目を覚ますと、見知らぬ天井があった。
離れの部屋ではない。広い寝室の天蓋付きの寝台に横たわっていた。壁には軍服、文机には書類。暖炉の火は落ちていたが、部屋にはまだぬくもりが残っている。
(ここは……銀様の寝室?)
昨夜のことを思い出した途端、頬が熱くなった。
体を起こすと、寝台の脇に銀がいた。椅子に座り、書類を膝に載せている。
「……おはようございます」
「ああ。よく眠れたか」
「は、はい。昨夜は運んでくださって……」
銀は視線を書類に落としたまま、少し間を置いて言った。
「……気持ちよさそうに眠っていたな」
「寝顔、見てたんですか!?」
毛布の陰から覗くと、銀はわずかに目を逸らした。
「……目が覚めるのを待っていただけだ」
耳の先が赤い。
(……照れてる)
渚子の視線は銀の手元で止まった。昨夜巻いた晒の下に、鎖の痕が残っている。
「銀様こそ、お体は大丈夫なのですか?」
「俺のことはいい」
「よくないです」
渚子は薬箱を取り、傷へ軟膏を塗って晒を巻き直した。指先が触れるたび昨夜を思い出し、胸が落ち着かない。
顔を上げると、銀がじっと見ていた。
「……なんですか」
「いつもお前には手当てされてばかりだな」
枕元にはまだ温かい湯呑みと、二人分の膳があった。
「来週、人狼の一族が集まる席がある。来てほしい」
「……私に、ですか?」
「ああ」
銀はまっすぐ渚子を見た。
「お前は俺の妻だ。一族にも、きちんとそう示したい」
胸が熱くなる一方で、不安もよぎる。
「あの……そのような席に着ていけるものが、私には何もなくて……」
「問題ない。もう手配してある。明日には届く」
何でもないふうに言うくせに、耳だけがまた赤い。
その時、廊下から小さな足音が駆けてきた。
「奥方様っ!」
銀が扉を開けると、小梅が顔をのぞかせる。渚子を見るなり、泣きそうな顔でほっと笑った。
「銀様がここにと呼んで下さったんです。本当に良かった!」
「ごめんなさい。心配をかけたわね」
小梅は何度も頷いた。髪の間からのぞく角を、もう慌てて隠そうとはしない。
それを見つめる銀の目は、少しだけやわらいでいた。
*
人狼一族の集いは、鷹城本邸の大広間で開かれた。
幹部、軍の将校、華族の当主。人の姿を取っていても、その目には人ならぬ光が宿っている。広間へ足を踏み入れた瞬間、いくつもの視線が突き刺さった。
「あれが棟梁の……」
「志波の末娘だろう。鎮しか使えぬと聞くが」
「飾りの妻が、なぜこの場に」
聞こえよがしの囁きにも、渚子は静かに立っていた。
(……この程度の悪意なら、もう慣れているわ)
銀はまだ来ない。上座には緋鶴がいた。最上の振袖をまとい、銀の隣にあるはずの席を当然のように占めている。
やがて緋鶴がまっすぐ歩いてくる。
「……何のつもり」
「棟梁に、お声がけいただきました」
「黙りなさい」
声は怒りで震えていた。
「十年よ。十年、私がこの一族のために尽くしてきた。夜会も来客も屋敷の采配も、全部私がやってきたのよ。あなたは何をしたの? 書庫に籠もって本を読んでいただけじゃない!」
広間のざわめきが止まる。
「あなたなんかに、銀様の隣は務まらない!」
伸びた手が渚子の襟元を掴み、白い首筋があらわになる。噛み痕はない。
「見なさい! 噛み痕もない女くせに、鷹城の奥方を名乗っているなどと生意気な」
誰も止めない。けれど渚子は不思議なくらい静かだった。
(……もう、怖くない)
その時、重い足音がひとつ響いた。
それだけで一族の者たちの体が本能のままに強張る。
銀だ。
軍礼装の銀が入口に立っていた。琥珀の瞳は、渚子の襟を掴む緋鶴の手だけを見ている。
一歩ごとに道が開く。緋鶴の前で足を止めると、その手首を掴んだ。骨の軋むような音が、静まり返った広間に響いた。
「……銀様」
銀は手を離し、渚子の前に立つ。大きな背を見た途端、胸のざわめきが少しずつ静まった。
やがて銀は振り向き、渚子の右手を取った。手袋を外し、白い手首をさらす。
広間のあちこちで息を呑む気配が広がる。
人狼の噛み痕は、本来うなじに刻まれる。
それが群れの中で番いを示す、もっとも一般的な印だ。
だが手首は違う。
棟梁が己の命脈を預け、番いを己と同じものとして迎える時にのみ刻まれる。
長い歴史の中でも稀な、特別な誓いだった。
「……まさか」
「手首だと……?」
