!」

 銀は背を向けたまま言った。

 「もう一度言う。お前が十年積んだものを壊したのは、渚子じゃない。お前自身だ」

 叫び声が渡り廊下の奥に消えていく。

 渚子は、嫁いで七日目に「あなたの居場所はこの家にはない」と言われた日のことを思い出した。
 同情はしなかった。ただ、胸の隅が少しだけ痛んだ。

 銀の視線は広間の奥へ向く。

 「もう一つ」

 銀の声が広間を貫く。

 「緋鶴を唆し、渚子が森へ出る経路を鬼の一派に流した者がいる。俺の身内の中に……鋼一郎、これは一体どういうことだ?」

 一斉に鋼一郎へ視線が集まった。

 鋼一郎は黒の羽織をまとい、白髪交じりの髪を几帳面に撫でつけていた。口元には人好きのする笑みを浮かべているが、目の奥には隠しきれない狼狽が滲んでいる。

 それでも鋼一郎は、何事もなかったかのようにゆっくり立ち上がる。

 「……銀。儂はお前の父の弟だ。一族のためを思わぬ日はなかった」

 「ならば、なぜ鬼の一派に情報を流した」

 「誤解だ。儂は緋鶴の暴走を止められなかっただけで――」

 「犬塚」

 低いひと言で、言い訳は断ち切られた。

 犬塚が一歩進み出る。手には書簡の束があった。

 「鋼一郎様と鬼の頭目との書簡の写しです。先月から三通。渚子様が森に入る夜の日時を指定した文も含まれております」

 広間がざわめく。

 鋼一郎の顔から、つくりものめいた穏やかさが剥がれ落ちた。

 「……儂は森へ向かう道筋を教えただけだ。鬼がそれをどう使うかまでは関知しておらん」

 その場の空気がさらに冷えた。

 銀は一歩前に出る。軍靴の音が静まり返った広間に乾いて響いた。琥珀の瞳には、もはや怒りすらない。ただ、裁きを下す者の冷えた光だけがあった。

 銀はさらに一歩、鋼一郎へ詰めた。

 「叔父上。お前を鷹城一族重鎮の座から退ける。本日限りで議決権、発言権、人員の指揮権をすべて剥奪する。私兵も屋敷も封じる。明朝までに別邸へ移れ」

 「待て、銀……! 儂をそんな形で退ければ、一族の均衡が――」
 「こんなところまで娘と似ているとはな。均衡を崩したのはお前自身だ」

 銀は冷ややかに言い切った。

 「俺の妻を狙う手を、鬼に与えた時点でな」
 「儂は三十年、この一族を支えてきたのだぞ!」
 「……叔父上。父上と母上は、本日、北領視察のためこの席を外しておられる」

 鋼一郎の喉がひくりと鳴る。

 「父上がこの場におられたなら、お前は弁明を終える前に喉笛を噛み破られていたかもしれん。母上もまた、鬼に通じた身内を庇いはしなかっただろう」

 広間の空気が凍りつく。

 「だが、今ここに立っているのは俺だ」

 銀は鋼一郎をまっすぐ見据えた。

 「父上ほど短気でもなければ、母上ほど苛烈でもない。だからこそ、その場の激情で噛み殺したりはしない。法と家の掟に則って裁く。今日この場で生かしてもらえるだけありがたいと思え」