ざわめきが広がる前に、銀の牙が渚子の手首に沈んだ。
「……っ」
鋭い痛みのあと、熱が体の芯へ一気に広がっていく。
(彼の妖力が、私の中に……)
眠っていた鎮の力が、それに応えるように震えた。
銀が牙を抜く。手首の二つの痕から、淡い銀色の光がにじんだ。
銀はその手を包んだまま、広間を見渡す。
「皆の者に紹介しよう。彼女は俺の妻、渚子だ」
低い声が場を支配する。
「渚子は俺の命だ。彼女を傷つける者、奪おうとする者、辱める者は、この鷹城銀が決して許さない」
沈黙ののち、幹部の筆頭格の男が膝をついた。続いて次々と膝が折られ、一族が頭を垂れる。
緋鶴だけが立ち尽くしていた。
「緋鶴、偽の離縁状を書いたのはお前だな」
広間がざわめいた。
「俺の筆跡を真似、家紋の印を押し、渚子を屋敷から追い出した」
「追い出したなんて。私はただ、棟梁のためを思って……」
「お前が書状を書かなければ、渚子は森に出なかった。鬼に追われることも、崖の上で命を落としかけることもなかったんだ」
緋鶴の膝が崩れ落ちる。
「鬼のことなんて知らなかった!」
「結果は同じだ」
銀は容赦なく言い切った。
「お前から屋敷の采配権を剥奪する。今日この時をもって鷹城の内政に関わることを禁ずる。離れに下がれ。許しがあるまで謹慎だ」
「棟梁!! 十年です。十年、この一族のために……私はずっとお傍に……」
「その十年の信頼を、お前は自分で壊した」
最後の色が緋鶴の顔から落ち、押し殺してきたものが裂けたように噴き出した。
「嘘よ!! こんな女のどこがいいの!? 巫力もない、家柄もない、借金のかたに押しつけられただけの女じゃない! 私のほうがずっと銀様のお役に立てる!」
振袖は乱れ、涙と嗚咽で顔が崩れる。
「たかが鎮!! 触れたら眠たくなるだけの子守唄みたいな巫力の、何が……何が私の十年より価値があるの!」
銀は何も言わなかった。その沈黙が何より残酷だった。
「連れて行け」
侍女たちが両脇を抱え、緋鶴を引いていく。
「離して!! 銀様、お願い、もう一度だけ……!」
銀は背を向けたまま言った。
「もう一度言う。お前が十年積んだものを壊したのは、渚子じゃない。お前自身だ」
叫び声が渡り廊下の奥に消えていく。
渚子は、嫁いで七日目に「あなたの居場所はこの家にはない」と言われた日のことを思い出した。
同情はしなかった。ただ、胸の隅が少しだけ痛んだ。
銀の視線は広間の奥へ向く。
「もう一つ」
銀の声が広間を貫く。
「緋鶴を唆し、渚子が森へ出る経路を鬼の一派に流した者がいる。俺の身内の中に……鋼一郎、これは一体どういうことだ?」
一斉に鋼一郎へ視線が集まった。
鋼一郎は黒の羽織をまとい、白髪交じりの髪を几帳面に撫でつけていた。口元には人好きのする笑みを浮かべているが、目の奥には隠しきれない狼狽が滲んでいる。
それでも鋼一郎は、何事もなかったかのようにゆっくり立ち上がる。
「……銀。儂はお前の父の弟だ。一族のためを思わぬ日はなかった」
「ならば、なぜ鬼の一派に情報を流した」
「誤解だ。儂は緋鶴の暴走を止められなかっただけで――」
「犬塚」
低いひと言で、言い訳は断ち切られた。
犬塚が一歩進み出る。手には書簡の束があった。
「鋼一郎様と鬼の頭目との書簡の写しです。先月から三通。渚子様が森に入る夜の日時を指定した文も含まれております」
広間がざわめく。
鋼一郎の顔から、つくりものめいた穏やかさが剥がれ落ちた。
「……儂は森へ向かう道筋を教えただけだ。鬼がそれをどう使うかまでは関知しておらん」
その場の空気がさらに冷えた。
銀は一歩前に出る。軍靴の音が静まり返った広間に乾いて響いた。琥珀の瞳には、もはや怒りすらない。ただ、裁きを下す者の冷えた光だけがあった。
銀はさらに一歩、鋼一郎へ詰めた。
「叔父上。お前を鷹城一族重鎮の座から退ける。本日限りで議決権、発言権、人員の指揮権をすべて剥奪する。私兵も屋敷も封じる。明朝までに別邸へ移れ」
「待て、銀……! 儂をそんな形で退ければ、一族の均衡が――」
「こんなところまで娘と似ているとはな。均衡を崩したのはお前自身だ」
銀は冷ややかに言い切った。
「俺の妻を狙う手を、鬼に与えた時点でな」
「儂は三十年、この一族を支えてきたのだぞ!」
「……叔父上。父上と母上は、本日、北領視察のためこの席を外しておられる」