 鋼一郎の顔色が目に見えて変わる。

 銀は振り返りもせず命じた。

 「犬塚。叔父上の配下を拘束しろ。屋敷と書庫を改め、関係書簡を回収する。逆らう者は、一族への叛意ありと見なせ」
 「はっ」

 控えていた者たちが鋼一郎の両脇につく。鋼一郎は腕を振り払おうとしたが、銀の視線が一度だけ向けられた瞬間、ぴたりと動きを止めた。

 広間にいる誰ひとりとして、助けようとはしなかった。
 張り詰めていた空気がようやくほどけ、宴の流れも戻り始める。

 渚子だけがなお、その場で右手を見下ろしていた。手首の噛み痕はまだ熱い。

 その時、犬塚が告げる。

 「棟梁。一族の者たちが奥方様にご挨拶を申し上げたいと」

 銀が説明した。

 「番いの儀だ。棟梁が手首の痕を刻んだあと、一族は番いに敬意と忠誠を示す」
 「……はい」

 広間へ戻ると、一族の者たちが列を作っていた。先頭の男が片膝をつき、渚子の手を取る。噛み痕へ視線を落としたあと、静かに額を寄せた。

 「鷹城の奥方様に、一族の忠誠をお誓い申し上げます」

 胸が震えた。

 二人目、三人目と続く。次々と膝が折られ、額が手に触れていく。
 その列の中には、長姉・志乃が嫁いだ龍神の子爵家の者たちもいた。

 やがて志乃が進み出る。けれど膝をつけない。

 「……どうして、あんたが」

 その時、後方から低い声が飛んだ。

 「志乃。何をしている! 早く膝をつけ」

 志乃の夫である龍神家当主だった。

 「でも、この女は私の妹で……」
 「お前の妹は、人狼の棟梁が手首の痕を刻んだ番い。龍神家がその儀を軽んじたとあらば、恥をかくのは俺だとわからないのか!」

 冷たい声に、志乃の顔が歪む。逆らえず、がくりと膝をつき、深く頭を下げた。
 続いて千鶴が進み出る。こちらも膝を折らないまま、渚子を見下ろした。

 「……鎮しか使えないくせに。今だけよ。そのうち飽きられて、また一人になる。あんたはいつだって、誰にも必要とされない子だったじゃない」

 志乃の言葉が耳に届いたのだろう。銀の妖気が重くなる。けれど先に口を開いたのは渚子だった。

 「……お姉様」
 「お姉様の仰るとおりかもしれません。私には縛もありませんし、器量もよくない」

 千鶴の目がわずかに見開く。

 「でも、そんな私を信じて手を差し伸べてくださる方がいました」

 渚子はまっすぐ姉を見た。

 「その方の気持ちに、ちゃんと応えたいんです。だから私はここに立ち続けます。……たとえ、お姉様がなんと仰っても」
 「っ!!!」

 責める言葉は一つもない。だがその一言で、広間の視線は千鶴へ向かうーー棟梁の番いに噛みついた女として。

 天狗の名家の当主が、二度目の視線を妻へ向けた。
 それだけで十分だった。千鶴の膝が折れ、悔しそうに唇を噛んだまま頭を垂れる。

 帽子を取り上げられた日のことが、ふと胸をよぎる。

 (……私は今、あの日の私に何て言ってあげたらいいんだろう)

 勝ったとは思わなかった。ただ胸の奥が静かに熱く、目頭が少しだけ滲んだ。

 列の最後に、犬塚が進み出る。

 他の者たちと同じように片膝をつき、渚子の手へ額を寄せた。

 「……犬塚さん」
 「はい」
 「ありがとうございます。ずっと助けてくれて」

 一瞬だけ目を見開いた犬塚は、すぐに深く頭を下げた。

 「もったいないお言葉です」

       *

 儀が終わっても、渚子はしばらく動けなかった。右手にはまだ、一族の者たちの額のぬくもりが残っている。
 銀が近づき、何気ない顔で軍礼装の上着を肩にかけた。鈴蘭の香りに包まれ、渚子はその襟をそっと握る。

 息をつくように渡り廊下へ出ると、銀も隣に立った。

 見上げた先には、少し欠けた月。

 「……月が、綺麗ですね」

 あの満月の夜を思い出し、胸が少し縮む。だが銀はしばらく月を見たあと、低く言った。

 「お前と見る月は、悪くない」

 その一言が胸の奥へ静かに落ちる。渚子は、張っていた肩の力が少し抜けていくのを感じながら、細く息を吐いた。

 「しかし、俺のことを犬だと思っていたとはな」
 「だ、だって!! あの時はまだ子供で、犬も狼も区別が……」
 「飼い主を探してやると言って、鈴まで結んでくれたな」