鋼一郎の喉がひくりと鳴る。
「父上がこの場におられたなら、お前は弁明を終える前に喉笛を噛み破られていたかもしれん。母上もまた、鬼に通じた身内を庇いはしなかっただろう」
広間の空気が凍りつく。
「だが、今ここに立っているのは俺だ」
銀は鋼一郎をまっすぐ見据えた。
「父上ほど短気でもなければ、母上ほど苛烈でもない。だからこそ、その場の激情で噛み殺したりはしない。法と家の掟に則って裁く。今日この場で生かしてもらえるだけありがたいと思え」
鋼一郎の顔色が目に見えて変わる。
銀は振り返りもせず命じた。
「犬塚。叔父上の配下を拘束しろ。屋敷と書庫を改め、関係書簡を回収する。逆らう者は、一族への叛意ありと見なせ」
「はっ」
控えていた者たちが鋼一郎の両脇につく。鋼一郎は腕を振り払おうとしたが、銀の視線が一度だけ向けられた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
広間にいる誰ひとりとして、助けようとはしなかった。
張り詰めていた空気がようやくほどけ、宴の流れも戻り始める。
渚子だけがなお、その場で右手を見下ろしていた。手首の噛み痕はまだ熱い。
その時、犬塚が告げる。
「棟梁。一族の者たちが奥方様にご挨拶を申し上げたいと」
銀が説明した。
「番いの儀だ。棟梁が手首の痕を刻んだあと、一族は番いに敬意と忠誠を示す」
「……はい」
広間へ戻ると、一族の者たちが列を作っていた。先頭の男が片膝をつき、渚子の手を取る。噛み痕へ視線を落としたあと、静かに額を寄せた。
「鷹城の奥方様に、一族の忠誠をお誓い申し上げます」
胸が震えた。
二人目、三人目と続く。次々と膝が折られ、額が手に触れていく。
その列の中には、長姉・志乃が嫁いだ龍神の子爵家の者たちもいた。
やがて志乃が進み出る。けれど膝をつけない。
「……どうして、あんたが」
その時、後方から低い声が飛んだ。
「志乃。何をしている! 早く膝をつけ」
志乃の夫である龍神家当主だった。
「でも、この女は私の妹で……」
「お前の妹は、人狼の棟梁が手首の痕を刻んだ番い。龍神家がその儀を軽んじたとあらば、恥をかくのは俺だとわからないのか!」
冷たい声に、志乃の顔が歪む。逆らえず、がくりと膝をつき、深く頭を下げた。
続いて千鶴が進み出る。こちらも膝を折らないまま、渚子を見下ろした。
「……鎮しか使えないくせに。今だけよ。そのうち飽きられて、また一人になる。あんたはいつだって、誰にも必要とされない子だったじゃない」
志乃の言葉が耳に届いたのだろう。銀の妖気が重くなる。けれど先に口を開いたのは渚子だった。
「……お姉様」
「お姉様の仰るとおりかもしれません。私には縛もありませんし、器量もよくない」
千鶴の目がわずかに見開く。
「でも、そんな私を信じて手を差し伸べてくださる方がいました」
渚子はまっすぐ姉を見た。
「その方の気持ちに、ちゃんと応えたいんです。だから私はここに立ち続けます。……たとえ、お姉様がなんと仰っても」
「っ!!!」
責める言葉は一つもない。だがその一言で、広間の視線は千鶴へ向かうーー棟梁の番いに噛みついた女として。
天狗の名家の当主が、二度目の視線を妻へ向けた。
それだけで十分だった。千鶴の膝が折れ、悔しそうに唇を噛んだまま頭を垂れる。
帽子を取り上げられた日のことが、ふと胸をよぎる。
(……私は今、あの日の私に何て言ってあげたらいいんだろう)
勝ったとは思わなかった。ただ胸の奥が静かに熱く、目頭が少しだけ滲んだ。
列の最後に、犬塚が進み出る。
他の者たちと同じように片膝をつき、渚子の手へ額を寄せた。
「……犬塚さん」
「はい」
「ありがとうございます。ずっと助けてくれて」
一瞬だけ目を見開いた犬塚は、すぐに深く頭を下げた。
「もったいないお言葉です」
*
儀が終わっても、渚子はしばらく動けなかった。右手にはまだ、一族の者たちの額のぬくもりが残っている。
銀が近づき、何気ない顔で軍礼装の上着を肩にかけた。鈴蘭の香りに包まれ、渚子はその襟をそっと握る。
息をつくように渡り廊下へ出ると、銀も隣に立った。
見上げた先には、少し欠けた月。
「……月が、綺麗ですね」
あの満月の夜を思い出し、胸が少し縮む。だが銀はしばらく月を見たあと、低く言った。
「お前と見る月は、悪くない」
その一言が胸の奥へ静かに落ちる。渚子は、張っていた肩の力が少し抜けていくのを感じながら、細く息を吐いた。
「しかし、俺のことを犬だと思っていたとはな」
「だ、だって!! あの時はまだ子供で、犬も狼も区別が……」
「飼い主を探してやると言って、鈴まで結んでくれたな」
しどろもどろになる渚子を見て、銀がわずかに目を細める。銀はさらに耳元へ少しだけ顔を寄せた。
「だが、鈴があれば大切な人が迎えに来るというのは本当だった」
吐息が耳にかすめ、渚子は慌てて上着の陰へ隠れるようにうつむいた。そのまま、噛み痕のない左手で銀の袖をそっとつまむ。
銀の手がわずかに止まり、こちらを見ないまま空いているほうの手で渚子の指先を包んだ。上着の陰で、誰にも見えないように。
*
帰りの馬車の中は静かだった。宴の喧噪が遠ざかり、車輪の音だけが夜道に続く。
ふいに銀が懐から小さな包みを取り出した。
「森に落ちていた荷物を、犬塚に探させたんだ」
布をほどいた瞬間、渚子は息を呑んだ。革表紙の植物図鑑。母の図鑑だった。
泥がつき、角は少し折れている。けれど頁を開けば、細密画は無事だった。
森で葛籠を投げ捨てた時、一瞬だけ見えた革表紙。拾いたかったけれど、立ち止まれなかった。
「ありがとうございます」
ようやくそう言うと、銀は窓の外を見たまま首を振る。
「礼はいい」
「いいえ。図鑑だけではなくて……これまでこと、全部」
月明かりが銀の横顔を照らしていた。
「……お前が何を大事にしているかくらい、分かる。ずっと見ていたんだから」
離れで一人だと思っていた日々まで、その言葉が静かに塗り替えていく。
渚子は図鑑を抱いたまま、銀を見た。
言葉にしようとするだけで、胸がひどく騒いだ。
「好きです」
銀の目がはっきりと見開かれる。
少しだけ視線を逸らしながら、耳の先が赤くなった。
「……もう一度」
「絶っっ対に聞こえていたでしょう!?」
「いや、聞こえなかった」
可笑しくなって、渚子は小さく笑う。
「好きです。銀様が」
次の瞬間、腰を引き寄せられた。体がそのまま銀の胸に収まり、背へ腕が回る。硬い軍服の奥に、たしかなぬくもりがあった。
「……俺もだ」
頭の上から声が落ちてくる。
「あの日から、ずっと。お前だけを想っていた」
髪へ、額へ、こめかみへ。銀の口づけがそっと触れる。軽いのに、そのひとつひとつが、取りこぼしてきた時間を埋めるようにやさしかった。
「お前が一人で泣いていた夜、俺は会いに行けなかった。その分を全部返したい。洋書も、異国の花も……お前が我慢してきたものを、一つ残らず叶えてやりたい」
図鑑の頁の向こうでしか知らなかった景色が、胸の奥に浮かぶ。
「お前が見たかった景色も、まだ知らない街も、憧れていた花も。これからは一緒に見に行こう」
それは、ずっと遠くに置いてきた夢だった。欲しがれば奪われると、自分で蓋をしてきた夢。
「もう何も我慢しなくていい。欲しいものは欲しいと言え。寂しい時は俺を呼べ」
渚子は銀の胸元に顔を埋めたまま、小さく笑った。
「……そんなに甘やかしたら、わがままになりますよ」
「渚子のわがままなら、いくらでも聞こう」
抱く腕に、少しだけ力がこもる。けれど次に落ちてきた声は、甘さだけではなかった。
「もちろん、今夜で全てが終わったわけじゃない。叔父もまだ諦めてはいないだろう。この先、お前を狙う者がまた現れるかもしれない」
低く静かな声に、警戒の色がにじむ。
「それでも、俺がいる。誰が来ようと、何が立ちはだかろうと、お前だけは必ず守り抜く」
名前を呼ばれるだけで胸が跳ねる。耳を寄せると、銀の心臓も少し速い。
怖いことは、きっとこれからもある。
棟梁の妻となり、手首にその証を刻まれた以上、渚子を狙う者はむしろ増えるのかもしれない。
(それでも)
図鑑でしか知らなかった花を見に行く日も、知らない街の風に触れる日も、満月を憎む夜を一緒に越える日々も。
(銀様と、共に生きていきたい)
馬車が門をくぐる。
銀は渚子を抱き寄せたまま、耳元で低く囁く。
「……愛してる、渚子」
欠けた月が、寄り添う二人の影を馬車の座席に淡く落としていた。
離れの部屋ではない。広い寝室の天蓋付きの寝台に横たわっていた。壁には軍服、文机には書類。暖炉の火は落ちていたが、部屋にはまだぬくもりが残っている。
(ここは……銀様の寝室?)