 しどろもどろになる渚子を見て、銀がわずかに目を細める。銀はさらに耳元へ少しだけ顔を寄せた。

 「だが、鈴があれば大切な人が迎えに来るというのは本当だった」

 吐息が耳にかすめ、渚子は慌てて上着の陰へ隠れるようにうつむいた。そのまま、噛み痕のない左手で銀の袖をそっとつまむ。

 銀の手がわずかに止まり、こちらを見ないまま空いているほうの手で渚子の指先を包んだ。上着の陰で、誰にも見えないように。

       *

 帰りの馬車の中は静かだった。宴の喧噪が遠ざかり、車輪の音だけが夜道に続く。
 ふいに銀が懐から小さな包みを取り出した。

 「森に落ちていた荷物を、犬塚に探させたんだ」

 布をほどいた瞬間、渚子は息を呑んだ。革表紙の植物図鑑。母の図鑑だった。

 泥がつき、角は少し折れている。けれど頁を開けば、細密画は無事だった。
 森で葛籠を投げ捨てた時、一瞬だけ見えた革表紙。拾いたかったけれど、立ち止まれなかった。

 「ありがとうございます」

 ようやくそう言うと、銀は窓の外を見たまま首を振る。

 「礼はいい」
 「いいえ。図鑑だけではなくて……これまでこと、全部」

 月明かりが銀の横顔を照らしていた。

 「……お前が何を大事にしているかくらい、分かる。ずっと見ていたんだから」

 離れで一人だと思っていた日々まで、その言葉が静かに塗り替えていく。
 渚子は図鑑を抱いたまま、銀を見た。

 言葉にしようとするだけで、胸がひどく騒いだ。

 「好きです」

 銀の目がはっきりと見開かれる。

 少しだけ視線を逸らしながら、耳の先が赤くなった。

 「……もう一度」
 「絶っっ対に聞こえていたでしょう!?」
 「いや、聞こえなかった」

 可笑しくなって、渚子は小さく笑う。

 「好きです。銀様が」

 次の瞬間、腰を引き寄せられた。体がそのまま銀の胸に収まり、背へ腕が回る。硬い軍服の奥に、たしかなぬくもりがあった。

 「……俺もだ」

 頭の上から声が落ちてくる。

 「あの日から、ずっと。お前だけを想っていた」

 髪へ、額へ、こめかみへ。銀の口づけがそっと触れる。軽いのに、そのひとつひとつが、取りこぼしてきた時間を埋めるようにやさしかった。

 「お前が一人で泣いていた夜、俺は会いに行けなかった。その分を全部返したい。洋書も、異国の花も……お前が我慢してきたものを、一つ残らず叶えてやりたい」

 図鑑の頁の向こうでしか知らなかった景色が、胸の奥に浮かぶ。

 「お前が見たかった景色も、まだ知らない街も、憧れていた花も。これからは一緒に見に行こう」

 それは、ずっと遠くに置いてきた夢だった。欲しがれば奪われると、自分で蓋をしてきた夢。

 「もう何も我慢しなくていい。欲しいものは欲しいと言え。寂しい時は俺を呼べ」

 渚子は銀の胸元に顔を埋めたまま、小さく笑った。

 「……そんなに甘やかしたら、わがままになりますよ」
 「渚子のわがままなら、いくらでも聞こう」

 抱く腕に、少しだけ力がこもる。けれど次に落ちてきた声は、甘さだけではなかった。

 「もちろん、今夜で全てが終わったわけじゃない。叔父もまだ諦めてはいないだろう。この先、お前を狙う者がまた現れるかもしれない」

 低く静かな声に、警戒の色がにじむ。

 「それでも、俺がいる。誰が来ようと、何が立ちはだかろうと、お前だけは必ず守り抜く」

 名前を呼ばれるだけで胸が跳ねる。耳を寄せると、銀の心臓も少し速い。

 怖いことは、きっとこれからもある。
 棟梁の妻となり、手首にその証を刻まれた以上、渚子を狙う者はむしろ増えるのかもしれない。

 (それでも)

 図鑑でしか知らなかった花を見に行く日も、知らない街の風に触れる日も、満月を憎む夜を一緒に越える日々も。

 (銀様と、共に生きていきたい)

 馬車が門をくぐる。
 銀は渚子を抱き寄せたまま、耳元で低く囁く。

 「……愛してる、渚子」

 欠けた月が、寄り添う二人の影を馬車の座席に淡く落としていた。