昨夜のことを思い出した途端、頬が熱くなった。
体を起こすと、寝台の脇に銀がいた。椅子に座り、書類を膝に載せている。
「……おはようございます」
「ああ。よく眠れたか」
「は、はい。昨夜は運んでくださって……」
銀は視線を書類に落としたまま、少し間を置いて言った。
「……気持ちよさそうに眠っていたな」
「寝顔、見てたんですか!?」
毛布の陰から覗くと、銀はわずかに目を逸らした。
「……目が覚めるのを待っていただけだ」
耳の先が赤い。
(……照れてる)
渚子の視線は銀の手元で止まった。昨夜巻いた晒の下に、鎖の痕が残っている。
「銀様こそ、お体は大丈夫なのですか?」
「俺のことはいい」
「よくないです」
渚子は薬箱を取り、傷へ軟膏を塗って晒を巻き直した。指先が触れるたび昨夜を思い出し、胸が落ち着かない。
顔を上げると、銀がじっと見ていた。
「……なんですか」
「いつもお前には手当てされてばかりだな」
枕元にはまだ温かい湯呑みと、二人分の膳があった。
「来週、人狼の一族が集まる席がある。来てほしい」
「……私に、ですか?」
「ああ」
銀はまっすぐ渚子を見た。
「お前は俺の妻だ。一族にも、きちんとそう示したい」
胸が熱くなる一方で、不安もよぎる。
「あの……そのような席に着ていけるものが、私には何もなくて……」
「問題ない。もう手配してある。明日には届く」
何でもないふうに言うくせに、耳だけがまた赤い。
その時、廊下から小さな足音が駆けてきた。
「奥方様っ!」
銀が扉を開けると、小梅が顔をのぞかせる。渚子を見るなり、泣きそうな顔でほっと笑った。
「銀様がここにと呼んで下さったんです。本当に良かった!」
「ごめんなさい。心配をかけたわね」
小梅は何度も頷いた。髪の間からのぞく角を、もう慌てて隠そうとはしない。
それを見つめる銀の目は、少しだけやわらいでいた。
*
人狼一族の集いは、鷹城本邸の大広間で開かれた。
幹部、軍の将校、華族の当主。人の姿を取っていても、その目には人ならぬ光が宿っている。広間へ足を踏み入れた瞬間、いくつもの視線が突き刺さった。
「あれが棟梁の……」
「志波の末娘だろう。鎮しか使えぬと聞くが」
「飾りの妻が、なぜこの場に」
聞こえよがしの囁きにも、渚子は静かに立っていた。
(……この程度の悪意なら、もう慣れているわ)
銀はまだ来ない。上座には緋鶴がいた。最上の振袖をまとい、銀の隣にあるはずの席を当然のように占めている。
やがて緋鶴がまっすぐ歩いてくる。
「……何のつもり」
「棟梁に、お声がけいただきました」
「黙りなさい」
声は怒りで震えていた。
「十年よ。十年、私がこの一族のために尽くしてきた。夜会も来客も屋敷の采配も、全部私がやってきたのよ。あなたは何をしたの? 書庫に籠もって本を読んでいただけじゃない!」
広間のざわめきが止まる。
「あなたなんかに、銀様の隣は務まらない!」
伸びた手が渚子の襟元を掴み、白い首筋があらわになる。噛み痕はない。
「見なさい! 噛み痕もない女くせに、鷹城の奥方を名乗っているなどと生意気な」
誰も止めない。けれど渚子は不思議なくらい静かだった。
(……もう、怖くない)
その時、重い足音がひとつ響いた。
それだけで一族の者たちの体が本能のままに強張る。
銀だ。
軍礼装の銀が入口に立っていた。琥珀の瞳は、渚子の襟を掴む緋鶴の手だけを見ている。
一歩ごとに道が開く。緋鶴の前で足を止めると、その手首を掴んだ。骨の軋むような音が、静まり返った広間に響いた。
「……銀様」
銀は手を離し、渚子の前に立つ。大きな背を見た途端、胸のざわめきが少しずつ静まった。
やがて銀は振り向き、渚子の右手を取った。手袋を外し、白い手首をさらす。
広間のあちこちで息を呑む気配が広がる。
人狼の噛み痕は、本来うなじに刻まれる。
それが群れの中で番いを示す、もっとも一般的な印だ。
だが手首は違う。
棟梁が己の命脈を預け、番いを己と同じものとして迎える時にのみ刻まれる。
長い歴史の中でも稀な、特別な誓いだった。
「……まさか」
「手首だと……?」
ざわめきが広がる前に、銀の牙が渚子の手首に沈んだ。
「……っ」
鋭い痛みのあと、熱が体の芯へ一気に広がっていく。
(彼の妖力が、私の中に……)
眠っていた鎮の力が、それに応えるように震えた。
銀が牙を抜く。手首の二つの痕から、淡い銀色の光がにじんだ。
銀はその手を包んだまま、広間を見渡す。
「皆の者に紹介しよう。彼女は俺の妻、渚子だ」
低い声が場を支配する。
「渚子は俺の命だ。彼女を傷つける者、奪おうとする者、辱める者は、この鷹城銀が決して許さない」
沈黙ののち、幹部の筆頭格の男が膝をついた。続いて次々と膝が折られ、一族が頭を垂れる。
緋鶴だけが立ち尽くしていた。
「緋鶴、偽の離縁状を書いたのはお前だな」
広間がざわめいた。
「俺の筆跡を真似、家紋の印を押し、渚子を屋敷から追い出した」
「追い出したなんて。私はただ、棟梁のためを思って……」
「お前が書状を書かなければ、渚子は森に出なかった。鬼に追われることも、崖の上で命を落としかけることもなかったんだ」
緋鶴の膝が崩れ落ちる。
「鬼のことなんて知らなかった!」
「結果は同じだ」
銀は容赦なく言い切った。
「お前から屋敷の采配権を剥奪する。今日この時をもって鷹城の内政に関わることを禁ずる。離れに下がれ。許しがあるまで謹慎だ」
「棟梁!! 十年です。十年、この一族のために……私はずっとお傍に……」
「その十年の信頼を、お前は自分で壊した」
最後の色が緋鶴の顔から落ち、押し殺してきたものが裂けたように噴き出した。
「嘘よ!! こんな女のどこがいいの!? 巫力もない、家柄もない、借金のかたに押しつけられただけの女じゃない! 私のほうがずっと銀様のお役に立てる!」
振袖は乱れ、涙と嗚咽で顔が崩れる。
「たかが鎮!! 触れたら眠たくなるだけの子守唄みたいな巫力の、何が……何が私の十年より価値があるの!」
銀は何も言わなかった。その沈黙が何より残酷だった。
「連れて行け」
侍女たちが両脇を抱え、緋鶴を引いていく。
「離して!! 銀様、お願い、もう一度だけ……!」
銀は背を向けたまま言った。
「もう一度言う。お前が十年積んだものを壊したのは、渚子じゃない。お前自身だ」
叫び声が渡り廊下の奥に消えていく。
渚子は、嫁いで七日目に「あなたの居場所はこの家にはない」と言われた日のことを思い出した。
同情はしなかった。ただ、胸の隅が少しだけ痛んだ。
銀の視線は広間の奥へ向く。
「もう一つ」
銀の声が広間を貫く。
「緋鶴を唆し、渚子が森へ出る経路を鬼の一派に流した者がいる。俺の身内の中に……鋼一郎、これは一体どういうことだ?」
一斉に鋼一郎へ視線が集まった。
鋼一郎は黒の羽織をまとい、白髪交じりの髪を几帳面に撫でつけていた。口元には人好きのする笑みを浮かべているが、目の奥には隠しきれない狼狽が滲んでいる。
それでも鋼一郎は、何事もなかったかのようにゆっくり立ち上がる。
「……銀。儂はお前の父の弟だ。一族のためを思わぬ日はなかった」
「ならば、なぜ鬼の一派に情報を流した」
「誤解だ。儂は緋鶴の暴走を止められなかっただけで――」
「犬塚」
低いひと言で、言い訳は断ち切られた。
犬塚が一歩進み出る。手には書簡の束があった。
「鋼一郎様と鬼の頭目との書簡の写しです。先月から三通。渚子様が森に入る夜の日時を指定した文も含まれております」
広間がざわめく。
鋼一郎の顔から、つくりものめいた穏やかさが剥がれ落ちた。
「……儂は森へ向かう道筋を教えただけだ。鬼がそれをどう使うかまでは関知しておらん」
その場の空気がさらに冷えた。
銀は一歩前に出る。軍靴の音が静まり返った広間に乾いて響いた。琥珀の瞳には、もはや怒りすらない。ただ、裁きを下す者の冷えた光だけがあった。
銀はさらに一歩、鋼一郎へ詰めた。
「叔父上。お前を鷹城一族重鎮の座から退ける。本日限りで議決権、発言権、人員の指揮権をすべて剥奪する。私兵も屋敷も封じる。明朝までに別邸へ移れ」
「待て、銀……! 儂をそんな形で退ければ、一族の均衡が――」
「こんなところまで娘と似ているとはな。均衡を崩したのはお前自身だ」
銀は冷ややかに言い切った。
「俺の妻を狙う手を、鬼に与えた時点でな」
「儂は三十年、この一族を支えてきたのだぞ!」
「……叔父上。父上と母上は、本日、北領視察のためこの席を外しておられる」
鋼一郎の喉がひくりと鳴る。
「父上がこの場におられたなら、お前は弁明を終える前に喉笛を噛み破られていたかもしれん。母上もまた、鬼に通じた身内を庇いはしなかっただろう」
広間の空気が凍りつく。
「だが、今ここに立っているのは俺だ」
銀は鋼一郎をまっすぐ見据えた。
「父上ほど短気でもなければ、母上ほど苛烈でもない。だからこそ、その場の激情で噛み殺したりはしない。法と家の掟に則って裁く。今日この場で生かしてもらえるだけありがたいと思え」
鋼一郎の顔色が目に見えて変わる。
銀は振り返りもせず命じた。
「犬塚。叔父上の配下を拘束しろ。屋敷と書庫を改め、関係書簡を回収する。逆らう者は、一族への叛意ありと見なせ」
「はっ」
控えていた者たちが鋼一郎の両脇につく。鋼一郎は腕を振り払おうとしたが、銀の視線が一度だけ向けられた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
広間にいる誰ひとりとして、助けようとはしなかった。
張り詰めていた空気がようやくほどけ、宴の流れも戻り始める。
渚子だけがなお、その場で右手を見下ろしていた。手首の噛み痕はまだ熱い。
その時、犬塚が告げる。
「棟梁。一族の者たちが奥方様にご挨拶を申し上げたいと」
銀が説明した。
「番いの儀だ。棟梁が手首の痕を刻んだあと、一族は番いに敬意と忠誠を示す」
「……はい」
広間へ戻ると、一族の者たちが列を作っていた。先頭の男が片膝をつき、渚子の手を取る。噛み痕へ視線を落としたあと、静かに額を寄せた。
「鷹城の奥方様に、一族の忠誠をお誓い申し上げます」
胸が震えた。
二人目、三人目と続く。次々と膝が折られ、額が手に触れていく。
その列の中には、長姉・志乃が嫁いだ龍神の子爵家の者たちもいた。
やがて志乃が進み出る。けれど膝をつけない。
「……どうして、あんたが」
その時、後方から低い声が飛んだ。
「志乃。何をしている! 早く膝をつけ」
志乃の夫である龍神家当主だった。
「でも、この女は私の妹で……」
「お前の妹は、人狼の棟梁が手首の痕を刻んだ番い。龍神家がその儀を軽んじたとあらば、恥をかくのは俺だとわからないのか!」
冷たい声に、志乃の顔が歪む。逆らえず、がくりと膝をつき、深く頭を下げた。
続いて千鶴が進み出る。こちらも膝を折らないまま、渚子を見下ろした。
「……鎮しか使えないくせに。今だけよ。そのうち飽きられて、また一人になる。あんたはいつだって、誰にも必要とされない子だったじゃない」
志乃の言葉が耳に届いたのだろう。銀の妖気が重くなる。けれど先に口を開いたのは渚子だった。
「……お姉様」
「お姉様の仰るとおりかもしれません。私には縛もありませんし、器量もよくない」
千鶴の目がわずかに見開く。
「でも、そんな私を信じて手を差し伸べてくださる方がいました」
渚子はまっすぐ姉を見た。
「その方の気持ちに、ちゃんと応えたいんです。だから私はここに立ち続けます。……たとえ、お姉様がなんと仰っても」
「っ!!!」
責める言葉は一つもない。だがその一言で、広間の視線は千鶴へ向かうーー棟梁の番いに噛みついた女として。
天狗の名家の当主が、二度目の視線を妻へ向けた。
それだけで十分だった。千鶴の膝が折れ、悔しそうに唇を噛んだまま頭を垂れる。
帽子を取り上げられた日のことが、ふと胸をよぎる。
(……私は今、あの日の私に何て言ってあげたらいいんだろう)
勝ったとは思わなかった。ただ胸の奥が静かに熱く、目頭が少しだけ滲んだ。
列の最後に、犬塚が進み出る。
他の者たちと同じように片膝をつき、渚子の手へ額を寄せた。
「……犬塚さん」
「はい」
「ありがとうございます。ずっと助けてくれて」
一瞬だけ目を見開いた犬塚は、すぐに深く頭を下げた。
「もったいないお言葉です」
*
儀が終わっても、渚子はしばらく動けなかった。右手にはまだ、一族の者たちの額のぬくもりが残っている。
銀が近づき、何気ない顔で軍礼装の上着を肩にかけた。鈴蘭の香りに包まれ、渚子はその襟をそっと握る。
息をつくように渡り廊下へ出ると、銀も隣に立った。
見上げた先には、少し欠けた月。
「……月が、綺麗ですね」
あの満月の夜を思い出し、胸が少し縮む。だが銀はしばらく月を見たあと、低く言った。
「お前と見る月は、悪くない」
その一言が胸の奥へ静かに落ちる。渚子は、張っていた肩の力が少し抜けていくのを感じながら、細く息を吐いた。
「しかし、俺のことを犬だと思っていたとはな」
「だ、だって!! あの時はまだ子供で、犬も狼も区別が……」
「飼い主を探してやると言って、鈴まで結んでくれたな」
しどろもどろになる渚子を見て、銀がわずかに目を細める。銀はさらに耳元へ少しだけ顔を寄せた。
「だが、鈴があれば大切な人が迎えに来るというのは本当だった」
吐息が耳にかすめ、渚子は慌てて上着の陰へ隠れるようにうつむいた。そのまま、噛み痕のない左手で銀の袖をそっとつまむ。
銀の手がわずかに止まり、こちらを見ないまま空いているほうの手で渚子の指先を包んだ。上着の陰で、誰にも見えないように。
*
帰りの馬車の中は静かだった。宴の喧噪が遠ざかり、車輪の音だけが夜道に続く。
ふいに銀が懐から小さな包みを取り出した。
「森に落ちていた荷物を、犬塚に探させたんだ」
布をほどいた瞬間、渚子は息を呑んだ。革表紙の植物図鑑。母の図鑑だった。
泥がつき、角は少し折れている。けれど頁を開けば、細密画は無事だった。
森で葛籠を投げ捨てた時、一瞬だけ見えた革表紙。拾いたかったけれど、立ち止まれなかった。
「ありがとうございます」
ようやくそう言うと、銀は窓の外を見たまま首を振る。
「礼はいい」
「いいえ。図鑑だけではなくて……これまでこと、全部」
月明かりが銀の横顔を照らしていた。
「……お前が何を大事にしているかくらい、分かる。ずっと見ていたんだから」
離れで一人だと思っていた日々まで、その言葉が静かに塗り替えていく。
渚子は図鑑を抱いたまま、銀を見た。
言葉にしようとするだけで、胸がひどく騒いだ。
「好きです」
銀の目がはっきりと見開かれる。
少しだけ視線を逸らしながら、耳の先が赤くなった。
「……もう一度」
「絶っっ対に聞こえていたでしょう!?」
「いや、聞こえなかった」
可笑しくなって、渚子は小さく笑う。
「好きです。銀様が」
次の瞬間、腰を引き寄せられた。体がそのまま銀の胸に収まり、背へ腕が回る。硬い軍服の奥に、たしかなぬくもりがあった。
「……俺もだ」
頭の上から声が落ちてくる。
「あの日から、ずっと。お前だけを想っていた」
髪へ、額へ、こめかみへ。銀の口づけがそっと触れる。軽いのに、そのひとつひとつが、取りこぼしてきた時間を埋めるようにやさしかった。
「お前が一人で泣いていた夜、俺は会いに行けなかった。その分を全部返したい。洋書も、異国の花も……お前が我慢してきたものを、一つ残らず叶えてやりたい」
図鑑の頁の向こうでしか知らなかった景色が、胸の奥に浮かぶ。
「お前が見たかった景色も、まだ知らない街も、憧れていた花も。これからは一緒に見に行こう」
それは、ずっと遠くに置いてきた夢だった。欲しがれば奪われると、自分で蓋をしてきた夢。
「もう何も我慢しなくていい。欲しいものは欲しいと言え。寂しい時は俺を呼べ」
渚子は銀の胸元に顔を埋めたまま、小さく笑った。
「……そんなに甘やかしたら、わがままになりますよ」
「渚子のわがままなら、いくらでも聞こう」
抱く腕に、少しだけ力がこもる。けれど次に落ちてきた声は、甘さだけではなかった。
「もちろん、今夜で全てが終わったわけじゃない。叔父もまだ諦めてはいないだろう。この先、お前を狙う者がまた現れるかもしれない」
低く静かな声に、警戒の色がにじむ。
「それでも、俺がいる。誰が来ようと、何が立ちはだかろうと、お前だけは必ず守り抜く」
名前を呼ばれるだけで胸が跳ねる。耳を寄せると、銀の心臓も少し速い。
怖いことは、きっとこれからもある。
棟梁の妻となり、手首にその証を刻まれた以上、渚子を狙う者はむしろ増えるのかもしれない。
(それでも)
図鑑でしか知らなかった花を見に行く日も、知らない街の風に触れる日も、満月を憎む夜を一緒に越える日々も。
(銀様と、共に生きていきたい)
馬車が門をくぐる。
銀は渚子を抱き寄せたまま、耳元で低く囁く。
「……愛してる、渚子」
欠けた月が、寄り添う二人の影を馬車の座席に淡く落としていた。


